戻ってきた檜扇
満月の夜から二日が過ぎた。
紗良の熱は、まだ完全には下がっていなかった。
目を覚ましている時間は少しずつ長くなったものの、身体を起こせば肩の傷が痛み、すぐに疲れてしまう。
その朝も、女房に支えられて水を飲むと、再び枕へ頭を戻した。
開かれた遣戸※の向こうには、宇治の池が見える。
風が吹くたび、水面に細かな波が広がっていた。
あの夜、そこに千年後の景色が現れたことが、夢のように思える。
けれど、左肩の痛みが、すべて現実だったと伝えていた。
「まだ熱があるな」
雅継が紗良の額へ手を当てた。
紗良は目を閉じたまま答える。
「昨日よりは、楽です」
「昨日はほとんど目を開けておらぬ」
「だから、今日は昨日より元気です」
雅継の手が額から離れる。
呆れているのかと思い、紗良が目を開けると、雅継は不機嫌そうな顔をしていた。
「何ですか」
「そなたは、弱っていてもそなただな」
「どういう意味でしょう」
「褒めてはおらぬ」
そう言いながらも、その声にはわずかな安堵があった。
女房が御簾の外から声をかけた。
「関白さま。二の宮さまのもとより、橘さまがおいででございます」
紗良は反射的に身体を起こしかけた。
肩に痛みが走り、顔を歪める。
「動くな」
雅継がすぐに背を支えた。
「でも、橘さまが」
「寝たままで会えばよい」
「そのようなわけには」
「そのような身体で、何に遠慮する」
雅継は女房へ顔を向けた。
「橘を通せ。ただし、ほかの者は下がらせよ」
「承知いたしました」
紗良はせめて衣を整えようとしたが、左腕を動かすことができない。
雅継が衾※を肩まで引き上げる。
「これでよい」
「よくありません」
「何がだ」
「関白さまに衾を掛けていただいた姿を見られるのは、もっとよくありません」
外に人がいるため、紗良は雅継の呼び方を改めていた。
雅継は気にした様子もなく答える。
「橘は、その程度のことで驚かぬ」
「私は驚きます」
「ならば、目を閉じていろ」
「そういう問題では……」
最後まで言う前に、橘が室へ入ってきた。
紗良のそばにいる雅継を見ても、表情を変えず、深く頭を下げる。
「関白さまにご挨拶申し上げます」
「二の宮はどうしている」
「お加減に変わりはございません」
「宇治へ来ようとはしておらぬだろうな」
「宇治まで、どれほどかかるのかとはお尋ねになりました」
雅継の眉が寄る。
橘は続けた。
「ですが、今の御身では紗良さまへ余計な心配をかけることになると申し上げましたところ、お聞き入れくださいました」
紗良は安堵して息をついた。
「二の宮さまは、お元気なのですね」
橘が紗良へ目を向ける。
「はい。紗良さまがご不在になられたあとも、朝夕、庭を歩いておられます」
「息苦しくなることは」
「ございません。橋を越えたところで休まれることも、今ではご自分からなさいます」
その言葉に、紗良の頬がわずかに緩んだ。
二の宮は、自分がいなくても身体の具合を確かめながら過ごしている。
橘もそばにいる。
「よかった……」
声に出すと、それだけで胸の奥にあった心配が少し軽くなった。
橘は、持ってきた細長い箱を紗良の前へ置いた。
見覚えのある箱だった。
「二の宮さまより、お預かりしてまいりました」
蓋が開かれる。
薄紙の中に、紅葉と流水を描いた檜扇が収められていた。
宴の夜、雅継のもとへ向かう前に、二の宮へ預けたものだった。
銀の細い線で縁取られた二枚の紅葉が、朝の光を受けて輝いている。
「これを、私に?」
「もとより、紗良さまのものでございます」
橘は一枚の紙を取り出した。
「二の宮さまより、お言葉もお預かりしております」
橘が紙を広げる。
そこには、二の宮らしい迷いのない文字が並んでいた。
『私の前へ置いていった物を返す。
これはそなたへ与えたものだ。
傷を癒し、自ら持てるようになるまで、余計なことはするな。
返事は要らぬ。』
紗良は、最後の一文をもう一度見た。
いかにも二の宮らしい。
返事は要らないと書きながら、返事を書けないほど傷が痛むことを案じているのだろう。
「二の宮さまは、怒っていらっしゃいますか」
「矢を放った者に対しては、たいそう」
「私には?」
橘は少し考えてから答えた。
「お戻りにならなかったことについて、一言申したいご様子ではございます」
紗良は小さく身を縮めた。
その動きで肩が痛み、すぐに顔を歪める。
「今は、お叱りになることもできぬと申されておりました」
「それは、傷が治ったら叱られるということでしょうか」
「おそらくは」
紗良は箱の中の檜扇を見つめた。
手に取ることはできない。
右手を伸ばし、箱の縁へ指先だけを置いた。
「橘さま」
「はい」
「二の宮さまへ、お伝えください。檜扇は、確かに受け取りましたと」
「承知いたしました」
「それから……心配をかけてしまい、申し訳ありませんでしたと」
「それは、私からはお伝えいたしません」
紗良は顔を上げた。
橘の表情は穏やかだった。
「二の宮さまは、紗良さまがお詫びになることをお望みではございません。傷を治すことだけを考えよと、重ねて仰せでございました」
紗良は少し黙ったあと、頷いた。
「分かりました」
橘は深く頭を下げた。
「では、傷が癒えつつあることだけを、お伝えいたします」
「お願いします」
立ち上がった橘へ、雅継が声をかける。
「橘」
「はい」
「二の宮を宇治へ来させるな。紗良が動けるようになれば、こちらから知らせる」
「承知いたしました」
「宮の警固も増やせ。昨夜の襲撃について、まだ背後が分かっておらぬ」
橘の顔から柔らかさが消えた。
「二の宮さまにも、危険があると?」
「今のところ、その動きはない。だが、用心はしておけ」
「かしこまりました」
橘はもう一度頭を下げ、室を出ていった。
*
橘が帰ると、室には静けさが戻った。
箱の中の檜扇へ目を向けたまま、紗良は小さく息を吐いた。
「二の宮さまに、叱られますね」
「傷が癒えたあとなら、いくらでも叱られればよい」
「関白さまは、助けてくださらないのですか」
「なぜ私が助ける」
外にはすでに誰もいない。
それでも紗良は、しばらく雅継を見つめてから、呼び方を戻した。
「雅継さまが、私を連れ出したからです」
「そなたも自分の足でついてきた」
「帰る道を用意したのは、雅継さまです」
「戻らぬと決めたのは、そなただ」
「では、半分ずつです」
雅継は紗良を見つめた。
「何が半分なのだ」
「二の宮さまに叱られるのが、です」
少しの沈黙のあと、雅継の口元がわずかに緩んだ。
「よかろう」
「本当ですか」
「そなたが叱られている間、そばにいてやる」
「それでは、助けていることになりません」
「一人で叱られるよりはよいだろう」
紗良は言い返そうとしたが、急に身体の力が抜けた。
わずかなやり取りだけで、ひどく疲れてしまったらしい。
雅継がすぐに表情を改める。
「もう休め」
「大丈夫です」
「その言葉は聞き飽きた」
雅継は檜扇の箱を閉じ、枕元から少し離れた場所へ置いた。
「ここに置いておく。傷が癒えれば、自分で持てばよい」
「はい……」
紗良は目を閉じた。
しばらくして、雅継の衣が動く音がした。
「都へ戻られるのですか」
目を閉じたまま尋ねると、雅継の動きが止まった。
「明日、一度戻る」
分かっていたことだった。
雅継は関白だ。
いつまでも宇治の別邸に留まり、政を離れていることはできない。
それでも、胸の内に小さな寂しさが生まれた。
「そうですか」
「日が暮れる前には、また来る」
紗良は目を開けた。
「毎日ですか」
「何か不都合があるか」
「都から宇治まで、遠いでしょう」
「来るかどうかは、私が決める」
その言い方に、紗良は少し笑った。
二の宮も、檜扇を渡した時に同じようなことを言っていた。
よいかどうかは、自分が決めると。
身分の高い人は、どうして皆、こうも迷いなく物事を決めるのだろう。
「無理はなさらないでください」
「そなたにだけは申されたくない」
「それは、先ほども聞きました」
「ならば覚えておけ」
雅継は紗良の額へ手を当てた。
朝より熱は下がっている。
「眠れ」
紗良は頷いた。
雅継の手が離れようとした時、紗良は右手でその指先へ触れた。
「雅継さま」
「何だ」
「戻ってきてくださいね」
雅継の目が、わずかに細くなる。
「そなたがここにいる限り、戻る」
紗良は安心したように目を閉じた。
やがて寝息が聞こえ始める。
雅継はそのそばに座ったまま、閉じられた檜扇の箱へ目を向けた。
二の宮の印が入った扇。
それは、紗良がこの時代で築いたつながりの証でもあった。
千年後へ通じる道が消えても、紗良は一人ではない。
二の宮がいる。
橘がいる。
そして、自分がいる。
雅継は眠る紗良の手を取り、静かに包んだ。
*
その頃、清景は陰陽寮の奥にある古い記録を調べていた。
長く開かれていなかった巻物には、積もった埃の匂いが染みついている。
昨夜の男が持っていた紙。
姿を消した下働きの男が残した、焼け焦げた紙。
そこに描かれていた二つの印を、古い記録と一つずつ照らし合わせていく。
やがて清景の指が、ある名の上で止まった。
その名には、太い墨で線が引かれている。
陰陽寮を追われ、記録から消された者。
十年以上前、禁じられた術を貴族へ売ったとして、都から姿を消した男だった。
清景は巻物を灯へ近づけた。
名の下には、処分された理由が記されている。
人の命を削る術。
病に伏した者の力を奪う術。
そして、水面を通じて、遠い場所の気配を探る術。
清景の目が止まった。
「水面……」
宇治の池。
満月の夜に開いた、二つの時をつなぐ道。
襲撃者が、雅継の居場所だけでなく、光が現れる時刻まで知っていた理由。
誰かが内側から知らせたのではない。
池そのものを通じて、見られていたとしたら。
清景は巻物を閉じた。
「面倒なことになったな」
誰もいない室に、低い声が落ちる。
その男が生きているのか。
あるいは、術だけが誰かへ受け継がれたのか。
まだ分からない。
だが、狙われたのが雅継の命だけではないことは確かだった。
相手は、宇治の池に現れた光を知っている。
そして、その光の向こうから来た紗良の存在にも、いずれたどり着く。
清景は巻物を抱え、立ち上がった。
「関白さまへお知らせせねばならぬ」
灯が揺れ、壁に映った清景の影が大きく歪んだ。
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※「遣戸」とは、横に滑らせて開閉する板戸のことで、現代の引き戸に近いものです。
※「衾」とは、平安時代に寝る際に身体へ掛けていた寝具のことです。現代の掛け布団に近いものです。




