お帰りなさいませ
宇治で暮らし始めてから、紗良の一日は穏やかに過ぎていった。
朝は、板戸の向こうから聞こえる鳥の声で目を覚ます。
女房に手伝ってもらいながら衣を整え、傷の具合がよければ庭を歩く。
昼には文机へ向かい、姫や二の宮から届いた文へ返事を書いた。
二の宮からは、短い文が何度も届いた。
『橋を越えて歩いている。
そなたも、いつまでも寝ておるな。』
心配しているとは、一言も書かれていない。
それでも、紗良が傷を負ったことを案じているのは分かった。
紗良は、
『傷は少しずつ癒えております。
二の宮さまも、橋を越えた先でお休みください。』
と返した。
数日後、届いた文には、
『余計なことまで書くな。』
とだけあった。
それを読んで笑っていると、そばにいた女房も口元を隠した。
姫からは、宮中の庭に咲いた花を詠んだ歌が届いた。
紗良は何度も読み返し、まだ慣れない和歌で返事をした。
宇治にいても、都とのつながりは途切れていない。
そのことが嬉しかった。
けれど、一日の中で最も待ち遠しいのは、雅継から届く文だった。
*
雅継は、毎日宇治へ来られるわけではなかった。
政が長引けば都へ留まり、三条の邸で若君と過ごす日もある。
そのような日には、日が暮れる前に使いが来た。
文に書かれているのは、いつも短い言葉だけだった。
『今宵は戻れぬ。先に休め。』
最初に届いた時、紗良は文を見つめたまま首を傾げた。
「これだけですか」
使いの男が困ったように頭を下げる。
「関白さまより、確かにお預かりしてまいりました」
「あ、あなたに聞いたのではありません。すみません」
紗良は男を下がらせ、文をもう一度読んだ。
今夜は戻れない。
先に休め。
それだけで、雅継の声が聞こえるようだった。
紗良は筆を取り、返事を書いた。
『承知いたしました。
お帰りをお待ちせず、先に休ませていただきます。』
ところが翌朝、雅継から新しい文が届いた。
『待たぬことを、わざわざ書く必要はない。』
紗良は思わず笑った。
すぐに返事を書く。
『先に休めと仰せになったのは、雅継さまです。』
その日の夕方、さらに短い文が届いた。
『口答えだけは、遠くにいても変わらぬな。』
紗良は文を手にしたまま、しばらく笑いが止まらなかった。
雅継の文は、相変わらず短い。
優しい言葉が並んでいるわけでもない。
それなのに、都にいる雅継と同じ時を過ごしているように思えた。
紗良はすべての文を箱へ収めた。
何度も開いて読んでいることは、雅継には内緒にしておくつもりだった。
*
傷がほとんど塞がる頃には、紗良は一人で庭を歩けるようになっていた。
左腕を高く上げることはできない。
それでも、衣を着る時に少し手伝ってもらうほかは、以前と同じように過ごせる。
池の近くには、まだ警固の者がいる。
清景から止められているため、池へは近づかなかった。
代わりに宇治川が見える庭の端まで歩き、流れを眺めることが日課になった。
その日、都から戻った雅継は、庭にいる紗良を見つけると黙って近づいてきた。
「お帰りなさいませ」
紗良が振り向いて告げる。
「ああ」
雅継は紗良の肩へ目を向けた。
「痛みは」
「今日は、ほとんどありません」
「本当か」
「本当です」
雅継が疑うように見つめる。
「では、腕を動かしてみよ」
「試すようなことをしないでください」
「本当だと申すなら、できるだろう」
紗良は左腕を少し上げた。
肩の高さまで届く前に、傷の奥が引きつる。
顔には出さないつもりだったが、雅継には分かったらしい。
「まだではないか」
「以前より上がりました」
「痛むところまで動かすな」
「雅継さまが、動かしてみよと」
「そなたが無理をせず止められるか確かめただけだ」
「ひどいです」
雅継は悪びれた様子もなく、紗良の右手を取った。
「戻るぞ」
「今、いらしたばかりでしょう」
「風が冷たくなってきた」
言われてみれば、宇治川から吹く風には冬の気配が混じっている。
紗良は雅継と並び、室へ戻った。
つないだ手は、庭を歩き終えても離れなかった。
*
別の日、雅継から届いた文には、いつもと違うことが書かれていた。
『今宵は遅くなる。待つな。』
紗良は短い返事を書いた。
『承知いたしました。』
それだけにした。
先に休むとも、待たないとも書かなかった。
夜が更けるにつれ、雨が降り始めた。
板戸を打つ雨音が次第に強くなる。
女房から休むよう勧められたが、紗良は灯のそばで雅継の文を読み返していた。
待つなと言われた。
だから、待っているわけではない。
眠くならないだけだと、自分に言い聞かせる。
それでも牛車の音が聞こえた瞬間、紗良は立ち上がっていた。
室を出ると、雨の向こうから雅継が歩いてくる。
供の者が傘を差しかけていたが、衣の裾は濡れていた。
「雅継さま」
雅継は紗良の姿を見ると、眉を寄せた。
「なぜ起きている」
「眠くなかったので」
「待つなと書いたはずだ」
「お待ちしていたとは申していません」
「では、何をしていた」
紗良は手に持った文へ目を落とした。
雅継から届いたものだった。
「文を読んでいました」
「私が書いたのは、待つなという一言だけだろう」
「二言です。今宵は遅くなる、と」
「何度も読むほどのことか」
「何度も読んだとは言っていません」
雅継が、紗良の持つ文を取る。
紙には、開いては閉じた跡が残っていた。
「これを、何度も読んでいたのではないのか」
「……少しだけです」
雅継の口元がわずかに緩む。
「素直ではないな」
「雅継さまに言われたくありません」
紗良は雅継の濡れた袖へ目を向けた。
「お寒いでしょう。早く中へ」
「待っていたのだろう」
「待っていません」
「では、私は都へ戻るか」
雅継が踵を返すふりをする。
紗良は反射的にその袖をつかんだ。
左手を使ったため、肩にわずかな痛みが走る。
けれど、離さなかった。
雅継が振り返る。
「お帰りになったばかりです」
「待っていなかったのでは」
「それと、これとは別です」
「何が別なのだ」
「もう、中へ入ってください」
雅継は紗良の手を見た。
袖をつかんだ指に、力が入っている。
「ならば、申せ」
「何をですか」
「私を待っていたと」
紗良はしばらく雅継を見つめた。
雨の音が二人の周りを包んでいる。
「……お待ちしていました」
ようやく答えると、雅継の顔から満足そうな色が消えた。
代わりに、目がわずかに細くなる。
「初めから、そう申せばよい」
雅継の手が紗良の頬へ触れた。
冷えた指先だった。
けれど、その触れ方は優しい。
顔が近づく。
以前、庭で額へ口づけられたことを思い出し、紗良は目を閉じた。
「今度は、閉じるのが早いな」
低い声がすぐ近くで聞こえた。
紗良は目を開けた。
雅継の顔が、驚くほど近くにある。
「慣れよと仰ったので」
「そうだったな」
次の瞬間、唇が重なった。
触れるだけの、短い口づけだった。
それでも紗良は、雅継の袖をつかんだまま動けなかった。
雅継が少し離れる。
「まだ、驚くか」
紗良は答えられなかった。
雅継の目を見ていることもできず、濡れた袖へ視線を落とす。
「紗良」
呼ばれて顔を上げる。
もう一度、唇が重なった。
今度は先ほどよりも長かった。
雨の音も、庭に控える者の気配も遠くなる。
雅継の手が、傷のない右肩を引き寄せる。
紗良はそっと目を閉じた。
やがて唇が離れても、二人の距離は近いままだった。
「慣れたか」
雅継が尋ねる。
紗良は小さく首を振った。
「まだ、難しいです」
「ならば、これからだな」
「何度もなさるおつもりですか」
「嫌か」
すぐには答えられなかった。
嫌ではない。
むしろ、離れたことが少し寂しい。
「嫌では……ありません」
雅継は満足したように紗良の手を取った。
「それでよい」
*
冷えた衣を替えた雅継と、紗良は同じ室で遅い食事を取った。
都で何があったのか。
若君が新しい文字を書けるようになったこと。
二の宮から、宇治へ向かう日を決めたと文が届いたこと。
紗良が昼間、檜扇の扱いを女房から習ったこと。
二人は、これまで別々に過ごしていた時間を埋めるように話した。
「二の宮さまが、いらっしゃるのですか」
「ああ。医師と橘を伴い、ゆっくり来るそうだ」
「お身体は大丈夫でしょうか」
「止めても来るだろう。ならば、支度を整えさせたほうがよい」
「また叱られますね」
「そなたは約束を違えたからな」
「雅継さまも一緒に叱られてください」
「なぜ私まで」
「半分ずつとお約束しました」
雅継は覚えていないふりをするように、器へ目を落とした。
紗良は笑った。
雨の夜。
温かな灯。
向かいに座る雅継。
それは現代にいた頃なら、何でもない日常だったのかもしれない。
けれど、この時代に来てから、紗良には帰りを待つ人も、自分の帰りを待ってくれる人もいなかった。
今は違う。
都へ向かう雅継へ、行ってらっしゃいませと言える。
戻った雅継へ、お帰りなさいませと言える。
そして雅継も、この邸を自分が戻る場所だと言った。
それだけのことが、紗良には不思議なほど幸せだった。
食事を終える頃には、雨が少し弱くなっていた。
雅継が紗良の右手を取る。
「今宵は、もうどこへも行かぬ」
「はい」
紗良はその手を握り返した。
春のことも、池に現れた花びらも、二通の文も、今夜だけは考えなかった。
ただ、雅継がここにいる。
その幸せだけを、静かに抱きしめていた。




