池に映った春
矢傷を負ってから、五日が過ぎた。
紗良の熱は下がり、起きていられる時間も少しずつ長くなっていた。
左肩の痛みはまだ強い。
腕を動かすことはできないが、女房に背を支えてもらえば、横になったままではなく過ごせるようになった。
その朝、紗良は開かれた板戸の近くへ座っていた。
庭から吹き込む風が、熱の引いた頬に心地よい。
色づいた木々の向こうには、宇治の池が見える。
池の周囲には、以前より多くの警固の者が控えていた。
誰も目立つ動きはしていない。
けれど、紗良が室を出ようとすれば、すぐに止められるのだろう。
「そなたは、なぜそこにいる」
背後から声がした。
振り返ると、雅継が立っていた。
都へ戻ったはずだったが、思っていたより早く帰ってきたらしい。
「少しだけ、外の風に当たりたくて」
「寝ていろと申したはずだ」
「ずっと寝ていたら、身体が痛くなります」
雅継は紗良のそばまで来ると、左肩へ目を向けた。
「傷は」
「動かさなければ、大丈夫です」
「また大丈夫か」
「今度は、本当です」
「昨日も同じことを申していた」
雅継は女房へ目を向けた。
「医師は何と申した」
「短い間であれば、身体を起こしても構わぬとのことでございます」
女房の答えを聞き、雅継はようやく口を閉じた。
紗良は少しだけ得意な気持ちになった。
「私の勝ちですね」
「何の勝負だ」
「寝ていなくてもよいかどうかです」
「医師がよいと申しただけで、そなたが勝ったわけではない」
雅継は紗良の背に置かれた脇息の位置を直した。
身体が傾かないよう確かめてから、隣へ座る。
「都のお仕事は、もうよいのですか」
「終わらせてきた」
「こんなに早く?」
「私を誰だと思っている」
「関白さまです」
外に女房たちが控えているため、紗良はそう答えた。
雅継は不満そうに眉を寄せた。
「それならば、疑うな」
「関白さまは、仕事を早く終わらせることもできるのですね」
「そなたは、私を何だと思っていたのだ」
「いつも忙しくしている方だと」
女房たちの間から、かすかな笑いが漏れた。
雅継が振り向くと、皆一斉に顔を伏せる。
「下がってよい」
「承知いたしました」
女房たちが離れていく。
人の気配が遠ざかるのを待ってから、紗良は雅継を見た。
「追い出してしまいましたね」
「そなたが余計なことを申すからだ」
「私は、本当のことを言っただけです」
二人きりになり、紗良は池へ顔を戻した。
秋の日差しが、水面に細かく反射している。
「昨日より、紅葉が増えました」
「ああ」
「ここから見ると、きれいですね」
「近くで見たいとは申すな」
先回りして言われ、紗良は黙った。
本当は、少しだけ池のそばまで歩いてみたいと思っていた。
「まだ何かあるのですか」
「傷が開く」
「それだけですか」
雅継は答えなかった。
池の近くへ行くなと言われたのは、襲撃者がどこから入ったのか分からないためだと聞いている。
だが、それだけではないような気がしていた。
紗良は問い詰めなかった。
今は聞かないと、自分で決めたからだ。
庭から一枚の紅葉が舞い込み、板敷きの上へ落ちた。
紗良が右手を伸ばすより先に、雅継がそれを拾う。
「ほしいのか」
「きれいだったので」
雅継は赤く染まった葉を紗良の手へ置いた。
「持って帰れないものばかり、増えていきますね」
口にしてから、紗良はしまったと思った。
雅継の横顔がわずかに強ばる。
「帰るという意味ではありません」
紗良はすぐに言葉を続けた。
「ただ、私の世界にはなかったものが、少しずつ増えていると思ったのです」
紅葉を見つめる。
二の宮から贈られた檜扇。
平安の衣。
姫から教わった歌。
宇治の池。
そして、隣にいる雅継。
どれも、あの光の向こうにはなかったものだ。
「すべてを持っておけばよい」
雅継が静かに言った。
「持てぬものは、覚えておけ」
紗良は頷いた。
「はい」
その時、庭の奥から清景が姿を現した。
池の周りを調べていたらしい。
手には細長い枝を持ち、衣の裾には泥がついている。
「清景さま」
呼びかけると、清景がこちらを見る。
「なぜ起きている」
挨拶より先に言われた。
「医師から、少しならよいと言われました」
「少し、という言葉を都合よく使うな」
「まだ来たばかりです」
「ならば、もう戻れ」
相変わらず遠慮がない。
雅継が清景へ声をかける。
「何か見つかったのか」
清景は池へ目を向けた。
「関白さまに、ご覧いただきたいものがございます」
「ここでは申せぬことか」
清景は紗良を見た。
その視線で、紗良に聞かせるか迷っていることが分かる。
「私に関わることですか」
清景は答えなかった。
代わりに、雅継が立ち上がる。
「紗良はここにいろ」
「はい」
雅継と清景は、板戸から少し離れた庭へ下りた。
声までは聞こえない。
紗良は手の中の紅葉を見つめながら、二人の様子を追った。
清景が池を指し、雅継が水面へ目を向ける。
しばらくすると、雅継の顔が変わった。
驚いたというより、目の前のものを信じられないような表情だった。
紗良も池へ目を凝らした。
風が止んでいる。
水面から波が消え、鏡のように静まっていた。
そこに映っていた赤い木々が、ゆっくりと揺らぐ。
最初は、雲の影だと思った。
けれど違った。
赤く色づいた葉が消えていく。
代わりに水面へ現れたのは、薄い桃色だった。
紗良は息を止めた。
池の中だけに、満開の桜が映っている。
実際の庭にある木々は、秋の色のままだ。
水面だけが、別の季節を映していた。
一枚の花びらが、池の中で舞う。
波紋が広がった瞬間、桜は消えた。
再び映ったのは、赤く色づいた木々と秋の空だった。
「今のは……」
紗良が立ち上がろうとすると、肩に痛みが走った。
「動くな」
雅継がすぐに戻ってくる。
紗良の身体を支え、脇息へ座らせた。
「池に、桜が」
「ああ」
「雅継さまにも、見えたのですね」
二人きりではないが、紗良は呼び方を直す余裕がなかった。
清景も室の近くまで来る。
「そなたにも見えたか」
「はい。秋なのに、どうして」
「池が、今とは違う時を映した」
「千年後ですか」
「いや」
清景は池のほとりで拾った細い枝を見せた。
先端には、小さな薄桃色の花びらがついている。
「これは桜だ。この時代にもあるものだ」
「では、春を映したということですか」
「そういうことだろう」
清景は枝から花びらを外し、手のひらへ載せた。
水に濡れている。
ただの幻ではない。
秋の池から、春の花びらが現れたのだ。
「以前にも、こんなことがあったのですか」
「ない」
清景は即座に答えた。
「少なくとも、私は見たことがない」
紗良の手の中で、赤い紅葉が揺れた。
目の前にある秋の葉。
清景の手にある春の花びら。
二つの季節が、同じ場所に存在している。
「満月の夜に開いた道が、まだ残っているのですか」
「道そのものは閉じている。だが、二つの時が重なった痕は、池に残ったのだろう」
雅継が清景を見る。
「春に、再び道が開くと申すのか」
「まだ断じることはできません」
「では、なぜ春が映った」
「月と水の流れが、次に大きく重なる時を示したのかもしれません」
清景は空を見上げた。
「満月ならば、いつでも道が開くわけではございません。月の位置、水の流れ、時の重なり。そのすべてが合う必要があるのでしょう」
「次に重なるのは、いつだ」
清景は少し考えた。
「春の満月。その頃であれば、今一度、道が開く可能性がございます」
紗良は言葉を失った。
春。
今は秋だ。
それまでには、いくつもの月が満ちては欠ける。
現代へ戻る道は消えたと思っていた。
けれど、なくなったのではない。
次の春に、もう一度現れるかもしれない。
「紗良」
雅継に呼ばれ、顔を上げた。
「大丈夫です」
何を尋ねられるか分からないまま、紗良はそう答えていた。
雅継の眉が寄る。
「まだ何も申しておらぬ」
「すみません」
「今、決める必要はない」
静かな声だった。
「春は、まだ先だ」
「はい」
紗良は手の中の紅葉へ目を落とした。
あの夜、自分は残ることを選んだ。
その気持ちは変わっていない。
それでも、春という言葉を聞いた瞬間、スマートフォンに映った家族の顔を思い出した。
戻らなかった自分を、今も探しているのだろうか。
現代では、どれほどの時が流れているのだろう。
胸の奥に生まれた痛みが、肩の傷よりも深い場所へ広がっていく。
「今日は、これ以上起きているな」
雅継が紗良の背へ腕を回した。
「横になれ」
紗良は逆らわなかった。
身体にも、考えることにも疲れていた。
掛け物をかけられ、枕へ頭を預ける。
清景は春の花びらを紙へ包んでいる。
「その花びらは、消えないのですか」
紗良が尋ねると、清景は包む手を止めた。
「今のところは」
「春まで、残るでしょうか」
「調べてみなければ分からぬ」
清景は紙を懐へ入れた。
「そなたは傷を治せ。池のことは私が調べる」
「はい」
「妙に素直だな」
「今は、少し疲れました」
清景は紗良の顔を見たあと、余計なことは言わずに立ち上がった。
「関白さま。先ほどの文と、この花びらに関わりがあるか確かめます」
「分かった」
「池へは、引き続き誰も近づけぬようにしてください」
清景は頭を下げ、庭を離れていった。
紗良は目を閉じた。
手の中には、先ほど雅継から渡された紅葉が残っている。
「紗良」
「はい」
「春のことは、今は考えるな」
「難しいです」
「ならば、眠っている間だけでも忘れよ」
雅継が紅葉を紗良の手から取り、枕元へ置いた。
「目を覚ませば、まだ秋だ」
紗良は小さく頷いた。
雅継の手が、右手を包む。
その温もりに意識を預けるうち、肩の痛みも、春という言葉も、少しずつ遠ざかっていった。
遣戸の外では、秋の風が赤い葉を揺らしている。
そのうちの一枚が池へ落ちた。
広がった波紋の中央に、薄桃色の花びらが一瞬だけ浮かび、静かに水の底へ沈んでいった。




