紗良に隠した文
雅継は文を懐へ収めると、池のそばで待つ警固の者を呼んだ。
文を見つけたのは、夜回りをしていた若い男だった。
「見つけた時の様子を申せ」
「池の北側にある木の枝へ、結びつけられておりました。巡回の際にはなかったものにございます」
「最後にそこを通ったのは、いつだ」
「半刻ほど前でございます」
わずかな間に、誰かが邸の中へ入り、文を残したことになる。
「人影は見なかったのか」
「申し訳ございません」
男は床へ額がつきそうなほど頭を下げた。
雅継は責めなかった。
池へ近づく道は一つではない。
塀の外から木々の間を抜ければ、警固の目を避けることもできる。
別邸の道を知る者ならば。
「今宵の巡回を増やせ。ただし、女房たちには騒ぎを知らせるな」
「承知いたしました」
「この文のことを知る者は、お前と最初に報告した者だけだな」
「はい」
「口外すれば、紗良が危険にさらされる」
男の顔に緊張が走った。
「決して申しません」
「下がれ」
男が去ると、雅継は池へ目を向けた。
欠け始めた月が、水面で揺れている。
北側の石の下から見つかった、黒い木片。
池を通して、この別邸を探る術。
そして、紗良へ宛てられた文。
相手は、すでに紗良を知っている。
問題は、どこまで知っているかだった。
*
室へ戻ると、紗良は目を覚ましていた。
掛け物の上に右手を置き、御簾の向こうを見ている。
「何かあったのですか」
雅継は足を止めた。
「なぜ、そう思う」
「外が騒がしかったので」
声に力はない。
それでも、周囲の変化には気づいている。
「警固の者が、見回りのことを尋ねに来ただけだ」
嘘ではなかった。
ただ、すべてを話していないだけだ。
雅継は紗良のそばへ座り、その額へ手を当てた。
「熱は下がってきたな」
「はい。先ほどより楽です」
「傷は」
「まだ痛みます」
これまでならば、大丈夫だと答えただろう。
紗良が素直に痛みを認めたことに、雅継は少し安堵した。
「医師の申したとおり、しばらく動くな」
「分かっています」
「池へも近づくな」
紗良の目が、遣戸の向こうへ向けられる。
「池に、何かあるのですか」
「矢を放った者が、どこから別邸へ入ったのか分かっておらぬ。安全が確かめられるまでは、室を出るな」
「そういうことでしたら」
紗良はそれ以上尋ねなかった。
雅継の言葉を信じたのだろう。
そのことが、かえって胸に重く残った。
「雅継さま」
「何だ」
「お疲れではありませんか」
「疲れてはおらぬ」
「そうは見えません」
以前、自分が紗良へ告げた言葉だった。
雅継はわずかに眉を寄せる。
「都と宇治を行き来なさって、夜もあまり眠っていないでしょう」
「今は、そなたが気にすることではない」
「では、いつなら気にしてもよいのですか」
問いかけたあと、紗良は苦しそうに息をついた。
少し話しただけで疲れたらしい。
雅継は近くに置かれた器を取り、水を飲ませた。
紗良は二口ほど口にすると、枕へ頭を戻した。
「もう話すな」
「はい……」
素直な返事が戻ってくる。
けれど、その目は雅継の顔を見たままだった。
「何だ」
「何かを、隠していませんか」
雅継の指が止まった。
紗良は責めるような顔をしていない。
ただ、静かに見つめている。
「なぜ、そう思う」
「雅継さまが、私と目を合わせないので」
雅継は紗良へ視線を戻した。
「今は、そなたが知らなくてよいことだ」
否定はしなかった。
紗良の目がわずかに揺れる。
それでも、何があったのかとは尋ねなかった。
「私を守るためですか」
「ああ」
短く答えると、紗良は目を閉じた。
「では、今は聞きません」
雅継は何も言えなかった。
「でも、一人で抱えないでください」
「一人ではない。清景がいる」
「清景さまは、嫌がりそうですね」
「嫌がっても働かせる」
紗良の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
すぐに痛みに耐えるように眉を寄せる。
雅継は掛け物を肩まで引き上げた。
「眠れ」
「雅継さまも、少しお休みください」
「そなたが眠ったらな」
紗良は返事をせず、目を閉じた。
しばらくして、掛け物の上に置かれた右手がわずかに動く。
雅継がその手を取ると、紗良の指がゆっくりと絡んだ。
やがて呼吸が静かになる。
雅継は眠りについた紗良を見つめた。
懐には、あの文が入っている。
触れたわけでもないのに、その紙だけが冷たく身体へ張りついているようだった。
*
清景が宇治へ到着したのは、夜が明ける少し前だった。
呼び出した使いが都へ着くのと行き違いになり、池を調べるため自ら別邸へ戻ってきたのだという。
「関白さまがこちらにおられるとは思いませんでした」
清景は雅継を見るなり言った。
「都にいるように見せておけと申したはずだ」
「そのために私は都へ残されたものと思っておりましたが」
「できぬのか」
「できぬとは申し上げておりません」
清景は疲れた顔で答えた。
「何があったのでございますか」
雅継は懐から文を取り出した。
宛名を見た瞬間、清景の目が鋭くなる。
「どこにございました」
「池のそばだ。木の枝へ結ばれていた」
清景は布を取り出し、直接触れぬよう文を受け取った。
表と裏を確かめ、紙を開く。
三行の文字を読み終えても、すぐには何も言わなかった。
「どうだ」
「術は仕込まれておりません」
「では、ただの脅しか」
「そのようにも見えます」
清景は文を灯へ近づけた。
「書いた者は、わざと筆跡を乱しております。紙も都で広く使われているもので、ここから出どころを探るのは難しいでしょう」
「内容は」
「紗良が別の時から来たことを知っている。少なくとも、そう思わせたい者が書いたことは確かでございます」
「池を見ていた者だろう」
「その可能性は高いでしょう。ただ、妙なことがございます」
「何だ」
清景は文の三行目を指した。
『失うものが、関白一人で済むと思うな。』
「関白さまのお命を狙う者ならば、言い回しが不自然でございます」
「何が不自然だ」
「関白さま一人を失うだけでは済まぬ、と読めます。脅しにもなりますが、何かを知らせようとしているようにも見える」
「警告だと申すのか」
「まだ分かりません」
清景は文を折り直した。
「これを書いた者と、矢を放たせた者が同じとも限りませぬ」
「同じ印はないのか」
「ございません。むしろ、あの印を避けております」
「ならば、襲撃を知る別の者か」
「あるいは、術を使った者自身が、命じた者とは別の思惑で動いているか」
雅継は眠る紗良のいる室へ目を向けた。
「時の流れが乱れ始めているという言葉は、事実なのか」
「今のところ、私には確かめられません」
「そなたにも分からぬのか」
「分からぬものを、分かったふりで語る者よりはましでしょう」
いつもの言い方に、雅継が清景を見る。
清景は気にせず続けた。
「ただ、満月の夜から、池の気配が変わっております。光が消えたあとも、二つの時が完全に離れたとは言い切れません」
「紗良に影響はあるのか」
「今の熱と傷は、矢によるものでございます。時の乱れとは関わりないでしょう」
「今後は」
「分かりません」
清景は文を雅継へ返さなかった。
「これは私が預かります。墨と紙をもう一度調べましょう」
「紗良には知らせるな」
「いつまで隠されるおつもりでございますか」
「傷が癒えるまでだ」
「傷が癒えたあと、あの女が大人しく守られていると思われますか」
雅継は答えなかった。
思わない。
紗良は自分に向けられた危険だと知れば、必ず理由を確かめようとする。
「今は、眠らせておけばよい」
「承知いたしました」
清景はそう答えたものの、納得してはいない顔だった。
「池の木片は、そのままにしてございます。相手には、まだ気づいていないと思わせます」
「紗良の姿を見せるな」
「池へ近づけなければ、問題ございますまい」
清景は立ち上がった。
「夜が明ければ、池の周りをもう一度調べます」
「私も行く」
「関白さまは、紗良のおそばにおられたほうがよろしいのでは」
「なぜだ」
「目を覚ました時にお姿がなければ、また探されるでしょう」
雅継が清景を睨む。
「余計なことを申すな」
「では、御前を失礼いたします」
清景は文を懐へ入れ、室を出ていった。
*
朝の光が差し始める頃、紗良が目を覚ました。
雅継は、昨夜と同じ場所に座っていた。
「おはようございます」
「熱はどうだ」
「もう、ほとんどないような気がします」
雅継が額へ触れる。
確かに、熱は下がっていた。
「清景さまが、いらしていたのですか」
「声が聞こえたか」
「少しだけ」
「池を調べに来た」
紗良は雅継の顔を見つめた。
昨夜、何かを隠していると認めた時と同じ目をしている。
けれど、紗良は約束どおり尋ねなかった。
「そうですか」
それだけ言って、ゆっくりと息を吐く。
「眠いのか」
「はい」
「ならば、まだ寝ていろ」
紗良は目を閉じかけてから、もう一度開いた。
「雅継さま」
「何だ」
「私なら、ここにいます」
「分かっている」
「だから、あまり怖い顔をなさらないでください」
雅継は何も答えなかった。
紗良は返事を待たずに目を閉じた。
やがて、静かな寝息が聞こえ始める。
雅継はその顔を見つめたまま、昨夜の文を思い返していた。
時の流れは、すでに乱れ始めている。
失うものが、関白一人で済むと思うな。
あれが脅しであろうと、警告であろうと、紗良へ届かせるつもりはなかった。
少なくとも、今は。
遣戸※の外では、朝の光を受けた池が、何事もなかったように静かに輝いていた。
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※「遣戸」とは、横に滑らせて開閉する板戸のことで、現代の引き戸に近いものです。




