帰る道、残る道
宴を翌日に控えた朝、二の宮は宮中からの使いを迎えるため、いつもより早く局を出た。
紗良は女房たちとともに、明日身につける衣を確かめていた。
淡い薄紅の衣。
紅葉と流水を描いた檜扇。
衣はすでに一度合わせているが、宴へ出るとなれば、確認しなければならないことがいくつもあるらしい。
「紗良さま」
橘に呼ばれ、紗良は顔を上げた。
「清景さまがお見えでございます」
「また突然ですね」
清景が二の宮の邸を訪れるのは、これが初めてではない。
今さら驚く者はいなかったが、先触れもなく現れることには、橘もまだ慣れていないらしい。
「紗良さまへ、直接お話があるとのことでございます」
紗良が局へ入ると、清景は以前と同じ場所に座っていた。
そのそばには、使い古された布で包まれた荷物が置かれている。
紗良が座るのを待つと、清景は橘へ顔を向けた。
「二人で話す。下がってくれ」
「二の宮さまより、紗良さまのおそばを離れぬよう申しつけられております」
「関白さまの命だ」
清景の声が低くなる。
「今から話すことは、聞かせられぬ」
橘は、すぐには動かなかった。
清景も視線を逸らさない。
やがて橘は紗良へ顔を向けた。
「何かございましたら、すぐにお呼びくださいませ」
「分かりました」
橘は深く頭を下げ、局を出ていった。
人の気配が十分に遠ざかるまで、清景は何も話さなかった。
「ずいぶん慎重なのね」
「そなたが、何でも顔に出すからだ」
「清景に言われたくない」
「私は隠す必要のあることを、そなたのように口へ出さぬ」
清景は包みへ手をかけた。
「外へ声が漏れぬようにしてある。だが、大きな声は出すな」
「何を見せるつもり?」
「見れば分かる」
結び目が解かれる。
中から現れたものを見て、紗良は息を止めた。
白いブラウス。
紺色のパンツ。
薄手の上着。
そして、履いていた靴。
すべて、紗良がこの時代へ来た日に身につけていたものだった。
白かったはずのブラウスには、茶色い水染みが残っている。
パンツの裾には、乾いた泥がついていた。
靴も濡れたまま乾いたらしく、形が少し崩れている。
「これ……」
紗良はブラウスへ手を伸ばした。
指先に触れた布は、間違いなく現代のものだった。
「どうして清景が持っているの?」
「怪しいものだったからだ」
「人の服を、勝手に怪しいもの扱いしないで」
「見たことのない布と形だった。しかも、この世のものではない気をまとっていた。怪しむなという方が無理だ」
いかにも清景らしい答えだった。
「私が着替えさせられたあと、清景が持っていったの?」
「ああ。そなたが何者かも分からなかったからな。呪いに使われたものかもしれぬと考え、陰陽寮で預かっていた」
紗良は泥の残るパンツへ目を落とした。
「洗わなかったのね」
「洗えば、付着しているものが失われる」
「何か分かった?」
「泥も水も、この世のものと変わらぬ」
「何も分からなかったということ?」
「そうとも言う」
「最初から、そう言えばいいでしょう」
「そなたが余計なことを尋ねるからだ」
清景は、白いブラウスを紗良の前へ押し出した。
「明日の夜、これを身につけてもらう」
紗良は顔を上げた。
「宴で?」
「宴では、二の宮さまが用意した衣を着ればよい」
「では、いつ着替えるの?」
「それは、明日になれば分かる」
「どこで?」
「まだ話せぬ」
「なぜ?」
「関白さまから、当日の段取りは必要になるまで知らせるなと言われている」
紗良は眉を寄せた。
「私のことなのに?」
「そなたのことだからだ」
清景の返事は早かった。
「今からすべて知れば、二の宮さまの前で普段どおりに振る舞えぬだろう」
「それは……」
否定できなかった。
「宴へ出る前に二の宮さまへ話し、止められるかもしれぬ。あるいは、そなたの様子から何かを悟られる。それを避けるためだ」
「でも、何も知らないまま宴へ行くのは不安です」
「そなたが知っておくべきことは一つだ」
清景は、紗良の目をまっすぐ見た。
「帰る道が開くとすれば、明日の満月だ」
紗良の指が、ブラウスの上で止まった。
「本当に、帰れるの?」
「分からぬ」
清景は迷わず答えた。
「だから、同じ条件を揃える。そなたがこの世へ現れた時と同じ衣を着て、同じ持ち物を身につける」
「鞄も?」
「ああ。あの光る板も持ってこい」
「スマートフォンです」
「それもだ」
「清景は前にも聞いたでしょう」
「覚える必要を感じなかった」
「感じて」
清景は聞き流した。
「腕につけていたものも持ってこい」
「腕時計?」
「壊れていても構わぬ。こちらへ来た時に持っていたものは、すべて必要になるかもしれない」
紗良は汚れたブラウスを見つめた。
「この服を取り寄せたのは、清景?」
「関白さまだ」
「雅継さまが?」
清景の眉がわずかに動く。
「本人の前でない時は、関白さまと呼ぶのではなかったか」
「今は二人だけでしょう」
「呼び方を使い分ける意味がないな」
「あります」
「私には分からぬ」
清景は服を示した。
「陰陽寮に預けたままになっていたものを、一つ残らず揃えるよう命じたのは関白さまだ。そなたが帰ると決めた時、足りぬものがあってはならぬと」
紗良は答えられなかった。
雅継は、見えないところで帰るための準備を進めている。
清景に月の動きを調べさせ、現代の衣まで揃えさせた。
「やはり、雅継さまは私を帰すおつもりなのね」
「本人に聞け」
「清景は、どう思うの?」
「私の考えを聞いても意味はない」
「少しくらい答えてくれてもいいでしょう」
「ならば答える。帰すと決めているわけではない」
紗良は顔を上げた。
「どうして分かるの?」
「帰すと決めているなら、そなたに何も知らせず、道が開く場所へ連れていけばよい」
「雅継さまは、そのようなことはしません」
「ならば、そなたにも分かっているではないか」
紗良は言葉に詰まった。
「関白さまは、そなたが帰ると決めた時のために、帰る道を整えている。それ以上のことは、私に聞くな」
「帰らないと決めたら?」
「それも、本人に聞け」
清景の言葉は素っ気ない。
けれど、紗良にはそれが答えのようにも聞こえた。
雅継は、紗良の代わりに決めようとしていない。
帰るかどうかを、紗良自身に選ばせようとしている。
そのために、どちらを選んでも後悔しないよう、できることを進めている。
「道が開いてから迷う時間はないかもしれぬ」
清景が言った。
「明日の夜までに、考えておけ」
「そんなに簡単には決められない」
「簡単だとは申していない。だが、選ばずに済ませることはできぬ」
*
清景は服を包み直した。
「持って帰るの?」
「ここに置けば、二の宮さまの目に触れる」
「では、明日は?」
「必要になった時に、そなたのもとへ届ける」
「それも雅継さまが?」
「段取りは話すなと言われている」
清景はきっぱりと答えた。
何を尋ねても、これ以上は話さないつもりらしい。
包みを閉じた清景は、立ち上がりかけてから、もう一度紗良へ顔を向けた。
「もう一つある」
「まだ何か?」
「宴で、そなたの出自を尋ねる者がいるかもしれぬ」
紗良の表情が変わった。
「私の出自を?」
「どこの家の女なのか。なぜ姫さまの局に現れ、今は二の宮さまの邸にいるのか。二の宮さまが御印の入った檜扇を贈ったことで、関心を持つ者が増えた」
紗良は、近くに置かれた檜扇の箱へ目を向けた。
贈り物一つにも、持ち主が考える以上の意味がある。
「聞かれたら、どう答えればいいの?」
「何も答えるな」
「黙っていたら、余計に怪しまれない?」
「そなたが答える必要はない。関白さまが答える」
「雅継さまが?」
清景は呼び方を注意することを諦めたようだった。
「そなたは、関白家が身元を預かる者だ。姫さまを救い、二の宮さまの命を支えた働きを認め、関白さまが二の宮さまのもとへ遣わした。そういうことになった」
「そういうことに、とは」
「千年後から来た女だと話すつもりなら、止めはしない」
「話しません」
「ならば、関白さまが用意した身元を使え」
紗良は清景を見つめた。
「雅継さまが、私の身元を引き受けてくださったの?」
「ああ。そなたの出自を勝手に探ることも、怪しき女と噂することも許さぬと仰せになった。異を唱える者には、自分へ直接申せとも」
胸の奥で、何かが大きく揺れた。
雅継は、紗良が帰るための準備を進めている。
それと同時に、この時代にいる紗良の身元も引き受けている。
「どうして」
思わず声がこぼれた。
「どうして、そこまでしてくださるの?」
「本人に聞け」
「清景は、そればかりね」
「私は関白さまではない。分からぬことを、勝手に代わって答える方がおかしい」
清景は包みを抱えて立ち上がった。
「明日は、何も知らぬ顔で二の宮さまとともに宴へ出ろ」
「そんな簡単に言わないで」
「簡単だ。黙っていればよい」
「私が黙っていると、二の宮さまは余計に気づくの」
「ならば、いつもどおり余計なことを話していろ」
「どちらなのよ」
「それは自分で考えろ」
清景は几帳の外へ声をかけ、橘を呼び戻した。
橘が局へ入った時には、元の世の衣はすべて包みの中へ隠されていた。
「お話はお済みでございますか」
「ああ」
「紗良さま、何かございましたか」
橘に問われ、紗良は清景を見た。
「何もない」
先に答えたのは清景だった。
「清景」
「そなたは顔に出る。余計なことを申すな」
「本当に感じが悪い」
「今に始まったことではない」
清景は包みを抱えたまま、さっさと局を出ていった。
*
清景が帰ったあと、紗良は一人になる時間を作った。
鞄の中から自宅の鍵を取り出す。
帰れば、この鍵で扉を開ける。
見慣れた部屋がある。
使い慣れた家具があり、照明も水も、指先一つで使うことができる。
携帯電話を充電すれば、家族や友人の声も聞ける。
自分がいなくなってから、どれほど心配しているだろう。
病院では、突然姿を消した自分を、どのように扱っているのだろう。
帰らなければならない。
そう思う。
目を閉じると、先ほど見た白いブラウスが浮かんだ。
泥と水染みが残り、あの日の時間を閉じ込めたままの衣。
それを身につければ、元の自分へ戻れるのだろうか。
帰りたい。
家族に会いたい。
自分の部屋へ戻りたい。
もう一度、看護師として働きたい。
そのどれもが嘘ではない。
同時に、胸の奥へ別の思いが浮かぶ。
姫は、宮中へ上がったあとも、怖い時に怖いと言えるだろうか。
二の宮は、自分の身体の具合に合わせて休むことができるだろうか。
橘は、紗良が書き残したものを見ながら、二の宮を支えてくれるだろうか。
清景は、相変わらず遠慮のない言葉で人を怒らせながら、それでも必要なことを続けていくのだろうか。
そして雅継は。
紗良が帰ったあとも、何事もなかったように関白として過ごすのだろうか。
――ならば、戻るがよい。
あの時の雅継の声が蘇る。
帰るべきだと思ったから、帰る道を探した。
紗良が困らないよう、元の世の衣も揃えた。
それなのに、紗良の身元を引き受け、この時代にいる間も守ろうとしている。
帰る道と、残る道。
雅継は、どちらも紗良が選べるようにしているのかもしれない。
そのことが、かえって苦しかった。
帰れと命じられれば、従うことができる。
残れと言われれば、その言葉を理由にすることもできる。
けれど、自分で選べと言われれば、どちらの思いも見ないふりができない。
*
夕暮れ近くになって、二の宮が戻ってきた。
局へ入ると、紗良の顔を見て足を止めた。
「何があった」
「何もありません」
答えた途端、二の宮の眉が寄った。
「何もない者は、そのような顔をせぬ」
「どのような顔ですか」
「遠くへ行こうとしている顔だ」
紗良の胸が大きく鳴った。
「清景が来たそうだな」
「はい」
「何を話した」
紗良は膝の上で指を重ねた。
「明日の宴について、少し」
「それだけか」
「それ以上は、申し上げられません」
二の宮は、しばらく紗良を見ていた。
問い詰められると思った。
けれど、二の宮は何も尋ねなかった。
「そうか」
短く答えると、紗良のそばに置かれた檜扇の箱へ目を向ける。
「明日は、それを忘れるな」
「はい」
「私が贈った扇だ」
「分かっています」
二の宮はそれ以上何も言わず、自分の座へ向かった。
紗良は檜扇の箱へ手を伸ばした。
箱の中には、紅葉と流水を描いた扇が収められている。
今はここにない、泥の残る白いブラウス。
目の前にある、二の宮から贈られた檜扇。
どちらも、紗良が歩いてきた道につながっている。
満月の夜、自分はどちらの姿を選ぶのだろう。
答えを出せないまま、宴の朝が近づいていた。




