池を見ていた者
翌朝、雅継は都へ戻る支度を整えていた。
御簾の向こうでは、紗良がまだ眠っている。
熱は昨夜より下がったものの、傷の痛みは続いていた。目を覚ましても水を口にするだけで、すぐに眠ってしまう。
雅継は枕元に置かれた檜扇の箱へ目を向けた。
二の宮から戻された扇は、紗良が目を覚ました時に見える場所へ置かれている。
「関白さま。お車の支度が整いました」
女房が御簾の外から告げた。
「分かった」
雅継が立ち上がると、眠っていたはずの紗良がわずかに身じろぎした。
「……雅継さま」
目はまだ閉じたままだった。
雅継は再び紗良のそばへ座った。
「起こしたか」
紗良は小さく首を振る。
「都へ戻られるのですか」
「ああ」
「もう、朝なのですね」
「日が暮れる前には戻る。それまで眠っていろ」
紗良は薄く目を開いた。
「お仕事をなさってください」
「言われずともする」
「急いで戻らなくても、大丈夫ですから」
声は弱く、途中で息が途切れた。
雅継は紗良の額へ手を当てる。
「そなたの大丈夫は、信じぬことにした」
「では……女房の方に聞いてください」
「そうする」
紗良は安心したように目を閉じた。
「行ってらっしゃいませ」
聞き慣れない言葉に、雅継の手が止まる。
「何だ、それは」
紗良は答えなかった。
すでに眠りへ戻りかけている。
「私のいたところでは……出かける人に、そう言うのです」
「戻ってくる者に申す言葉か」
「はい……」
「ならば、覚えておこう」
雅継は紗良の額から手を離した。
「行ってくる」
返事はない。
けれど、紗良の口元がわずかに緩んだように見えた。
*
都へ戻った雅継を、清景が待っていた。
人払いをした一室で、清景は古い巻物を雅継の前へ置く。
「陰陽寮の記録を調べました」
「昨夜の印についてか」
「はい。十年以上前に陰陽寮を追われた者の印でございます」
清景が巻物を開く。
一人の名が記された部分には、太い墨で線が引かれていた。
「禁じられた術を貴族へ売ったとして、都から追放されております。その後の行方は分かっておりません」
「どのような術だ」
「病に伏した者の力を奪う術。人の命を少しずつ削る術。そして、水面を通じて遠くの様子を探る術でございます」
雅継の視線が、巻物の一文で止まった。
「水面を通じて、だと」
「宇治の池が見られていた可能性がございます」
「その術で、私が池へ行くことを知ったと申すのか」
「それだけではございません」
清景は別の紙を取り出した。
宇治の別邸にある池と、その周囲を簡単に描いたものだった。
一か所に、小さな印がつけられている。
「今朝、池の周りを調べさせました。北側の石の下から、これが見つかっております」
紙の上に置かれたのは、親指ほどの黒い木片だった。
表面に細い線が刻まれ、中央には昨夜の紙と同じ印がある。
「姿を消した下働きの男が置いたのか」
「おそらくは。この木片を置くことで、離れた場所から池の様子を探っていたのでしょう」
雅継は黒い木片へ手を伸ばしかけた。
「お触れにならぬほうがよろしいでしょう」
清景が止める。
「災いを招くものか」
「今のところ、その気配はございません。ただ、何が仕込まれているか分からぬものへ、わざわざ関白さまがお触れになる必要もありますまい」
清景は布で木片を包んだ。
「壊さぬのか」
「壊せば、こちらが気づいたと相手に知らせることになります」
「まだ見られているふりをするのだな」
「そのほうが、相手は動きやすいでしょう」
「そなたは、そこから相手を探るつもりか」
「はい」
清景は平然と答えた。
「見ている者がいるのなら、見せたいものを見せればよいのでございます」
雅継の眉が寄る。
「紗良を使うつもりではあるまいな」
「そのようなことをすれば、私が先に関白さまに殺されましょう」
「分かっているならよい」
「紗良は傷が癒えるまで、池へ近づけぬほうがよろしいでしょう。相手がすでに、あの者の姿を見ている可能性もございます」
雅継は黙った。
満月の夜。
紗良は池の前で、見慣れぬ衣を身につけていた。
白い光の中には、千年後の世が映し出されていた。
あれを見られていたとすれば、紗良がただの身元の知れない女ではないことにも気づかれている。
「追放された者は、まだ生きているのか」
「分かりません。生きていれば、かなりの年でございましょう。術だけが誰かへ受け継がれた可能性もあります」
「以前、私の文に印を忍ばせたのも、同じ者か」
「同じ印が使われております。ただし、術を施した者と、それを命じた者は別でしょう」
清景は雅継をまっすぐに見た。
「このような術を使う者は、たいてい力を持つ者の陰に隠れます。誰のために動いているのかを見つけぬ限り、終わりません」
「捕らえた男から、まだ何も出ぬか」
「金を受け取り、矢を放っただけだと申しております。文を置いた者の顔も見ていないと」
「金の出どころは」
「調べております」
雅継は巻物を閉じた。
「池の警固を増やせ。ただし、相手に気づかせるな」
「承知いたしました」
「紗良の身元について知る者も、もう一度確かめよ」
「二の宮さまと橘、姫さま、それに私。千年後の世から来たことまで知る者は、それだけでございます」
「別邸の女房たちは」
「見慣れぬ衣を目にしておりますが、それが何かまでは知りません」
雅継はしばらく考えたあと、清景へ命じた。
「紗良が着ていた衣は、別の場所へ移せ。あの邸に置いておくな」
「どちらへ」
「私の邸へ運べ。私の目の届く場所で保管する」
「承知いたしました」
清景が巻物を抱え直す。
「関白さまは、これより宇治へお戻りになるのでございますか」
「そのつもりだ」
「今宵は都に留まられたほうが、相手を欺けるのでは」
雅継の目が細くなる。
「見せたいものを見せればよいと申したのは、そなたであろう」
「確かに申し上げましたが」
「ならば、私が都にいるように見せておけ」
「また無理なことを仰せになりますな」
清景はため息をついた。
「何とかいたしましょう」
*
雅継が宇治の別邸へ戻ったのは、日が沈んだあとだった。
牛車を降りると、すぐに紗良のいる室へ向かう。
女房が御簾の前で頭を下げた。
「紗良さまは、先ほど少し粥を召し上がりました。熱も、朝より下がっております」
「今は眠っているのか」
「お目覚めでございます」
雅継が室へ入ると、紗良は枕へ身体を預けたまま、遣戸の外を見ていた。
枕元には、二の宮から戻された檜扇の箱がある。
雅継に気づき、紗良が顔を向けた。
「お帰りなさいませ」
朝とは違う言葉だった。
けれど、その意味はすぐに分かった。
「戻った」
雅継は紗良の前へ座る。
「熱は」
「少し下がったようです」
「粥も食べたと聞いた」
「三口ほどです」
「それだけか」
「昨日は一口も食べられませんでした」
雅継は何か言いかけたが、紗良の顔にまだ疲れが残っているのを見て、口を閉じた。
「都は、お忙しかったですか」
「いつもと変わらぬ」
清景から聞いたことを、今の紗良へ話すつもりはなかった。
池が見られていたことも、襲撃の背後に術を使う者がいることも。
紗良はしばらく雅継を見つめていたが、それ以上は尋ねなかった。
「戻ってきてくださったのですね」
「そう申した」
「はい」
紗良は安心したように目を閉じる。
「眠るのか」
「少しだけ……」
雅継が掛け物を整えようとした時、外から慌ただしい足音が近づいた。
「関白さま」
警固の者の声だった。
「何だ」
「池のそばで、このようなものが見つかりました」
雅継は立ち上がり、御簾の外へ出た。
男が差し出したのは、一通の文だった。
「誰が持ってきた」
「分かりませぬ。池のほとりにある木の枝へ、結びつけられておりました」
雅継は文へ目を落とした。
宛名の代わりに、短い言葉が書かれている。
『月の道より来たりし女へ』
雅継の顔から表情が消えた。
「これを見た者は」
「私と、見つけた者の二人だけにございます」
「見つけた者をここへ連れてこい。それまで誰にも話すな」
「承知いたしました」
男が去ると、雅継は文を開いた。
中に書かれていたのは、わずか三行だった。
『この世にない女が、この世へ留まった。
時の流れは、すでに乱れ始めている。
失うものが、関白一人で済むと思うな。』
雅継の指に力が入った。
室の中から、紗良の小さな咳が聞こえる。
雅継は振り返った。
御簾の向こうに、横たわる紗良の影が見える。
池を見ていた者は、紗良がどこから来たのかを知っている。
そして、彼女が光の中へ戻らなかったことも。
雅継は文を折り畳み、懐へ入れた。
「誰にも、紗良へ近づかせぬ」
低い声が、夜の庭へ落ちた。
池の水面には、欠け始めた月が揺れていた。




