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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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三条の方に届いた文


雅継が三条の邸を訪れたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。


三条の方と若君が暮らすこの邸は、雅継の本邸とは離れた場所にある。


もとより、雅継が頻繁に足を運ぶことはなかった。


政が重なれば、長く訪れられないこともある。


それでも、雅継が来たという知らせを受けると、若君は手習いの途中で筆を置き、出迎えに走ってきた。


「父上」


雅継の前まで来ると、若君は覚えた作法を思い出したように足を止め、深く頭を下げた。


「お久しゅうございます」


「ああ。元気にしていたか」


「はい」


顔を上げた若君は、嬉しさを隠しきれない様子だった。


「父上に、お見せしたいものがございます」


「何だ」


「こちらです」


若君が雅継の袖を取り、手習いをしていた室へ連れていく。


そこには、書きかけの紙が何枚も並べられていた。


どの紙にも、同じ文字が繰り返し書かれている。


形はまだ不揃いだが、一文字ずつ丁寧に筆を運んだことが分かる。


「これは、そなたが書いたのか」


「はい」


若君は、その中から一枚を選んだ。


「父上に見ていただこうと思って、取っておきました」


差し出された紙には、雅継の名の一字が大きく書かれていた。


何度も書き直した跡がある。


「よく書けている」


雅継が言うと、若君の顔が明るくなった。


「本当ですか」


「ああ。前に見た時より、筆に迷いがない」


「母上にも、同じことを言われました」


若君は嬉しそうに紙を抱えた。


「今度は、父上のお名前をすべて書けるようになりたいです」


「ならば、よく学べ」


「はい」


若君は力強く頷いた。


雅継は、その頭へ手を置く。


政の場では、誰もが雅継の言葉の裏を探ろうとする。


わずかな表情の変化さえ、次の人事や政争へ結びつけて考える。


けれど若君は、ただ父に文字を見てもらえたことを喜んでいる。


「父上」


「何だ」


「宇治には、大きな川があるのですか」


雅継の手が止まった。


「誰から聞いた」


「女房が話していました。父上が、この頃、宇治へお出かけになっていると」


後ろに控えていた女房たちが、気まずそうに顔を伏せる。


若君は気づかずに続けた。


「都よりも、川の音が大きいのですか」


「ああ。流れも速い」


「見てみたいです」


「今はならぬ」


雅継がすぐに答えると、若君は少し残念そうな顔をした。


「危ない場所なのですか」


「今は、近づかぬほうがよい」


「では、大きくなったら連れていってください」


雅継は一瞬、言葉を止めた。


宇治の池。


満月の光。


秋の水面に映った春の桜。


若君が大きくなる頃、あの場所がどうなっているのかは分からない。


「その時に、考えよう」


「はい。お約束です」


若君は満足したように笑った。


*


若君が手習いの師のもとへ戻ると、三条の方が雅継の前へ座った。


落ち着いた色の衣をまとい、いつもと変わらぬ穏やかな顔をしている。


「紗良さまのお加減は、いかがでございますか」


三条の方は、迷いなく紗良の名を口にした。


「熱は下がった。傷はまだ痛むようだが、少しずつ起きられるようになっている」


「そうでございますか」


三条の方は安堵したように息をついた。


紗良が姫に仕えていた頃、三条の方も何度か顔を合わせている。


姫が病に伏した時も、入内を前に心を揺らしていた時も、紗良はそばにいた。


この時代の作法には不慣れでありながら、相手の身分によって態度を変えない、不思議な女だった。


「関白さまを庇って、矢を受けたと伺いました」


「ああ」


「紗良さまらしいと思う一方で、あまりにも無茶なことをなさるとも思いました」


「まったくだ」


雅継の答えがあまりに早く、三条の方の口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「以前よりも、ずいぶんと大切になさっているのですね」


雅継は否定しなかった。


「私の命より大切だ」


三条の方の笑みが消える。


驚いたのではない。


その言葉の重さを受け止めるように、静かに雅継を見つめている。


「そうでございますか」


「そなたと若君の暮らしを変えるつもりはない」


「承知しております」


「若君は私の子だ。その立場も、この先も、私が守る」


三条の方は、ゆっくりと頭を下げた。


「そのお言葉を疑ってはおりません」


「ならば、何を案じている」


「周囲でございます」


三条の方は顔を上げた。


「関白さまがどのようにお考えでも、ほかの者たちは、自分たちに都合のよい形で噂を広げます」


「すでに、何か聞いたのか」


「関白さまが、宇治の別邸に女を住まわせていると」


「まだ住まわせたわけではない。傷を癒すために休ませている」


「噂をする者には、その違いは届きません」


三条の方は静かに続けた。


「二の宮さまの御印が入った檜扇を持ち、宴の席では関白さまが身元をお引き受けになった。さらに宇治で、関白さまを庇って傷を負った。そこまで知られております」


雅継の目が鋭くなる。


「襲撃のことまで、広まっているのか」


「矢を受けたのがどなたかまでは伏せられております。ですが、関白さまが宇治へ通っておられることと結びつけて考える者はいるでしょう」


宴には多くの者がいた。


二の宮の檜扇を見た者も、雅継が紗良の身元を保証した言葉を聞いた者もいる。


すべてを隠すことは、初めからできなかった。


「紗良は、家も後ろ盾も持たぬ」


「だからこそ、利用しやすいと考える者も現れます」


三条の方の声が少し硬くなる。


「あの方を自分たちの側へ取り込もうとする者も、反対に、関白さまから遠ざけようとする者もいるでしょう」


「そなたは、紗良をどう思っている」


雅継が尋ねると、三条の方は迷わず答えた。


「姫さまを大切にしてくださった方です」


三条の方の目に、穏やかな光が戻る。


「姫さまが心細い時、紗良さまは身分ではなく、一人の女人として寄り添ってくださいました。私にも、心を偽ることなく接してくださった」


「ならば」


「紗良さまを恨む理由はございません」


静かだが、はっきりとした言葉だった。


「まして、関白さまのお命を守ってくださったのでしょう。私も若君も、紗良さまへ恩がございます」


雅継は三条の方を見つめた。


「だが、若君の立場を脅かす者が現れれば、私は黙っておりません」


「当然だ」


「それが紗良さまではないことも、分かっております」


三条の方が案じているのは、紗良ではない。


紗良の存在を理由に、若君の周囲で動き始める者たちだった。


「若君へ近づく者が増えたか」


「以前にはなかった家から、見舞いや贈り物が届くようになりました」


「すべて記録しておけ」


「そのようにしております」


「警固も増やす」


「ありがとうございます」


庭の向こうから、若君が師の言葉を繰り返す声が聞こえてくる。


雅継はそちらへ目を向けた。


宇治では紗良が傷を癒している。


三条では、若君が父の名を書く練習をしている。


どちらか一方だけを守ればよいわけではない。


「大切なものが増えれば、それを利用しようとする者も増えます」


三条の方が静かに告げた。


「どうか、お忘れになりませんよう」


「忘れぬ」


雅継は答えた。


*


宇治へ戻ると、紗良は枕へ身体を預けながら、二の宮から届いた檜扇を眺めていた。


まだ自分で開くことはできない。


女房に広げてもらった扇面には、紅葉と流水が描かれている。


雅継の姿に気づくと、紗良は顔を上げた。


「お帰りなさいませ」


「起きていたのか」


「今日は、昼にたくさん眠りましたから」


雅継は紗良の前へ座った。


顔色は数日前よりよい。


「傷は」


「まだ痛みます。でも、熱はありません」


雅継は女房から一日の様子を聞き、医師の言葉を確かめた。


女房が下がると、紗良が尋ねる。


「三条の方に、お会いになったのですか」


「ああ」


「お元気でしたか」


「変わりない。若君にも会ってきた」


「若君は、お喜びになったでしょうね」


「ああ。書いた文字を見せられた」


雅継の声が、わずかに柔らかくなる。


紗良は、その横顔を見つめた。


「どのような字を?」


「私の名だ」


「雅継さまのお名前を」


「次は、すべて書けるようになりたいと申していた」


「かわいらしいですね」


紗良の言葉に、雅継は何も答えなかった。


けれど否定もしない。


「また、会いに行って差し上げてください」


「私がいつ三条へ行くかまで、そなたが決めるのか」


「決めてはいません」


紗良は少し笑った。


「ただ、きっと待っていらっしゃると思っただけです」


雅継はしばらく黙ったあと、短く答えた。


「ああ」


紗良は檜扇へ目を戻した。


雅継には、自分と出会う前から続いてきた暮らしがある。


姫がいて、三条の方がいて、若君がいる。


政を担い、多くの者の行く末を背負っている。


雅継のそばにいたいと願うことと、そのすべてを自分だけのものにしたいと願うことは違う。


「どうした」


「いいえ」


紗良は首を振った。


「三条の方にも、傷が治ったらご挨拶をしたいと思って」


「その必要はない」


「なぜですか」


「今のそなたを、都へ出すつもりはない」


「傷が治ってからです」


「治ってから考える」


また先のことを決められてしまった。


けれど今は、言い返すほどの力もない。


「分かりました」


素直に答えると、雅継が怪しむように紗良を見る。


「何ですか」


「今日は、妙に聞き分けがよい」


「いつも聞き分けがないように言わないでください」


雅継の口元が、わずかに緩んだ。


*


その夜、三条の邸へ一通の文が届けられた。


差出人の名はない。


幼い童が、見知らぬ男から渡されたものだという。


女房から受け取った三条の方は、人を下がらせてから紙を開いた。


そこには、短い言葉が記されていた。


『関白は、宇治の女に心を奪われた。


いずれ若君の居場所も、あの女に奪われよう。』


三条の方は、最後まで読むと静かに紙を閉じた。


紗良の顔が浮かぶ。


姫のそばで、慣れない衣に戸惑いながらも、懸命に仕えていた姿。


三条の方へ向けた言葉に、裏も悪意もなかった。


自分をよく見せるために、姫へ近づいた女ではない。


まして、若君から何かを奪おうとする女ではなかった。


誰かが、三条の方に紗良を憎ませようとしている。


「見くびられたものですね」


三条の方は小さく呟いた。


文を火へ入れることはしなかった。


別の紙に包み、紐をかける。


「誰か」


呼びかけると、控えていた女房が入ってきた。


「これを、清景さまへお届けなさい」


「関白さまではなく、清景さまでございますか」


「ええ。関白さまは今、紗良さまのおそばにおられます。余計な心配を増やす前に、まずは清景さまにお調べいただきます」


「承知いたしました」


「途中で、誰にも見せてはなりません」


女房は文を受け取り、深く頭を下げた。


三条の方は、若君の眠る室へ目を向けた。


「若君の居場所は、誰にも奪わせません」


それは紗良へ向けた言葉ではない。


姿を隠し、紗良と若君を争わせようとする者へ向けた言葉だった。

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