目覚めた場所
紗良は、鳥の声で目を覚ました。
遠くで水の流れる音がする。
薄く目を開くと、見覚えのない天井がぼんやりと浮かんでいた。
身体を動かそうとした途端、左肩に鋭い痛みが走る。
「……っ」
息を詰めると、すぐそばで衣擦れの音がした。
「動くな」
低い声が聞こえた。
顔を向けると、雅継が座っていた。
昨夜と同じ衣のまま、脇息にも寄りかからず、紗良を見つめている。
「雅継さま……」
「分かるか。ここがどこか」
紗良はゆっくりと周囲を見た。
御簾の向こうから朝の光が差し込んでいる。
開かれた遣戸の先には、色づいた木々と池の一部が見えた。
「宇治の……別邸ですか」
「そうだ」
池を目にした瞬間、昨夜の記憶が戻ってきた。
白い光。
川沿いの道。
スマートフォンに映った家族の写真。
背を向けた光。
そして、雅継へ向かって飛んできた矢。
紗良は雅継の姿を確かめた。
「お怪我は……」
「ない」
「本当に?」
「傷一つない」
その答えを聞き、紗良は目を閉じた。
張りつめていたものがほどけると同時に、肩の痛みと身体の重さが一気に押し寄せてきた。
喉が焼けるように乾いている。
「水を飲めるか」
紗良は小さく頷いた。
身体を起こそうとしたが、肩に痛みが響き、力が入らない。
雅継が片腕を背へ回し、ゆっくりと支え起こした。
器が唇へ近づけられる。
紗良は冷たすぎない水を少しずつ飲んだ。
それだけのことなのに、息が上がる。
「もうよいか」
「はい……」
雅継は器を置き、傷へ触れぬよう慎重に紗良を寝かせた。
「矢は抜いた。血も止まっている」
紗良は布を巻かれた左肩へ目を向けた。
「誰が……」
「医師だ。夜が明けるまで、何度も傷を確かめていた」
「そうですか……」
声を出すことさえ億劫だった。
雅継の目の下には薄く影が落ちている。
おそらく、一睡もしていない。
紗良は右手を動かし、雅継の袖へ触れた。
「よかった……」
「何がだ」
「雅継さまが、ご無事で」
雅継の表情が歪んだ。
怒っているようにも、苦しんでいるようにも見えた。
「そなたは、自分がこのようになっても同じことを申すのだな」
紗良は答えようとしたが、言葉が続かなかった。
瞼が重い。
雅継の袖に触れていることで、そこに彼がいると確かめられた。
それだけで、もう十分だった。
「眠れ」
雅継の手が、紗良の右手を包む。
「今は何も考えず、眠ればよい」
「ここに……いますか」
「いる」
「目が覚めても?」
「いると申している」
紗良は安心したように小さく息を吐いた。
そのまま、再び目を閉じる。
雅継の手の温もりを感じながら、紗良は眠りへ落ちていった。
*
医師が傷を確かめたのは、昼近くになってからだった。
巻かれた布が外されると、矢の刺さった場所は赤く腫れていた。
触れられるたびに紗良の顔が強ばる。
「熱はまだございます」
医師は傷へ薬を置き、新しい布を巻きながら告げた。
「今しばらく、静かにお休ませください。今宵、熱が上がらぬようであれば、ひとまず峠は越えましょう」
雅継は紗良のそばに座り、医師の手元を見ていた。
「傷は塞がるのだな」
「はい。ただ、しばらくは痛みも続きましょう」
「何か口にさせたほうがよいか」
「水を少しずつ。食べられるようならば、消化のよいものをお持ちください。無理に召し上がらせる必要はございません」
「分かった」
医師が下がったあと、女房が温かな粥を運んできた。
雅継は紗良へ目を向ける。
「食べられるか」
紗良は器を見たが、匂いを感じただけで胸が重くなった。
「今は……」
「ならばよい」
雅継は無理に勧めず、女房へ下げるよう命じた。
代わりに水を飲ませると、紗良はすぐに目を閉じた。
痛みと熱のためか、浅い眠りを繰り返している。
雅継が立ち上がろうとすると、紗良の右手が衣の端をつかんだ。
目は閉じたままだった。
「雅継さま……」
「どうした」
「どこへ……」
「清景と話をするだけだ」
紗良の指から力が抜けない。
雅継はその手へ自分の手を重ねた。
「すぐに戻る」
しばらくして、ようやく紗良の指が離れた。
雅継は衾を掛け直し、眠ったことを確かめてから室を出た。
*
清景は、渡殿の先で待っていた。
雅継が近づくと、庭へ控えていた者たちへ目を向ける。
「下がれ」
清景の一言で、周囲の者たちが離れていった。
二人だけになると、清景は懐から一枚の紙を取り出した。
「昨夜捕らえた男が持っていたものでございます」
小さく折り畳まれた紙だった。
清景が広げると、内側の隅に黒い印が描かれている。
複雑に重なった線の中に、逆さにした文字のような形が潜んでいた。
雅継の目が細くなる。
「何だ」
「この印には、見覚えがございます」
清景は紙を押さえながら続けた。
「関白さまが病床にあられた折、お手元へ届いた文に忍ばされていたものと同じでございます」
雅継は黙って印を見つめた。
あの時、雅継はすでに病で床に伏していた。
見舞いを装って届けられた文には、弱った身体へさらに災いを招く仕掛けが隠されていた。
「同じ者の仕業か」
「印だけでは、まだ断じられません。ただ、無関係とは考えにくいでしょう」
「男は何と申している」
「命じた者の顔は見ていないと申しております。受け取った文に、場所と時刻が記されていたそうでございます」
「昨夜、私が宇治へ来ることを知っていたのだな」
「はい。池のほとりに関白さまが現れることも、月が高く昇る頃だということも」
雅継の顔から表情が消えた。
宇治へ向かうことは、限られた者にしか知らせていない。
池に光が現れる時刻を知っていた者は、さらに少ない。
「別邸の者は」
「一人、姿を消しております。下働きの男でございます」
「昨夜からか」
「警固が庭を改める少し前までは、邸にいたそうです。門を通らず池へ近づける場所を、襲撃者へ教えたものと見ております」
「追わせたか」
「すでに」
清景は紙を折り直した。
「ただ、これで終わりとは思わぬほうがよいでしょう」
「分かっている」
雅継の視線が、紗良の眠る室へ向けられる。
「狙われたのは、関白さまでございます」
「昨夜まではな」
清景が顔を上げた。
「紗良が私を庇ったことは、あの男も見ている。あの女が私のそばにいると知られれば、次は利用される」
「その前に、口を割らせます」
「紗良のことは伏せよ。傷を負ったことも、池に光が現れたことも、外へ漏らすな」
「承知いたしました」
「二の宮には、紗良が宇治に留まるとだけ伝えよ」
「傷のことも伏せますか」
「隠し通すことはできぬ。命に別状はないと伝えよ。ただし、今すぐ宇治へ来ることは止めさせる」
二の宮の身体では、都から宇治まで急いで来れば、再び容体を崩しかねない。
「橘へ直接、使いを出せ」
「承知いたしました」
清景は頭を下げた。
「私はこれより都へ戻ります」
「陰陽寮か」
「はい。この印を扱った者の記録を確かめます」
「清景」
「何でございましょう」
「相手はこちらの動きを知っている」
「心得ております」
「一人で動くな」
清景がわずかに眉を上げた。
「私をご心配くださるとは、珍しいことでございます」
「そなたまで倒れれば、調べる者がいなくなる」
「やはり、そういうことでございましたか」
「早く行け」
清景は紙を懐へ戻した。
「紗良には、何もお話しにならぬほうがよいでしょう」
「分かっている」
「目を覚ませば、尋ねるのではございませんか」
「今は、尋ねる力もない」
雅継の声が低くなる。
「そのほうがよい。あれは、自分に関わることならば、どれほど弱っていても考えようとする」
清景は少し黙ったあと、紗良のいる室へ目を向けた。
「では、眠っているうちに参ります」
雅継は頷いた。
清景が渡殿を去ると、雅継はすぐに紗良のもとへ戻った。
*
紗良はまだ眠っていた。
額には汗が滲み、呼吸もやや浅い。
雅継は濡らした布を取り、紗良の額へ置いた。
その冷たさに反応したのか、紗良の瞼がわずかに動く。
「……雅継さま」
「ここにいる」
目を開くことなく、紗良は小さく息を吐いた。
「清景さまは……」
「都へ戻った」
「昨夜の人は……」
「捕らえてある。そなたが案ずることではない」
「でも……」
「今は眠れ」
紗良は何か言おうとしたが、声にはならなかった。
熱のために思考が続かないのだろう。
しばらくして、かすれた声が落ちた。
「私……ここにいても、よいのですか」
雅継は、その言葉の意味をすぐには測れなかった。
宇治の別邸に、ということなのか。
それとも、この時代に残ったことを言っているのか。
紗良自身にも、分かっていないのかもしれない。
「よい」
雅継は短く答えた。
「何も案ずるな。傷が癒えるまで、ここにおれ」
紗良はわずかに頷いた。
右手が衾の上を探るように動く。
雅継がその手を取ると、指先から力が抜けた。
再び眠りについた紗良のそばで、雅継は庭へ目を向けた。
池には、弱い午後の光が差している。
昨夜、千年後の世へ続いた場所。
紗良を帰すために用意したはずの別邸が、今は彼女の命を守る場所になっていた。
*
都へ向かう途中、清景は馬を止めた。
道の脇に、警固の者が一人待っている。
「見つけたか」
清景が尋ねると、男は馬上から頭を下げた。
「宇治の別邸から消えた下働きの男を見つけました」
「生きているのか」
男は答えず、懐から小さな包みを取り出した。
布を開くと、中には黒く焼け焦げた紙の切れ端があった。
「男は、都へ入る手前の林で倒れておりました。すでに息はございませんでした」
「傷は」
「背を一突きにされております」
口を封じられたのだ。
清景は紙の切れ端を受け取り、残された墨の跡へ目を凝らした。
わずかに残った線は、昨夜の紙に描かれていたものと同じ形をしている。
だが、その下にもう一つ、別の印があった。
半分以上が焼け、すべてを読み取ることはできない。
それでも清景は、その形を知っていた。
陰陽寮で術を学ぶ者に与えられる印だった。
しかも、今使われているものではない。
十年以上前に、陰陽寮から名を消された者の印。
「関白さまには、まだ申し上げるな」
「よろしいのでございますか」
「確かめるまでは、余計な疑いを増やすだけだ」
清景は焼け残った紙を懐へ収めた。
「陰陽寮へ急ぐ」
馬の腹を蹴る。
満月を過ぎた空には、薄い雲が広がり始めていた。




