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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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檜扇(ひおうぎ)の向こう


翌朝から、紗良の檜扇《ひおうぎ》を扱う稽古が始まった。


教える役を任されたのは、二の宮に長く仕える年嵩の女房だった。


「宴では、このようにお持ちくださいませ」


女房が細く畳んだ扇を両手で持つ。


紗良も同じように真似をした。


「もう少し、右を上へ」


「こうですか」


「上げすぎでございます」


少し下げる。


「今度は下がりすぎております」


紗良は動きを止めた。


「このくらいでしょうか」


「はい。そのままで」


ようやく正しい位置に収まったらしい。


ほっとして力を抜いた途端、扇の先がわずかに下がった。


「紗良さま」


「すみません」


離れた場所に控えていた女房たちの間から、かすかな笑いが漏れた。


昨日受け取った時には、美術館のガラスケースに飾られていそうな品だと思った。


けれど今は、何かの試験道具にしか見えない。


「それほど難しいものか」


声のした方を見ると、庭歩きから戻った二の宮が脇息に寄りかかっていた。


「難しいです」


「持つだけであろう」


「では、二の宮さまがお手本を見せてください」


「男の持つ扇とは違う」


すぐに返され、紗良は口をつぐんだ。


「それに、私は教わらずとも扱える」


「お生まれになった時からですか」


「そのようなものだ」


ずるい。


思わずそう言いかけたが、紗良は飲み込んだ。


千年後の世で生まれた自分には、知らないことが多すぎる。


衣の重ね方。


座る場所。


人との距離。


誰に、どのような言葉を使うのか。


贈り物一つにも、持ち方や見せ方がある。


「次は、扇を開いてみましょう」


女房に促され、紗良は紐を解いた。


そっと広げると、紅葉と流水の絵が現れる。


流れる水の中には、銀の細い線で縁取られた二枚の紅葉が重なっていた。


二の宮の御印。


紗良は傷つけないように気をつけながら、檜扇を顔の前へ上げた。


「もう少し、お下げくださいませ。目元まですべて隠しては、前が見えません」


少し下げる。


「はい。そちらでございます」


「これでよいのですね」


「しばらく、そのままで」


腕が疲れそうだと思ったが、口には出さなかった。


檜扇の向こうから見ると、二の宮の姿が細い骨の間に見え隠れする。


「私の前でまで隠す必要はない」


紗良は檜扇を少し下げた。


「お稽古ですから」


「ならば、よそを向いてせよ」


「二の宮さまに見ていただくよう、橘さまから言われています」


二の宮の視線が橘へ向いた。


橘は何も聞こえなかったような顔で、庭を眺めている。


その様子がおかしくて、紗良は扇の陰で少し笑った。


「今、笑ったな」


「いいえ」


「ならば、扇を下ろせ」


紗良が素直に下ろすと、二の宮はしばらくその顔を確かめた。


「宴までには、覚えられそうか」


「たぶん」


「たぶんでは困る」


「では、覚えます」


そう答えると、二の宮は満足したように庭へ目を戻した。


*


昼を過ぎると、宴で着る衣が運び込まれた。


何枚もの衣を抱えた女房たちが次々と局へ入り、紗良の前に色とりどりの絹を重ねていく。


紅葉に合わせた濃い紅。


秋の空を思わせる淡い青。


月の光に似た白。


そのどれもが、現代では見たことのないほど繊細な色をしていた。


「こちらをお召しいただきます」


女房が選んだのは、淡い薄紅を重ねた衣だった。


その上には、色づき始めた秋の野を思わせる模様が織り込まれている。


「きれいですね」


紗良が手を伸ばすと、女房が慌てて衣の下へ手を添えた。


「そのようにお持ちになりますと、皺になってしまいます」


「あ……すみません」


反射的に手を引く。


何をするにも作法がある。


衣を重ね終えると、紗良の身体は普段よりひと回り大きくなったように感じられた。


「重いですね」


「宮中へお出ましになるには、これでも控えめでございます」


「これで控えめなのですか」


驚いて振り向くと、重なった裾が遅れて動いた。


「紗良さま、急にお身体を動かされてはなりません」


「すみません」


今日だけで、何度謝ったか分からない。


「宴では、二の宮さまとともにお入りになり、そのおそばへお座りいただきます」


女房が、紗良と二の宮の座る位置を示した。


思っていたよりも近い。


「ずっと、こちらにいるのですか」


「はい。二の宮さまにお付き添いするお立場でございますから」


紗良は頷いた。


宴への同伴は、二の宮の体調を見守るためでもある。


人が多く集まる場所で、長く座っていれば疲れも出るだろう。


苦しくなった時に、すぐ気づける距離にいた方がよい。


そう考えれば、近くに座る理由にも納得できる。


「二の宮さまがお疲れになった場合、途中で退出することはできますか」


「私ではなく、そなたの方が先に疲れそうだな」


二の宮が口を挟んだ。


「私は大丈夫です」


「先ほどから、重いと申していたではないか」


「慣れていないだけです」


紗良は立ち上がろうとした。


だが、裾の端を踏み、身体が前へ傾く。


すぐそばにいた二の宮が腕をつかんだ。


「危ない」


「すみません」


二の宮の手は、思っていたよりも強かった。


以前のような頼りなさはない。


紗良が自分で立てることを確かめると、その手はゆっくり離れた。


「これでは、宴へ着く前に転ぶぞ」


「練習すれば歩けます」


「ならば、歩いてみよ」


二の宮に促され、紗良は廊の端へ立った。


歩幅を小さくする。


足元ばかり見ない。


急がない。


後ろの者を待たせるほど遅くもしない。


女房に教えられたことを思い出しながら、ゆっくりと進む。


「もう少し、お顔を上げてくださいませ」


顔を上げると、裾が気になる。


裾を見ると、背中が丸くなる。


「難しいです」


「紗良さまは、普段のお歩きになる速さが少々……」


女房が言いにくそうに口ごもる。


「速いのですね」


「はい」


現代では普通に歩いていたつもりでも、この時代では急いでいるように見えるらしい。


もう一度、廊の端へ戻る。


今度は裾を踏まずに歩くことができた。


「先ほどより、よくなりました」


女房に言われ、紗良はほっと息をついた。


「宴までには、何とかなりそうです」


「たぶん、か」


二の宮が聞く。


紗良は少し考えてから答えた。


「何とかします」


今度は、二の宮も何も言わなかった。


*


衣を脱いで局へ戻ると、紗良は思わず肩を回した。


短い時間着ていただけなのに、身体のあちこちが重い。


あれを身につけたまま、宴の間じゅう座っていられるのだろうか。


「疲れたか」


「少しだけ」


「先ほどは大丈夫だと申していた」


「二の宮さまこそ、疲れても大丈夫だとおっしゃるでしょう」


そう返すと、二の宮は黙った。


紗良はその向かいへ座り、呼吸と顔色を確かめる。


今日はよく歩き、長い時間、紗良の稽古にも付き合っていた。


それでも、息苦しさは見られない。


回復している。


そのことが嬉しいはずなのに、胸の奥には小さな寂しさがあった。


自分がいなくても大丈夫なように、橘へ気をつけることを伝えた。


二の宮の身体も、少しずつ自分の手を離れていく。


それは喜ぶべきことだ。


看護師として、何度もそう思ってきた。


「また、遠くへ行っているな」


「考え事をしていました」


「宴のことか」


「それもあります」


紗良は、そばに置かれた檜扇の箱へ目を向けた。


「これを持って、二の宮さまのおそばに座ればよいのですよね」


「そうだ」


「ほかには?」


「余計なことを申さず、勝手に動かず、私から離れぬこと」


「子どもではありません」


「そなたは目を離すと、何をするか分からぬ」


言い返そうとしたが、思い当たることが多すぎた。


井戸を調べ、病人の局へ入り、陰陽師とともに動き、雅継の看病までした。


二の宮から見れば、確かに何をするか分からない女かもしれない。


「宴では、おとなしくしています」


「信用できぬな」


二の宮の口元が、わずかに緩んだ。


*


夕暮れ前、関白家の使いが訪れた。


見覚えのある従者は、二の宮の局へ入る前に橘へ文を差し出した。


「紗良さまへ、関白さまより」


橘から文を渡され、紗良は思わず二の宮を見た。


二の宮は脇息に寄りかかり、静かにこちらを見ている。


その場で開いてよいものか迷っていると、二の宮が庭へ顔を向けた。


紗良は文を開いた。


書かれていたのは、短い言葉だけだった。


――宴の折、話がある。


胸の奥がざわめく。


何の話だろう。


帰る道について、新たに分かったことがあるのかもしれない。


それとも、先日の続きを話すつもりなのか。


――ならば、戻るがよい。


あの言葉が、もう一度胸の中に蘇る。


「何と」


二の宮に問われ、紗良は文を閉じた。


「宴の折に、お話があるそうです」


「関白が?」


「はい」


二の宮は、それ以上何も尋ねなかった。


ただ、紗良のそばに置かれた檜扇の箱へ一度だけ目を向けた。


紗良も、その視線を追う。


宴では、二の宮とともに参内する。


そのそばに座り、二の宮の御印が入った檜扇を持つ。


そして、雅継と話をする。


その場で何を告げられるのか、今はまだ分からない。


次の満月まで、あと七日。


秋の宴は、三日後に迫っていた。

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