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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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帰したくはない


雅継のあとを追い、紗良は宴の席から離れた。


廊を進むにつれて、笛や琵琶の音が遠ざかっていく。


行き交う者の姿も少なくなり、やがて聞こえるのは二人の衣擦れと、庭の虫の声だけになった。


紗良は、雅継の背中を見つめた。


宴の席で、雅継は紗良の身元を引き受けた。


関白家が預かる者だと、誰も逆らえない形で言い切った。


二の宮もまた、紗良を伴ったのは自分だと公の場で告げた。


自分がここにいることで、二人へ余計な負担をかけているのかもしれない。


帰るための衣も、すでに用意されている。


そこまでしてもらったのなら、もう迷ってはいけないのだと思った。


元の世には家族がいる。


仕事も、途中で放り出したままになっている。


この時代に残れば、これからも誰かの力を借りなければ生きていけない。


寂しくても、帰るべきなのだ。


雅継が足を止めた。


「牛車を待たせてある」


「はい」


紗良は、それ以上何も尋ねなかった。


*


宮中の人目につかない門の外に、牛車が一台待っていた。


従う者は少ない。


雅継の側近と、護衛の男たちが数人いるだけだった。


紗良が乗り込むと、雅継も向かいへ座る。


牛車がゆっくりと動き出した。


宮中の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。


紗良は膝の上へ両手を置いた。


二の宮の檜扇は、宴の席へ置いてきた。


大切なものだから、必ず取りに戻る。


そう約束した。


けれど、今夜帰る道が開けば、その約束を守ることはできない。


二の宮の顔を思い浮かべる。


黙って消えることは許さぬ。


私に、そなたを捜させるな。


あの言葉も、守れないかもしれない。


それでも、別れを告げに戻れば、決意が揺らぐ。


姫にも、小夜にも、千代にも会いたくなる。


橘には、二の宮のことを頼みたい。


一人ずつ顔を見てしまえば、帰ることなどできなくなる。


紗良は、向かいにいる雅継を見た。


雅継は何も話さず、牛車の外へ顔を向けている。


月明かりが、その横顔を淡く照らしていた。


話したいことは、いくつもあった。


宴で守ってくれたことへの礼。


帰る道を探してくれたことへの礼。


自分の身元まで引き受けてくれた理由。


それでも今は、何を口にしても別れの言葉になりそうだった。


紗良は何も言えないまま、揺れる牛車に身を任せた。


雅継もまた、一度も口を開かなかった。


*


宇治へ着いた頃には、月はさらに高く昇っていた。


雅継の別邸は、川の流れが聞こえるほど近くにある。


都の邸ほど広くはない。


庭や廊には灯りが置かれ、数人の者が静かに行き交っていた。


「関白さま」


別邸の入口で、清景が待っていた。


「池に変わりはないか」


「今のところ、変わりはございません。月の位置も、紗良が現れた夜とほぼ同じでございます」


雅継は庭の奥へ目を向けた。


「分かった。引き続き見ておけ」


「承知いたしました」


清景は頭を下げたあと、紗良へ目を向けた。


「鞄と光る板は持ってきたか」


「スマートフォンです。鞄の中にあります」


「ならば、着替えろ」


清景が奥の局を示す。


「衣は用意してある。月が池へかかるまで、あまり時がない」


紗良は雅継を見た。


雅継は何も言わず、わずかに頷いた。


紗良は女房のあとへ続いた。


*


薄紅の衣を、一枚ずつ脱いでいく。


宴のために整えられた髪も、現代の服に合うよう簡単にまとめ直された。


最後に、白いブラウスへ腕を通す。


乾いた布が肌に触れた。


泥と水染みは残っているが、確かに自分の服だった。


紺色のパンツ。


薄手の上着。


形の崩れた靴。


長い袖も、幾重にも重なる裾もない。


立ち上がると、身体が驚くほど軽かった。


鞄を肩へかけ、中を確かめる。


財布。


化粧ポーチ。


ハンカチ。


腕時計。


充電ケーブル。


そして、スマートフォン。


すべて揃っている。


電源を入れると、暗い局の中で画面が光った。


圏外。


充電は、残り五十パーセント。


家族の写真を開く。


見慣れた顔。


並んで笑う、自分たちの姿。


この写真の中にいた頃には、雅継も二の宮も、姫も清景も知らなかった。


今では、彼らのいない日々へ戻ることが怖い。


紗良は画面を閉じた。


帰ると決めたのだ。


これ以上、迷ってはいけない。


*


紗良が局を出ると、清景が最初に振り返った。


頭から足元まで眺め、眉を寄せる。


「やはり奇妙な姿だな」


「元の世では普通です」


清景は鞄へ目を向けた。


「必要なものはすべてあるか」


「あります」


「ならば行くぞ。月が池へかかる」


雅継は、初めて見る紗良の姿を静かに見つめていた。


「それが、そなたの世の衣か」


「はい」


雅継の視線が、泥の残る白い袖へ向く。


「こちらへ来た時も、その姿だったのだな」


「そうです」


紗良は少し笑った。


「初めて見た方は、ずいぶん驚いたでしょうね」


雅継は何も答えなかった。


けれど、その目は、元の世へ戻ろうとしている紗良を見つめているようだった。


「月が待ってくれると思うな」


清景が二人を急かす。


三人は庭の奥へ進んだ。


*


木々の間を抜けると、池が見えた。


宇治川から引かれた水は、夜の中で静かに揺れている。


池の向こうには満月が浮かび、水面にも同じ月が映っていた。


紗良は足を止めた。


胸の奥がざわつく。


「ここに、私が現れたのですね」


「ああ」


答えたのは清景だった。


「そなたは、あの辺りに倒れていた」


清景が指したのは、池のほとりにある草地だった。


霧の中で足元を失ったあと、紗良はここへ現れた。


「これから、どうするの?」


「待つ」


「それだけ?」


「月がさらに高く昇れば、そなたが現れた夜と同じ位置に来る。何かが起きるとすれば、その時だ」


「何も起きなかったら?」


「今夜は帰れぬ」


清景は池と月を見比べた。


「話があるなら、今のうちに済ませろ。変化があれば呼ぶ」


それだけ言うと、少し離れた場所へ下がった。


*


池のほとりに、紗良と雅継だけが残った。


水の音と、遠くを流れる宇治川の音が聞こえる。


雅継は池を見つめていた。


紗良は、その横顔を見た。


この人とも、もうすぐ別れる。


そう思った途端、押し込めていた寂しさが胸いっぱいに広がった。


「雅継さま」


「何だ」


「ありがとうございました」


雅継が紗良を見る。


「何の礼だ」


「すべてです」


声が震えないよう、紗良はゆっくり話した。


「突然現れた私を、あの邸に置いてくださったこと。姫さまのそばにいることを許してくださったこと。二の宮さまのもとへ行かせてくださったこと」


一つずつ口にするたび、別れが近づいてくる。


「帰る道を探してくださったことも、私の身元を引き受けてくださったことも」


「まだ、帰れると決まったわけではない」


「道が開いたら、戻ります」


雅継の表情がわずかに動いた。


「そう決めたのか」


「はい」


紗良は池へ目を向けた。


「元の世には、家族がいます。会いたい人も、戻らなければならない場所もあります」


それは嘘ではない。


帰りたい気持ちは、今もある。


「それに、私がここにいれば、雅継さまはこれからも私を守らなければなりません」


「それが何だ」


「私は、この時代で名乗れる家も身分もありません。今日のようなことが、これからも起きるでしょう」


紗良は、できるだけ穏やかに笑った。


「私一人のために、これ以上迷惑をかけられません」


雅継の目が、まっすぐ紗良へ向けられた。


「迷惑だと、誰が申した」


「誰にも言われていません。でも」


「ならば、勝手に決めるな」


低い声だった。


「そなたを守ることも、身元を引き受けることも、私が決めた。そなたに頼まれたからではない」


「では、どうして」


紗良は雅継を見た。


「どうして、そこまでしてくださるのですか」


雅継はすぐには答えなかった。


「戻るがよいとおっしゃったから、私は、雅継さまも私が帰ることを望んでいるのだと思っていました」


「帰るべきだとは思っている」


「それは、私が聞きたいこととは違います」


紗良は、胸の奥に押し込めてきた問いを口にした。


「雅継さまは、私に帰ってほしいのですか」


雅継は池へ目を向けた。


長い沈黙のあと、低い声が落ちる。


「帰したいのではない」


紗良の胸が大きく鳴った。


「帰さねばならぬと思っている」


雅継は、水面に映る月を見つめたまま続けた。


「そなたには、元の世で待つ者がいる。家族も、役目も、帰る場所もある。それを知りながら、私の望みだけで引き止めることはできぬ」


「では」


紗良は一歩、雅継へ近づいた。


「私が残ると言ったら?」


雅継が紗良を見る。


その目には、もう関白としての冷静さはなかった。


「その時は」


雅継の声が低くなる。


「二度と手放さぬ」


その瞬間、池の水面が白く光った。

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