光の消えたあと
池の光が消えると、庭には満月の明かりだけが残った。
水面は何事もなかったように静まり返り、先ほどまで見えていた川沿いの道も、遠くに並ぶ灯も、もうどこにもない。
雅継は紗良を抱いたまま立ち上がった。
折れずに残った矢柄が揺れ、紗良がかすかに息を漏らす。
「関白さま、お待ちください」
清景がすぐに近づき、矢の刺さった肩へ目を向けた。
「揺らせば傷が広がります。矢に触れぬよう、お運びください」
「分かっている」
短く答えた雅継の声は低く、張りつめていた。
紗良の顔から血の気が失われている。
それでも、雅継の衣をつかんだ右手だけは離れていなかった。
「医師は」
「すでに別邸へ走らせております」
清景が答える。
「灯を集めさせよ。湯と清い布も用意させております」
雅継は頷くと、紗良を抱いて歩き出した。
背後では、捕らえられた男が警固の者たちに両腕を押さえつけられている。
だが雅継は振り返らなかった。
今は、紗良の命以外のことを考えられなかった。
*
別邸の一室には、いくつもの灯が運び込まれた。
医師が紗良の傷を確かめる間、雅継はすぐそばに座っていた。
矢の刺さった左肩の衣は、傷の周りだけが切り開かれている。
見慣れぬ白い衣の下にまで血が染み込み、敷かれた布を赤く濡らしていた。
「矢は抜けるのか」
「鏃は深く入っておりません。骨にも届いてはいないようにございます」
医師は慎重に傷へ触れながら答えた。
「ただ、このままにしておくことはできませぬ。これより矢を抜き、血を止めます」
「助かるのだな」
医師の手が、一瞬止まった。
「力を尽くします」
「その言葉では足りぬ」
雅継の声に、室内の空気が凍りついた。
清景が雅継のそばへ膝をつく。
「関白さま」
「紗良は私を庇った」
雅継は紗良から目を離さなかった。
「あの矢は、私に向けられたものだ」
「承知しております」
「ならば、必ず助けよ」
医師へ向けた言葉でありながら、それは清景にも、自分自身にも言い聞かせているようだった。
清景は静かに頭を下げた。
「命に関わる場所は外れております。今は、医師に任せるほかございません」
紗良の瞼がわずかに動いた。
「……雅継さま」
雅継はすぐに身をかがめた。
「ここにいる」
「矢は……」
「もう案ずるな」
「でも、雅継さまは……」
「傷はない」
その答えを聞くと、紗良の指からわずかに力が抜けた。
「よかった……」
「よくはない」
思わず返した雅継の声が震えた。
「なぜ、あのようなことをした」
紗良は答えなかった。
答える力がないのか、それとも、言葉にする必要がないと思ったのか。
ただ、雅継の顔を見つめている。
「そなたが傷つけば、私が喜ぶとでも思ったか」
紗良は小さく首を振った。
「ならば、二度とするな」
「それは……約束できません」
弱々しい声だった。
それでも、その言葉ははっきりと聞こえた。
雅継の眉が寄る。
「紗良」
「同じことがあったら……きっと、また身体が動いてしまいます」
「動かすな」
「難しいです」
こんな時でさえ、紗良は困ったように笑おうとした。
けれど、すぐに顔を歪める。
雅継はその右手を包み込んだ。
「もうよい。話すな」
「はい……」
「眠っても、私はここにいる」
紗良はかすかに頷いた。
医師が矢を抜く支度を整えている。
雅継は手を離そうとしたが、紗良の指が再び衣をつかんだ。
「行かないで……」
「行かぬ」
雅継は迷わず答えた。
「どこへも行かぬ」
*
矢が抜かれた時、紗良は声を上げなかった。
握った雅継の手に強く爪を立て、その痛みに耐えた。
やがて血が止まり、傷に薬が置かれ、清い布が幾重にも巻かれた頃には、すっかり意識を失っていた。
呼吸は浅いものの、乱れてはいない。
「今宵は熱が出るやもしれませぬ」
医師が告げた。
「傷が腫れ、熱が続くようであれば、決して油断はできません。しかし、血は止まりました。ひとまずはお休ませください」
雅継は紗良の手を握ったまま尋ねた。
「目を覚ますのは、いつだ」
「痛みと疲れで気を失っておられるのでしょう。夜が明ける頃には、お目覚めになるかと」
「それまで、そばにいる」
医師は止めようとせず、深く頭を下げた。
女房たちが血に染まった布を片づけていく。
紗良が着ていた見慣れぬ衣も、切り取られた部分を内側へ折り込み、人目に触れないよう包まれた。
清景はそれを女房から受け取った。
「これは私が預かる。今宵ここで見たものについて、口外するな」
女房たちは緊張した面持ちで頭を下げ、室を出ていった。
人の気配が遠ざかると、雅継が口を開いた。
「男は」
「生きております。今は別の棟で縛らせております」
「誰の命を受けた」
「まだ口を割りません」
「吐かせよ」
声には、冷え切った怒りがあった。
清景は黙って一枚の紙を取り出した。
小さく折り畳まれ、端が黒ずんでいる。
「男の懐から見つかったものでございます」
雅継は紗良の手を離さぬまま、その紙へ目を向けた。
表には何も書かれていない。
清景が紙を広げると、内側の隅に、墨で小さな印が描かれていた。
複雑に重なった線の中に、逆さにした文字のような形が潜んでいる。
「この印には、見覚えがございます」
雅継の目が細くなった。
「どこで見た」
「関白さまが病床にあられた折、お手元へ届いた文に忍ばされていたものと同じでございます」
かつて、雅継が病で伏せっていた頃。
見舞いを装って届けられた文の中に、災いを招く仕掛けが隠されていた。
病を引き起こしたものではない。
すでに弱っていた雅継につけ込み、さらに命を削ろうと忍ばされたものだった。
「同じ者の仕業だと申すか」
「この印だけでは、まだ断じられません。しかし、無関係とは考えにくいでしょう」
清景は紙を灯へ近づけた。
「文の折り方も同じでございます。表からは印が見えぬよう、内側へ重ねてある」
「呪いで仕留められなかったゆえ、今度は矢を放ったか」
「あるいは、今宵ここに関白さまがおいでになると知り、好機と見たのでしょう」
雅継の視線が鋭くなる。
「今宵のことを知る者は限られていた」
「はい」
池に光が現れることも、雅継が紗良を連れて宇治へ向かうことも、公にはされていなかった。
それでも襲撃者は、庭のどこから矢を射れば雅継を狙えるのか知っていた。
偶然入り込んだ者ではない。
「内に、通じている者がいるな」
「そのようでございます」
清景は紙を元の形へ折り戻した。
「捕らえた男の口を割らせます。都にも使いを出し、今宵この別邸への動きを知り得た者を洗います」
「清景」
「はい」
「紗良のことは伏せよ」
清景が顔を上げる。
「傷を負ったことも、あの光のことも、外へ漏らすな。狙いが私だけとは限らぬ」
「承知いたしました」
「二の宮には、紗良がしばらく宇治に滞在するとだけ伝えよ」
「よろしいのでございますか」
「宮が事情を知れば、無理をしてでも来ようとする」
病み上がりの二の宮が、夜を徹して宇治へ向かおうとする姿は容易に想像できた。
「橘には、紗良が生きていることを伝えよ。ただし、宮を邸から出すなと申せ」
「橘ならば、心得ましょう」
清景は立ち上がった。
襖の前まで進んだところで、背後から雅継の声がした。
「もう一つある」
「何でございましょう」
「この邸の者をすべて調べよ。一人も除くな」
「関白さまに長く仕えている者も、でございますか」
「だからこそだ」
雅継は眠る紗良を見つめていた。
「今宵のことを知っていた者の中に、私を殺そうとした者がいる」
清景はしばらく雅継の横顔を見たあと、頭を下げた。
「承知いたしました」
*
夜が更けても、紗良は目を覚まさなかった。
傷の痛みのためか、時折眉を寄せ、浅い呼吸を繰り返している。
雅継は濡らした布を取り、紗良の額へ置いた。
女房に任せることもできた。
それでも、誰かに代わらせる気にはなれなかった。
あの光の中へ紗良を進ませていれば、傷を負うことはなかったのかもしれない。
見たことのない明るい灯。
川沿いに並ぶ建物。
紗良が生きていた、千年後の世。
あちら側なら、この傷も容易に治せたのではないか。
自分が手を離さなかったせいで、紗良を危険な場所へ引き留めたのではないか。
そんな思いが、何度も胸をよぎる。
紗良がかすかに身じろぎした。
「……寒い」
雅継は掛けられた衾を引き上げた。
「紗良」
返事はない。
額へ触れると、先ほどより熱を帯びている。
雅継はその手を離せなかった。
池で紗良を抱き締めた時、自分は確かに告げた。
もう、手放さぬと。
その言葉が、紗良をこの世につなぎ止めた。
だが、手放さないということが、傷つけることと同じであってはならない。
「そなたが選んだのだと、そう思ってもよいのか」
眠る紗良に問いかけても、答えは返らない。
代わりに、衾の中から右手がわずかに動いた。
雅継の指先へ触れ、そのまま力なく止まる。
雅継はその手を包んだ。
「ならば、生きよ」
低い声が、灯の揺れる室に落ちた。
「ここに残ると決めたのなら、私を置いて逝くことは許さぬ」
窓の外では、満月が西へ傾き始めていた。
光を失った池は、深い闇の中で静かに水をたたえている。
その水面に、今度は何も映ってはいなかった。




