満月の宴
宴の日、紗良は夜が明けきらないうちに起こされた。
女房たちの手で髪を整えられ、用意されていた薄紅の衣を一枚ずつ重ねていく。
衣は美しかった。
淡い色の重なりには秋草が織り込まれ、動くたびに光の加減で模様が浮かび上がる。
けれど紗良の胸にあるのは、目の前の衣とはまるで違うものだった。
泥の残った白いブラウス。
水染みのついた紺色のパンツ。
清景が見せた、元の世の衣。
今は再び包まれ、清景のもとにある。
今夜、必要になった時に届けると言っていた。
詳しい段取りは、雅継から話すことを禁じられている。
清景が教えたのは、それだけだった。
「紗良さま」
女房に呼ばれ、紗良は顔を上げた。
「檜扇を」
差し出された箱の蓋を開ける。
紅葉と流水が描かれた檜扇。
流れる水の中には、銀の細い線で縁取られた二枚の紅葉が重なっている。
二の宮の御印。
紗良は檜扇を両手で受け取った。
元の世の衣と、この時代で贈られた扇。
どちらも自分のものなのに、二つを同時に身につけることはできない。
「お美しゅうございます」
女房が微笑んだ。
「ありがとうございます」
紗良も笑おうとした。
けれど、うまく笑えている自信はなかった。
*
二の宮は、すでに出立の準備を終えていた。
いつもより重ねた衣をまとい、髪を整えた姿には、病の床に伏していた頃の弱々しさがない。
紗良が局へ入ると、二の宮はしばらく黙ってその姿を見ていた。
「おかしいでしょうか」
「いや」
二の宮の視線が、紗良の手にある檜扇へ移る。
「忘れなかったな」
「これほど言われて、忘れられません」
「ならばよい」
二の宮は立ち上がった。
歩みは安定している。
けれど、今日は宮中まで移動し、長い宴を過ごすことになる。
「苦しくなったら、すぐに教えてください」
「まだ邸を出てもおらぬ」
「先にお伝えしておこうと思って」
「そなたこそ、その衣の裾を踏むな」
二の宮が先に歩き出す。
紗良は裾へ目を落としかけ、慌てて顔を上げた。
足元ばかりを見てはいけない。
歩幅を小さくし、急がずに進む。
簀子へ出ると、牛車が待っていた。
女房たちに見送られ、紗良は二の宮に続いて乗り込んだ。
牛車が動き出す。
車輪の揺れに合わせ、重ねた衣がかすかに擦れた。
「緊張しているのか」
二の宮が尋ねた。
「少し」
「昨日から、心がここにないようだ」
紗良は檜扇を握り直した。
「宴のことを考えています」
「それだけか」
すぐには答えられなかった。
清景から、何も話すなと言われている。
二の宮に隠し事をしたまま、その隣に座っていることが苦しかった。
「今は、申し上げられません」
二の宮は紗良を見た。
「また関白か」
「雅継さまだけのことではありません」
二の宮の眉がわずかに寄った。
紗良は、すぐに言い直した。
「関白さまから、宴の折に話があると伺っています」
「その話を聞けば、そなたは何かを決めるのか」
紗良は膝の上へ目を落とした。
「分かりません」
二の宮はそれ以上尋ねなかった。
牛車の外から、都の音が聞こえてくる。
人の声。
牛の歩く音。
遠くで鳴る鐘。
やがて二の宮が、静かに言った。
「以前、約束したことは覚えているな」
黙って消えることは許さぬ。
私に、そなたを捜させるな。
あの時の言葉が蘇る。
「覚えています」
「ならばよい」
二の宮は目を閉じた。
その横顔を見ながら、紗良は檜扇を持つ手に力を込めた。
*
宮中へ着くと、すでに多くの牛車が並んでいた。
重ねた衣の裾を引く女房たち。
先導する従者。
行き交う人々の声。
あちこちで焚きしめられた香の匂い。
紗良は足を止めそうになったが、少し先を歩く二の宮の背を見て、再び進んだ。
案内された場所には御簾が下ろされ、いくつもの灯りが置かれている。
庭には色づいた枝が飾られ、秋の草花を載せた台が並んでいた。
池の水面には、昇り始めた月の光が揺れている。
紗良は教えられた場所へ座った。
二の宮は、そのすぐ前にいる。
顔色は悪くない。
呼吸も落ち着いている。
紗良は安心して檜扇を胸の前に持った。
それでも、周囲から向けられる視線は感じた。
近くに控えていた女房の目が、紗良の檜扇で止まる。
その隣にいる者も、銀で縁取られた二枚の紅葉へ目を向けた。
小さな囁きが広がっていく。
二の宮は振り返らなかった。
御印の意味を隠すつもりなど、初めからないのだろう。
やがて、人々の動きが変わった。
控えていた者たちが一斉に頭を下げる。
雅継が姿を現した。
濃い色の衣をまとい、何人もの公卿を従えて歩いてくる。
関白として宴へ現れた雅継は、邸で二人きりになった時とは別人のように見えた。
誰もがその動きを目で追い、近くにいる者でさえ、容易には声をかけられない。
紗良も頭を下げた。
雅継が近くを通る。
顔を上げてはいけないと思いながら、紗良はわずかに目を動かした。
雅継の視線が、紗良の手元で止まった。
二の宮から贈られた檜扇。
そのことは、すでに知っているはずだ。
それでも実際に紗良が持つ姿を見た時、雅継の目にわずかな変化が浮かんだ。
だが、それは一瞬だった。
雅継は何も言わず、定められた座へ進んでいった。
*
日が落ちると、宴が始まった。
笛や琵琶の音が庭へ流れる。
華やかな衣が灯りに照らされ、風が吹くたびに香が漂ってきた。
空には、欠けるところのない月が昇っている。
紗良は時折、二の宮の様子を確かめた。
差し出された酒には、ほとんど口をつけていない。
長く座ってはいるが、呼吸に乱れは見られなかった。
「見すぎだ」
二の宮が前を向いたまま言った。
「何をですか」
「私の顔だ」
「具合を見ています」
「分かっている」
声には力がある。
紗良は少し安心し、庭へ目を戻した。
その時、男たちの座から声が上がった。
「二の宮さま」
呼びかけたのは、右大臣に近い公卿の一人だった。
「今宵お伴いの女人は、いずれの家の姫君でございましょう」
辺りの空気が変わった。
それまで聞こえていた話し声が小さくなる。
紗良は檜扇を持ったまま、身を固くした。
問いかけは穏やかだった。
けれど、本当に知りたいだけではないことは、紗良にも分かった。
「見慣れぬ御方ながら、二の宮さまの御印をお持ちとお見受けいたします」
周囲の視線が、一斉に紗良へ集まる。
檜扇で顔を隠したくなった。
けれど、今隠せば、さらに怪しまれるような気がした。
何と答えればよいのだろう。
清景からは、何も答えるなと言われている。
それでも沈黙したままでよいのか分からない。
紗良が口を開きかけた時、別の声が響いた。
「その者の身元は、私が預かっている」
雅継だった。
大きな声ではない。
それでも、その場にいる誰もが口を閉じた。
雅継の視線は、問いかけた公卿へ向けられている。
「我が姫の病を退け、二の宮の命を支えた者だ。その働きを認め、私が二の宮のもとへ遣わした」
紗良は息を止めた。
清景から聞いた言葉だった。
けれど、雅継自身の口から、公の場で告げられるのを聞くと、その重みはまるで違った。
「されど、いずれの家の――」
男がなおも尋ねようとする。
雅継の目が、わずかに細くなった。
「それを知って、何とする」
低い声だった。
男は言葉を失った。
「紗良について問いたいことがあるならば、その者ではなく私に申せ」
宴の場が静まり返る。
雅継は、誰の反論も許さぬ声で続けた。
「私が身元を預かると申した。それでは足りぬか」
「……いいえ」
男は深く頭を下げた。
それ以上、紗良の出自を尋ねる者はいなかった。
二の宮が振り返る。
その視線が、紗良の顔から雅継へ移った。
「紗良は、私が今宵伴った者でもある」
二の宮は静かに告げた。
「宴の席で、これ以上詮索する必要はあるまい」
男はもう一度、深く頭を下げた。
管弦の音が再び始まる。
人々も、何事もなかったように話を戻していく。
けれど紗良には、すぐに気持ちを切り替えることができなかった。
自分には、この時代で名乗れる家がない。
父の名も、母の家も、身分を証明するものもない。
それを雅継が、自分の名と立場を使って守った。
二の宮も、紗良を伴った者として、その言葉を支えた。
現代では、自分の身元を誰かに保証してもらう必要などなかった。
水城紗良という名があり、住所があり、看護師の資格があり、働く場所があった。
この時代では、そのどれも役に立たない。
それでも今、自分をここにいてよい者として認める人がいる。
帰るべき理由は何一つ消えていない。
けれど、残していくものだけが増えていく。
紗良は檜扇を握りしめた。
雅継を見る。
すでに別の公卿と話している。
先ほどのことなど、何でもなかったような顔をしていた。
だが、紗良には分かっていた。
何でもないはずがない。
素性の分からない女の身元を関白が引き受ける。
それがどれほど重いことなのか、今なら少しだけ分かる。
――どうして、そこまでしてくださるのですか。
清景には、本人へ聞けと言われた。
今夜、その答えを聞かなければならない。
*
宴が進むにつれて、月は高く昇っていった。
庭の池に、丸い月が映っている。
風が水面を揺らすたび、月の形が崩れ、また一つに戻る。
清景の姿は、どこにもなかった。
宴が始まる前には宮中にいたと聞いたが、いつの間にか姿を消している。
すでに、今夜のために動いているのだろう。
胸の鼓動が速くなる。
その時、雅継に仕える従者が、御簾の外へ現れた。
人目を避けるように近づき、紗良のそばに控える女房へ何かを告げる。
女房が紗良へ顔を寄せた。
「紗良さま」
「はい」
「関白さまがお呼びでございます」
ついに来た。
紗良は檜扇を持ったまま、二の宮の背中を見た。
黙って立ち去ることはできない。
以前、約束した。
自分を捜させない。
何も告げずに消えない。
「二の宮さま」
紗良が呼ぶと、二の宮が振り返った。
「関白さまから、お召しがありました」
二の宮の目が細くなる。
「何の話だ」
「まだ分かりません」
「戻るのか」
宴の席へ戻るのか。
それとも、元の世へ戻るのか。
どちらを尋ねられたのか分からなかった。
紗良は、二の宮の目をまっすぐ見た。
「黙ってはいなくなりません」
答えになっていないことは分かっていた。
それでも、今はそれ以上のことを約束できなかった。
二の宮はしばらく紗良を見ていた。
やがて、檜扇へ目を落とす。
「それは置いていけ」
紗良は驚いて、手元を見た。
「でも」
「私のそばへ置いていけ」
低い声だった。
宴の作法として言ったのではない。
必ず戻ってこいという意味なのだと、紗良にも分かった。
紗良は檜扇を箱へ収め、二の宮のそばへ置いた。
「お預けします」
「ああ」
「大切なものですから、必ず取りに戻ります」
言ってから、その約束を守れるのか不安になった。
二の宮は答えなかった。
ただ一度だけ、行けというように目を閉じた。
紗良は立ち上がった。
女房に裾を支えられ、従者のあとへ続く。
管弦の音が遠ざかっていく。
灯りの数も少なくなり、廊の先には月明かりだけが差し込んでいた。
角を曲がったところで、従者が足を止める。
その先に雅継が立っていた。
宴の席で見せていた関白の顔ではない。
月の下で初めて出会った夜と同じように、一人の男として紗良を見ている。
「雅継さま」
呼びかけると、雅継の視線が紗良の手元へ向いた。
「扇はどうした」
「二の宮さまへ預けてきました」
雅継は何も言わなかった。
ただ、その表情からわずかな硬さが消えたように見えた。
「お話とは、何でしょうか」
「ここでは申せぬ」
「では、どこへ?」
雅継は月を見上げた。
欠けるところのない光が、その横顔を照らしている。
「宇治へ向かう」
紗良の胸が大きく鳴った。
「清景が待っている」
雅継はそれだけ告げ、先に歩き出した。
紗良は一度だけ、宴の席がある方を振り返った。
几帳と御簾の向こうに、二の宮がいる。
そのそばには、紅葉と流水を描いた檜扇を置いてきた。
今から向かう先には、泥の残る白い衣が待っている。
管弦の音が、秋の夜へ流れている。
紗良は前を向き、雅継のあとを追った。




