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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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関白ではなく、雅継として


朝から続いていた評定が終わったのは、日が傾き始めた頃だった。


雅継が文を片づけていると、一人の公卿が近づいてきた。


「関白さまは、今宵も宇治へお戻りでございますか」


雅継の手が止まる。


「戻るとは、どういう意味だ」


「近頃は、宇治の別邸で夜をお過ごしになることが多いと伺いましたので」


「それが、そなたに何の関わりがある」


公卿は慌てて頭を下げた。


「いえ。ただ、宇治の方のお加減はいかがかと」


「宇治の方?」


雅継の声が低くなる。


「宴の夜に、二の宮さまとご一緒であった女人にございます」


「名も知らぬのか」


「は……」


「名も知らぬ女のことを、軽々しく口にするな」


公卿の顔から血の気が引いた。


「申し訳ございません」


「下がれ」


男が去ると、室内に残っていた者たちも口を閉ざした。


宇治の方。


いつの間にか、都では紗良がそう呼ばれ始めている。


雅継が宇治の別邸に住まわせた、身元の知れない女。


二の宮から御印の入った檜扇を贈られ、宴では関白がその身元を保証した女。


都の者たちにとって、紗良が何を思い、どこから来たのかなど関係ない。


誰に愛され、誰の庇護を受けているのか。


それだけで、女の価値も立場も決められる。


だが雅継にとって、紗良は宇治の方ではなかった。


誰かの姫でも、政のために迎えた女でもない。


ただ、紗良だった。


雅継の命を守るために矢を受けた女。


千年後へ続く光を背にしながら、自分のそばにいることを選んだ女。


そして今は、雅継へ「お帰りなさい」と言う女だった。


*


本邸へ戻ると、宇治から文が届いていた。


紗良の文字だと、開く前から分かった。


『今日は、庭の端まで歩きました。


檜扇も、自分で開けるようになりました。


二の宮さまがいらっしゃる前に、もう少し扱い方を覚えておこうと思います。』


最後に、小さく付け足されている。


『今夜は、戻ってこられますか。』


雅継は、その一文をしばらく見つめた。


政務はまだ残っている。


翌朝には、帝へ申し上げることもあった。


今夜は本邸へ留まったほうがよいことくらい、分かっている。


それでも雅継は筆を取った。


『戻る。』


一言だけを書き、使いへ渡す。


「日が暮れる前に届けよ」


「承知いたしました」


使いが出ていくと、雅継は紗良の文を折り畳み、衣の内へ収めた。


机の上には、目を通さなければならない文が積まれている。


官位を求める文。


土地を巡る争いを訴える文。


多くの者の行く末を決める文。


そこに紗良の文を置けば、すぐに紛れてしまう。


だから雅継は、いつも身につけていた。


それが誰かに知られれば、また余計な噂になるだろう。


それでも手放す気はなかった。


*


夜を待たず、清景が本邸を訪れた。


人払いを済ませると、清景は一枚の紙を雅継の前へ置いた。


「春の花びらを包んでいた紙に、文字が現れました」


雅継は紙を開いた。


『始まりを失えば、今も消える。』


短い言葉だった。


「どういう意味だ」


「まだ分かりません」


「また、それか」


「分からぬものは、分からぬと申し上げるほかございません」


清景は雅継の前でも変わらない。


「ただ、池に届いた最初の文と同じ者が残したものと考えております」


「なぜ分かる」


「墨の浮かび方が、池の術と同じでございます。普通に筆で書いたものではありません」


「始まりとは何だ」


「紗良がこの時代へ来たことかもしれません。あるいは、千年後の紗良が宇治へ導かれたことかもしれぬ」


雅継は紙を見つめた。


「今も消える、とは」


「始まりが失われれば、今ここにいる紗良も存在できなくなる。そのようにも読めます」


「紗良が春に戻らなければ、消えると申すのか」


「そこまでは書かれておりません」


「だが、その可能性はあるのだな」


清景は、すぐには答えなかった。


「ございます」


室内が静まり返る。


雅継は衣の内へ手を入れた。


先ほど届いた紗良の文が、そこにある。


今夜は、戻ってこられますか。


あの言葉を書いた紗良が、春になれば消える。


そのようなことを受け入れられるはずがない。


「春までに、確かめよ」


「そのつもりでございます」


「必ずだ」


「承知いたしました」


清景は紙を片づけなかった。


「関白さま」


「何だ」


「道が開いた時、紗良をどうなさるおつもりですか」


雅継の目が鋭くなる。


「今、答えることではない」


「春まで待てば、お答えになれるのでございますか」


「清景」


「紗良は、関白さまのお心を見て決めようとするでしょう。関白さまもまた、紗良の望みに従おうとなさる」


「何が言いたい」


「お二人とも相手に選ばせようとすれば、最後には選べなくなると申し上げております」


雅継は答えなかった。


清景の言葉が正しいことは分かっている。


光が開いたあの夜も、そうだった。


紗良を帰さねばならないと思いながら、帰したくないと願った。


紗良も家族のもとへ戻るべきだと思いながら、雅継のそばにいたいと願った。


二人とも、相手が望むならば自分の願いを捨てようとしていた。


最後に残ったのは、紗良が光へ背を向けたという事実だった。


「そなたは、紗良を帰すべきだと思っているのか」


雅継が尋ねる。


清景は少し考えてから答えた。


「私が決めることではございません」


「逃げるのか」


「関白さまと紗良のどちらかに恨まれる役目まで、進んで引き受けるつもりはございません」


清景らしい答えだった。


「ですが、二つの時が崩れるならば、私は陰陽師として道を閉じるか、紗良を通すか、どちらかを選ばねばならなくなります」


「その時は、私が決める」


「関白としてでございますか」


雅継は清景を見た。


「それとも、一人の男としてでございますか」


「同じことだ」


「今は、そう思っておかれるとよいでしょう」


清景は頭を下げた。


「では、私は池を調べます」


立ち去ろうとする背へ、雅継が声をかける。


「このことは、まだ紗良に申すな」


清景が振り返った。


「また隠されるのでございますか」


「確かなことが分かるまでだ」


「承知いたしました」


答えながらも、清景の顔には納得していないことが表れていた。


「ただし、長くは隠せません」


「分かっている」


清景が下がると、雅継は一人になった。


机の上には、春の花びらから現れた言葉が残っている。


衣の内には、紗良から届いた文がある。


二枚の紙の間に、関白として選ぶべきものと、一人の男として望むものが挟まれているようだった。


*


雅継が宇治へ着いた時には、夜も深くなっていた。


紗良のいる室には、まだ灯がともっている。


中へ入ると、紗良は文机の前に座っていた。


雅継の姿を見て、すぐに立ち上がる。


「お帰りなさい」


その言葉を聞いた瞬間、都から抱えてきたものが少し遠のいた。


「戻った」


「今日は、待っていたって先に言っておきます」


雅継は眉を上げた。


「急に素直になったな」


「前に、最初からそう言えばいいと言われましたから」


紗良が笑う。


「でも、思っていたより遅かったです」


「政務が長引いた」


「お疲れではありませんか」


「そなたの顔を見れば、忘れる」


紗良の笑みが止まった。


「そんなこと、急に言わないでください」


「なぜだ」


「何て返したらいいか、分からなくなります」


「答えを求めてはおらぬ」


雅継は紗良の前まで歩き、右手を取った。


指先は温かかった。


矢を受けた直後は冷たく、いくら握っても温もりが戻らなかった。


今は、自分の手を握り返してくれる。


それだけでよいと思う。


同時に、それだけでは足りないとも思った。


「今日は何をしていた」


「庭を歩きました。それから、檜扇の扱い方を教えてもらいました」


「文にも書いてあったな」


「もう読んだのですか」


「ああ」


「どこへ置きました?」


雅継は答えなかった。


紗良が首を傾げる。


「雅継さま?」


「ここだ」


雅継は衣の内から、折り畳んだ文を取り出した。


「ずっと持っていたのですか」


「ああ」


「短い文なのに」


「そなたも、私の一言だけの文を何度も読んでいただろう」


「それは、もう言わないでください」


紗良は恥ずかしそうに目を伏せた。


雅継はその頬へ触れた。


「こちらを見よ」


紗良が顔を上げる。


唇を重ねると、紗良は驚かなかった。


そっと目を閉じ、雅継の衣へ右手を添える。


以前より自然に受け入れられたことが嬉しい。


だが、その喜びの奥には、清景の言葉が残っている。


始まりを失えば、今も消える。


雅継は紗良の身体を抱き寄せた。


傷へ触れないよう、左肩を避けて腕を回す。


「雅継さま?」


「しばらく、このままでいろ」


紗良は何も尋ねなかった。


雅継の胸元へ頬を寄せ、その背へ右手を回す。


「はい」


静かな声だった。


関白である雅継ならば、二つの時を守るために何を選ぶべきか、いずれ考えなければならない。


多くの者の暮らしと、紗良一人を同じ秤へ載せる日が来るのかもしれない。


だが今、この腕の中にいる紗良を手放すことなど考えられなかった。


「紗良」


「はい」


「そなたがここにいることを、私は後悔しておらぬ」


紗良が顔を上げた。


「急に、どうしたのですか」


「申しておきたかっただけだ」


紗良は雅継を見つめたあと、もう一度胸元へ頬を戻した。


「私も、ここにいることを後悔していません」


その言葉に、雅継は目を閉じた。


春が来なければよい。


関白として決して口にできない願いが、初めて胸に浮かんだ。


今夜だけは、何も選びたくなかった。


関白ではなく、ただ紗良を愛する一人の男として、彼女の温もりを抱いていたかった。

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