二通の文
三条の方から託された文が、清景のもとへ届いたのは翌朝だった。
使いの女房は、誰にも見せてはならぬと言いつけられたと告げ、包みを差し出した。
「三条の方は、ほかに何と申していた」
「まずは清景さまにお調べいただきたいと。それから、若君のお耳へ入らぬようにしてほしいと仰せでございました」
「分かった」
女房を下がらせると、清景は包みを開いた。
差出人の名はない。
『関白は、宇治の女に心を奪われた。
いずれ若君の居場所も、あの女に奪われよう。』
清景は一度読んだだけで紙を閉じた。
「つまらぬことを考える」
このような文で、三条の方が紗良を敵と見なすとでも思ったのだろうか。
送り主は、三条の方と紗良がすでに顔を合わせ、その人柄を知っていることまで把握していないらしい。
清景は、宇治の池で見つかったもう一通の文を取り出した。
『この世にない女が、この世へ留まった。
時の流れは、すでに乱れ始めている。
失うものが、関白一人で済むと思うな。』
二通の文を並べる。
どちらも差出人の名はなく、紗良の存在に関わることが書かれている。
同じ者から届いたようにも見えた。
だが、清景は紙の端を押さえ、折り目を確かめた。
池のそばに置かれていた文は、ただ二つに折られている。
三条の方へ届いた文には、内側へ重ねる細かな折り目があった。
襲撃者が持っていた命令の文と同じ折り方だった。
清景は紙を灯へ近づける。
折り重なった部分の奥に、かすかな墨の線が見えた。
すべて広げなければ気づかないほど小さい。
それでも、雅継の病床へ届いた文と、襲撃者が持っていた文に忍ばされていた印の一部だと分かった。
「こちらは、同じか」
三条の方へ文を送った者は、宇治で矢を放たせた者とつながっている。
では、池へ文を置いたのは誰なのか。
そちらには印がない。
紙も、折り方も違う。
紗良を脅しているようでありながら、時の乱れを知らせてもいる。
清景は二通の文を別々に包んだ。
動いている者は、一人ではなかった。
*
宇治へ着いた清景を、紗良は板戸の近くに座って迎えた。
左肩はまだ自由に動かせないが、顔色は戻りつつある。
「何か分かったのですか」
清景の手にある二つの包みを見て、紗良が尋ねた。
「関白さまがお戻りになってから話す」
「私にも関わることですね」
「ああ」
「では、待ちます」
紗良はそれ以上尋ねなかった。
清景は少し意外そうに見る。
「何ですか」
「いや。そなたなら、すぐ見せろと申すかと思った」
「清景さまが持っているものを、力ずくで奪えるとは思っていません」
「賢明だ」
「褒められた気がしません」
清景は答えず、庭へ目を向けた。
秋の池は静かだった。
あの水面に春の桜が映ったとは思えないほど、穏やかな光をたたえている。
「春の花びらは、まだ残っていますか」
「残っている」
「本当に春のものだったのですね」
「今のところはな」
清景の答えに、紗良は池を見つめた。
次に道が開くかもしれない春。
それが何を意味するのか、まだ考えきれずにいた。
*
雅継が宇治へ戻ると、清景は人払いを求めた。
紗良も同じ室に残っている。
雅継は清景へ目を向けた。
「紗良の前で話すのか」
「そのつもりでございます」
「傷が癒えるまで待てぬのか」
「傷が癒えれば、今度は別の理由で隠されるおつもりでしょう」
「清景」
低い声で名を呼ばれても、清景は引かなかった。
「自分へ向けられたものを知るのは、紗良の権利でございます」
雅継は紗良を見る。
「そなたも知りたいのか」
紗良は頷いた。
「はい」
しばらくの沈黙のあと、雅継は紗良の隣へ座った。
「分かった」
清景は最初の文を紗良の前へ置いた。
「これは、満月の夜から数日後、池のほとりで見つかった」
紗良は宛名を見た。
『月の道より来たりし女へ』
指先が止まる。
「私に?」
「ああ」
雅継が答えた。
紗良は文を開き、書かれた三行を読んだ。
『時の流れは、すでに乱れ始めている。』
秋の池に映った桜。
水の中から現れた春の花びら。
あれは偶然ではなかったのかもしれない。
「これを、私に隠していたのですね」
紗良が雅継を見る。
「そなたは矢を抜かれたばかりだった」
「そうでしたね」
紗良は文へ視線を戻した。
隠されたことを責める気にはなれなかった。
あの時の自分は、目を覚ましているだけでもつらかった。
「この文を書いた者は、私がどこから来たのか知っているのでしょうか」
「池を見ていた者ならば、光の向こうも見た可能性がある」
清景が答えた。
次に、三条の方へ届いた文を広げる。
紗良は、そこに書かれた言葉を読んだ。
『いずれ若君の居場所も、あの女に奪われよう。』
胸の奥が冷たくなる。
「三条の方は、これを……」
「私へ送ってきた」
清景が答えた。
「関白さまへも、若君にも見せずにな」
紗良は文から顔を上げた。
「では、三条の方は、私を疑っていないのですね」
「そのようだ」
紗良はゆっくりと息を吐いた。
姫に仕えていた頃、三条の方はいつも静かに周囲を見ていた。
多くを語る人ではなかったが、目の前にいる相手を噂だけで決めつける人でもなかった。
「三条の方らしいです」
紗良の声に、安堵が滲んだ。
「腹は立たぬのか」
雅継が尋ねる。
「この文を書いた方には、腹が立ちます」
紗良は紙へ目を落とした。
「でも、三条の方が信じなかったのなら、思いどおりにはなっていません」
清景が二通の文を並べた。
「この二つは、同じ者から届いたものではない」
「分かったのか」
雅継が尋ねる。
「三条の方へ届いた文は、襲撃者が持っていた文と同じ折り方をしております。折り目の奥には、同じ印もございました」
「では、矢を放たせた者が、三条の方を動かそうとしたのか」
「その可能性が高いでしょう」
紗良が、池で見つかった文へ目を向ける。
「こちらは?」
「紙も折り方も違う。あの印もない」
「では、誰が」
「分からぬ」
清景ははっきりと答えた。
「ただ、そなたを脅すだけならば、時の乱れまで知らせる必要はない」
「警告ということですか」
「そうかもしれぬ。だが、味方と決めるのは早い」
一人は、紗良を利用して雅継の周囲を乱そうとしている。
もう一人は、二つの時に何が起きているのかを知っている。
同じ影に見えていたものが、二つに分かれた。
「紗良」
雅継に呼ばれ、顔を上げる。
「そなたは、若君から何も奪っておらぬ」
「はい」
「三条も、そう分かっている」
「それも、分かりました」
雅継は紗良の顔を確かめるように見つめた。
「ならばよい」
清景は二通の文を包み直した。
「三条の方へ届いた文から、襲撃を命じた者を追います。池の文については、別に調べる必要がございます」
「何か手がかりはあるのですか」
「春の花びらだ」
清景は立ち上がった。
「池の文が時の乱れを警告するものならば、あの花びらにも何か残されているかもしれぬ」
*
清景は池のほとりで、紙の包みを開いた。
中には、秋の水面から現れた桜の花びらが入っている。
見つけた時と変わらず、薄桃色を保っていた。
だが、花びらを包んでいた紙の内側に、昨日まではなかったものが浮かんでいる。
細く滲んだ、墨のような線。
清景は花びらを持ち上げた。
その下には、短い言葉が残されていた。
『始まりを失えば、今も消える。』
清景の目が鋭くなる。
始まりとは何を指すのか。
紗良がこの時代へ来たことか。
それとも、千年後に紗良を宇治へ導いた何かか。
秋の池には、何事もなかったように空が映っている。
清景は紙を折り畳んだ。
春に開く道は、紗良が戻るための機会というだけではない。
二つの時をつなぎ止める、最後の道になるのかもしれなかった。




