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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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傷が癒えても


紗良が矢傷を負ってから、十日余りが過ぎた。


肩に巻かれていた布は薄くなり、左腕も少しずつ動かせるようになっている。


医師から短い時間なら庭を歩いてもよいと言われた朝、紗良は久しぶりに外へ出る支度を整えた。


衣を重ねるだけでも、まだ肩の奥が痛む。


女房が左袖を通すのを手伝い、帯にあたる部分を緩く整えてくれた。


「苦しくはございませんか」


「大丈夫です。ありがとうございます」


薄紅色の衣は、宇治の別邸に用意されていたものだった。


姫の局や二の宮の邸で借りていた衣とは違う。


誰のものでもない、紗良のために仕立て直された衣だという。


「こちらを」


女房が差し出したのは、二の宮から贈られた檜扇だった。


「庭へ出るだけですから、持たなくてもよいのでは?」


「関白さまが、お持ちになるようにと」


「雅継さまが?」


女房は笑みを浮かべ、檜扇を紗良の右手へ預けた。


「よくお似合いでございます」


扇面には、紅葉と流水が描かれている。


今の宇治の庭と同じ景色だった。


紗良が室を出ると、雅継が待っていた。


いつものような重い色の衣ではなく、庭を歩くためか、少し軽い装いをしている。


紗良の姿を見ると、檜扇へ目を向けた。


「持ってきたな」


「持つように言われたと聞きました」


「そなたの物だ。しまっておくだけでは意味がない」


「庭を歩くのにも必要なのですか」


「必要かどうかではない」


相変わらず、理由になっているようでなっていない。


紗良は檜扇を胸元へ寄せた。


「似合わぬか」


「いいえ。二の宮さまの御印が入っているので、少し緊張します」


「私の前で持つことに、何を緊張する」


「雅継さまから見れば、別の男性から贈られたものですから」


言ってから、紗良は少し驚いた。


以前なら、このようなことは口にできなかった。


雅継の眉がわずかに動く。


「それを申すために、持ってきたのか」


「違います」


「ならば、余計なことを申すな」


不機嫌そうな顔をしている。


紗良は笑いをこらえながら、檜扇を閉じた。


雅継が右手を差し出す。


「行くぞ」


紗良はその手を見た。


「もう、一人で歩けます」


「知っている」


「では、なぜ」


「歩けぬと思っているのではない」


雅継は差し出した手を下ろさなかった。


「私が、そなたの手を取りたいのだ」


紗良は言葉を失った。


庭の入り口には、女房や警固の者たちが控えている。


皆、こちらを見ていないふりをしていた。


「人が見ています」


「それがどうした」


雅継は周囲の視線など気にしていない。


紗良は少し迷ったあと、右手を重ねた。


指が絡む。


大きな手に包まれた瞬間、胸の奥が温かくなった。


「ゆっくり歩け」


「はい」


二人は並んで庭へ下りた。


*


池へ続く道には、まだ警固の者が立っている。


清景から近づかぬよう言われているため、二人は池と反対側の庭を歩いた。


木々は深く色づき、赤や黄色の葉が足元を覆っている。


紗良は雅継の手を借りながら、一歩ずつ進んだ。


十日ほど寝て過ごしただけなのに、庭の端までが遠く感じられる。


「疲れたか」


「まだ大丈夫です」


雅継が足を止める。


「今度の大丈夫は、本当か」


「本当です」


「顔に書いてある」


「何とですか」


「少し座りたい、と」


紗良は自分の顔へ触れた。


「そのようなことまで分かるのですか」


「そなたのことならばな」


何でもないことのように言われ、紗良は返す言葉を失った。


雅継は庭の端に用意されていた座へ紗良を導いた。


風が通り、木の葉が二人の前を舞っていく。


遠くには宇治川の流れが見えた。


池よりも大きく、絶えず動き続けている。


「宇治川は、思っていたより流れが速いですね」


「そなたが現れた夜も、そうだった」


「私を見つけた時のことですか」


「ああ」


雅継は川の方角へ目を向けた。


「池のそばに、見慣れぬ衣を着た女が倒れていると知らせが来た。初めは、誰かが私の邸へ忍び込ませたのだと思った」


「随分、怪しまれていたのですね」


「当然だ。持っている物も、話す言葉も、何一つ分からぬ女だった」


「今は、少し分かりますか」


雅継が紗良を見る。


「少しどころではない」


「本当でしょうか」


「そなたは、案じられたくない時ほど大丈夫だと申す。考えを隠している時は遠くを見る。言い返せぬ時だけ、妙に素直になる」


紗良は黙った。


どれも思い当たることばかりだった。


「よくご覧になっているのですね」


「見ている」


迷いのない答えだった。


「そなたが思っているより、ずっとな」


紗良は檜扇へ目を落とした。


胸の鼓動が、先ほど歩いた時よりも速くなっている。


風が吹き、左の袖がわずかに揺れた。


その動きに肩が引かれ、紗良は小さく顔を歪める。


雅継がすぐに気づいた。


「痛むのか」


「少しだけです」


「戻るぞ」


「もう少し、ここにいたいです」


「だが」


「久しぶりに、雅継さまと外を歩けたので」


雅継は何も言わなくなった。


紗良は左肩へ右手を添えた。


「傷痕が残るそうです」


医師から、完全には消えないだろうと聞いている。


鏃が刺さった場所には、赤い傷が残っていた。


「そうか」


雅継の声が低くなる。


「きれいには、戻らないかもしれません」


紗良は傷そのものを恥じているわけではなかった。


それでも、これから先、肩を見るたびに、あの夜を思い出すのだろう。


光の向こうへ帰らず、雅継を庇って矢を受けた夜を。


雅継が紗良の右手を取った。


「それは、そなたが私を守った痕だ」


指先を包む手に力がこもる。


「醜いはずがない」


「雅継さま」


「そなたが見るたびにつらいのなら、私もともに覚えておく」


雅継は紗良の手を持ち上げ、その指先へ静かに唇を触れさせた。


一瞬のことだった。


けれど、触れた場所から熱が広がっていく。


紗良は動くことも、言葉を返すこともできなかった。


雅継は手を離さず、紗良を見つめている。


「なぜ、そのような顔をする」


「どのような顔ですか」


「今にも逃げ出しそうな顔だ」


「逃げません」


「ならば、こちらを見よ」


紗良はゆっくりと顔を上げた。


視線が重なる。


雅継の手が頬へ触れた。


逃げるつもりはなかった。


それでも、顔が近づくと、紗良は思わず目を閉じた。


額に、柔らかなものが触れる。


唇だと分かるまで、少し時間がかかった。


雅継はすぐに離れた。


「目を開けよ」


「今ですか」


「今だ」


紗良が目を開けると、雅継はどこか不満そうだった。


「どうして、そのようなお顔を」


「そなたが、あまりにも驚くからだ」


「驚きます」


「私が触れることが、それほど意外か」


「これまで、手をつなぐだけでしたから」


「では、これから慣れよ」


いかにも雅継らしい言い方だった。


紗良は頬が熱くなるのを感じながら、再び檜扇へ目を落とした。


「急には、難しいです」


「春までには慣れるだろう」


その言葉に、紗良の胸がわずかに揺れた。


春。


池に道が開くかもしれない季節。


雅継も気づいたのか、それ以上は何も言わなかった。


*


室へ戻ると、女房たちが新しい調度を運び入れていた。


小さな文机。


衣を収める箱。


香を入れるための器。


どれも、これまでこの室にはなかったものだった。


「これは?」


紗良が尋ねると、女房が雅継へ目を向けた。


「関白さまより、こちらの局へお運びするようにと仰せつかりました」


「私のために?」


雅継は当然のように座へついた。


「ほかに誰がいる」


「傷が治るまでにしては、多くありませんか」


「誰が、傷が治るまでと申した」


紗良は雅継を見た。


「以前、雅継さまが」


「考えを改めた」


雅継は迷いなく告げた。


「傷が癒えても、この邸におれ」


紗良は運び込まれた品々へ目を向けた。


自分の衣。


自分の文机。


自分が使うための香の器。


一時的に身体を休めるための室ではない。


ここで暮らすためのものだった。


「私が、この別邸にいてもよいのですか」


「ああ」


「でも、私はここで、何をすれば」


「何も決める必要はない。そなたの好きに過ごせばよい」


「そのような暮らしをしたことがありません」


「ならば、これから覚えればよい」


雅継が紗良の右手を取る。


「この邸を、そなたが戻る場所にすればよい」


紗良は周囲を見渡した。


目を覚ませば、宇治の池が見える室。


二の宮から贈られた檜扇。


雅継が用意した文机と衣。


千年後へ続く道が現れたこの場所が、今度は自分の暮らす場所になる。


「では、雅継さまがお戻りになった時に、お帰りなさいませと言えますね」


「ああ」


雅継の指が、紗良の指へ絡む。


「ここは、私がそなたのもとへ戻る場所でもある」


紗良は雅継の手を握り返した。


大きな愛の言葉を返すことはできなかった。


ただ、その手を離したくないと思った。


「お待ちしています」


紗良が告げると、雅継の目がわずかに細くなった。


開かれた板戸の向こうでは、赤い葉が風に舞っていた。


その先にある池は、今は秋の空だけを映している。


春が来るまで、この場所でどれほどの時間をともに過ごせるのか。


まだ誰にも分からない。


それでも宇治の別邸は、その日から、紗良が傷を癒すためだけの場所ではなくなった。

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