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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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残ると決めた夜


池の水面から、白い光が立ち上った。


初めは、月の光が強くなっただけのように見えた。


けれど光は次第に広がり、水面を覆っていく。


風はない。


それなのに池の水が揺れ、白い霧がほとりまで流れてきた。


「清景」


雅継が呼ぶ。


少し離れた場所にいた清景は、すでに池へ向かっていた。


水面と空の月を交互に見たあと、霧の前へ膝をつく。


「紗良が現れた夜と、気の流れが重なっております」


「では、帰れるの?」


紗良が尋ねる。


「分からぬ。だが、道が開くとすれば今だ」


清景が立ち上がった。


「光が消えるまで、どれほどあるかは分からぬ。行くなら急げ」


紗良は池を見た。


白い霧の向こうから、何かが聞こえる。


最初は宇治川の流れる音だと思った。


違う。


遠くを走る車。


電車が線路を渡る音。


誰かの話し声。


聞き慣れていたはずの現代の音が、霧の向こうから届いてくる。


紗良は息を止めた。


鞄の中で、スマートフォンの画面が光った。


電源を切ったはずなのに。


慌てて取り出すと、圏外の表示が消えかけ、すぐに戻った。


一瞬だけ、何かを受信したように画面が揺れる。


そこには、家族の写真が映っていた。


見慣れた顔。


並んで笑う、自分たちの姿。


帰れば会える。


声を聞くことも、手を握ることもできる。


突然いなくなったことを謝ることもできる。


胸が苦しくなった。


「紗良」


雅継の声がした。


顔を上げる。


雅継は少し離れた場所に立っていた。


引き止めようとはしない。


手を伸ばすこともない。


ただ、紗良を見ている。


「行け」


静かな声だった。


「そなたを待つ者のもとへ戻れ」


先ほど、二度と手放さぬと言った人と同じとは思えないほど、迷いのない声だった。


けれど、今なら分かる。


迷いがないのではない。


迷いを見せないようにしているのだ。


紗良は池へ近づいた。


白い霧が、靴の周りへまとわりつく。


現代の音が大きくなる。


水面の中に、見覚えのある景色が浮かんだ。


夕暮れの宇治川。


川沿いの道。


遠くを歩く人々。


千年後の景色が、揺れる水面の向こうに見えている。


あと数歩進めば、戻れるかもしれない。


家族に会いたい。


自分の部屋へ帰りたい。


もう一度、元の生活へ戻りたい。


その気持ちは、今も消えていない。


紗良はスマートフォンに映る家族の写真を見た。


そして、ゆっくり画面を閉じた。


顔を上げる。


雅継は、まだ同じ場所に立っている。


自分から残れとは言わない。


紗良の家族も、役目も、元の生活も知っているから。


自分の望みで、紗良の行く先を変えようとはしない。


帰るための道を探しながら、この時代に残るための身元も用意した。


最後の瞬間まで、選ぶことを紗良へ委ねている。


帰るべきだと思う気持ちと、帰りたいと望む気持ちは、同じではなかった。


紗良はスマートフォンを鞄へ戻した。


池に背を向ける。


白い霧の中から、一歩ずつ雅継のもとへ戻った。


雅継の目が、わずかに見開かれる。


「紗良」


紗良は、その前で足を止めた。


「雅継さまのおそばにいたいのです」


それだけを告げた。


雅継は何も言わなかった。


けれど、その表情から、関白として身につけてきたものが静かに消えていく。


そこにいるのは、誰もが恐れる最高権力者ではなかった。


紗良を帰さなければならないと思いながら、それでも帰したくないと望んでいた一人の男だった。


雅継が手を伸ばす。


その指先が、紗良の頬へ触れる。


確かめるように、ゆっくりと。


「もう、手放さぬ」


低い声だった。


紗良は、雅継の手へ自分の手を重ねた。


その時だった。


池の水面に、不自然な影が映った。


木々の間。


月明かりを反す、細いもの。


紗良は顔を上げた。


闇の中に、人影がいる。


その手には弓があった。


矢の先が、雅継へ向いている。


「雅継さま!」


考えるより先に、身体が動いた。


紗良は雅継の胸を両手で押した。


雅継の身体が横へよろめく。


次の瞬間、風を裂く音がした。


左肩に、強い衝撃が走る。


「――っ!」


身体が後ろへ引かれた。


何が起きたのか理解するより先に、焼けるような痛みが広がる。


白いブラウスに、赤い色が滲んでいく。


「紗良!」


雅継の声が響いた。


膝から力が抜ける。


地面へ倒れる前に、雅継の腕が紗良の身体を受け止めた。


「清景!」


「承知しております!」


清景が鋭く答えた。


庭の外に控えていた護衛の男たちが駆け込んでくる。


「木立の中だ! 逃がすな!」


清景の指した方へ、男たちが走った。


木々の間から、誰かが逃げていく音がする。


別の方向からも護衛が回り込み、やがて短い叫び声と、争う音が聞こえた。


紗良は左肩へ目を向けた。


矢が刺さっている。


傷口から流れた血が、白いブラウスを赤く染めていた。


「抜いては、だめです」


息を整えながら、紗良は言った。


「矢は、そのまま……」


「話すな」


雅継の声が震えている。


紗良を抱く腕に、強く力がこもった。


清景が紗良のそばへ膝をついた。


矢の刺さった位置と、流れる血を確かめる。


「今は動かしてはなりません」


「助かるのか」


「肩の上でございます。深くは入っておりません。急所も外れております」


清景は傷口へ触れないよう、慎重に衣を裂いた。


「血を止めれば助かりましょう」


雅継の顔から、わずかに緊張が抜けた。


それでも紗良を抱く腕は緩まない。


清景は自分の衣の一部を裂き、矢の周囲へ慎重に当てた。


「今は抜いてはなりません。別邸へ運び、明るいところで処置いたします」


「必ず助けよ」


「承知しております」


池の光が大きく揺れた。


雅継が顔を上げる。


白い霧の向こうには、まだ現代の景色が残っている。


紗良の世ならば、より確かな治療を受けられる。


雅継の目に、その考えが浮かんだのを、紗良は感じた。


抱き上げようとする腕の向きが、わずかに池へ変わる。


紗良は、残った力で雅継の衣をつかんだ。


雅継が紗良を見る。


紗良は、ゆっくり首を横へ振った。


言葉は必要なかった。


雅継は、しばらく紗良の目を見つめた。


やがて一度だけ、目を閉じる。


「分かった」


雅継は紗良を胸元へ抱き直した。


「清景、邸へ戻る」


「はい。光も、もう長くはもちません」


清景が立ち上がる。


雅継は紗良を抱いたまま、池へ背を向けた。


その後ろで、水面の光が少しずつ薄れていく。


現代の車の音。


人々の声。


遠くを走る電車。


一つずつ、宇治川の流れる音へ溶けていった。


白い霧が消える。


池に残ったのは、満月を映す静かな水面だけだった。


帰る道は閉じた。


紗良は雅継の衣をつかんだまま、目を閉じた。


最後に聞こえたのは、自分の名を呼ぶ雅継の声だった。

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