帰る支度
雅継のもとから戻った紗良を、二の宮は簀子に近い場所で待っていた。
脇息に身体を預けてはいるが、顔色は悪くない。
紗良が帰ってくる時刻を知っていたのだろう。庭へ向けていた顔を、足音が近づく前にこちらへ向けた。
「遅かったな」
「お待たせしてしまいましたか」
「待ってはおらぬ」
間を置かずに返ってきた。
近くに控えていた橘が、わずかに顔を伏せる。
どうやら、待っていたらしい。
紗良は気づかないふりをして、二の宮の前へ座った。
「関白は、何と申した」
「それは……」
紗良は言葉に詰まった。
千年後の世から来たこと。
満月の夜に、帰る道が開くかもしれないこと。
そして、雅継から戻るよう告げられたこと。
二の宮には話すなと言われている。
「口止めされたか」
見透かすように言われ、紗良は小さく息をついた。
「はい」
「私にも申せぬと」
「申し訳ありません」
二の宮はしばらく紗良を見ていたが、それ以上は尋ねなかった。
「ならば、よい」
不満がないわけではないらしい。
それでも、無理に聞き出そうとはしなかった。
そのことに安堵しながら、紗良は二の宮の様子へ目を向ける。
朝よりも呼吸は落ち着いている。声にも力があった。
「今日は、お疲れではありませんか」
「そなたほどではない」
「私は元気です」
「そうは見えぬ」
紗良は思わず自分の頬へ触れた。
雅継と交わした言葉が、まだ胸の内に残っている。
――ならば、戻るがよい。
帰りたいのかと問われても、答えることができなかった。
それなのに、帰るべきなのだと思うと告げた。
雅継は、紗良が望んだ言葉を返しただけなのかもしれない。
それでも、あまりにも迷いがないように聞こえた。
「紗良」
呼ばれて顔を上げる。
「また、遠くへ行っていたな」
「すみません。少し考え事をしていました」
「この邸にいながら、よく遠くへ行く女だ」
呆れたように言われ、紗良は少し笑った。
「戻ってきました」
二の宮は何も答えず、庭へ目を戻した。
*
翌朝、紗良は橘を二の宮の局へ呼んだ。
二の宮は庭を歩く支度をしている。
以前なら、立ち上がるだけでも何人もの者がそばに控えた。今では自ら衣を整え、差し出された手にも頼らず簀子へ下りる。
それでも、無理をすれば息が苦しくなることはある。
「橘さま。少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「何でございましょう」
「二の宮さまが息苦しそうになられた時のことを、もう一度お伝えしておきたくて」
橘の顔に緊張が走った。
「また、お悪くなると?」
「そういう意味ではありません。お元気になられるまでお仕えするというお約束でしたから」
二の宮がこちらを見る。
紗良はその視線に気づきながら、橘へ言葉を続けた。
「でも、これから先も二の宮さまのおそばにいて、お支えするのは橘さまです。知っておいていただければ、私も安心です」
橘は紗良の顔を見つめたあと、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
紗良は、二の宮の呼吸が乱れた時に気をつけることを、一つずつ伝えた。
すぐに横にならせず、上体を起こすこと。
衣を緩め、煙や強い香りを遠ざけること。
苦しがっている時には、無理に話をさせないこと。
落ち着かなければ、ためらわず医師を呼ぶこと。
橘は何度も確かめながら聞いている。
「水は、あらかじめ用意しておく必要はありません。ただ、口が乾いているようなら、落ち着いてから少しずつ差し上げてください」
「一度に多く差し上げてはならぬのですね」
「はい。無理に飲んでいただく必要もありません」
「私を置いて話を進めるな」
二の宮の声が割って入った。
振り向くと、いつの間にかすぐ近くまで歩いてきている。
「置いてはいません」
「私が息もできぬほど弱い者であるように聞こえる」
「苦しい時に頑張ってお話しになるので、橘さまに止めていただこうかと」
橘が再び顔を伏せた。
今度は、笑いを隠しているように見えた。
「橘」
「はい」
「余計なことまで覚えるな」
「どれが余計なことか、私には分かりかねます」
二の宮が橘を睨む。
以前より、主従のやり取りにも軽さが戻っている。
紗良は二人を見ながら、胸の奥にわずかな安堵を覚えた。
自分がいなくなっても、二の宮は一人ではない。
橘がいる。
長く仕えてきた者たちもいる。
きっと、大丈夫だ。
「紗良」
「はい」
「庭へ出るぞ」
「今日はどちらまで歩かれますか」
「橋を越える」
「昨日は橋の手前まででした」
「だから今日は越える」
当然のように告げると、二の宮は先に歩き出した。
紗良と橘が、その後を追う。
足取りは以前よりずっと確かだった。
ゆっくりではあるが、庭石の前でも立ち止まらず、自分で歩く場所を選んで進んでいく。
赤く色づき始めた木々の向こうに、朱塗りの橋が見えていた。
二の宮は橋の中央まで歩くと、欄干へ片手を置いた。
紗良はすぐそばまで近づいたが、手は出さなかった。
「休みましょうか」
「まだ歩ける」
「歩けることと、休まなくていいことは別です」
二の宮は不満そうな顔をしたものの、それ以上進もうとはしなかった。
自分で息を整えようとしている。
以前なら、止められるまで歩いただろう。
「少しずつ、ご自分の身体の具合がお分かりになってきましたね」
「子どもに言い聞かせるように申すな」
「褒めたつもりです」
「ならば、褒め方を改めよ」
口ではそう言いながら、二の宮の横顔はどこか得意そうだった。
*
局へ戻ると、女房たちが大きな箱を運び入れていた。
紗良が目を向けると、二の宮は座につきながら告げた。
「開けよ」
「私が、ですか」
「ほかに誰がいる」
橘も女房たちも、紗良を見ている。
促されるまま蓋を開けると、薄紙に包まれた檜扇扇が収められていた。
紗良は息を止めた。
広げられた扇面には、色づいた紅葉と流れる水が描かれている。ところどころに金が置かれ、光の加減で細かく輝いた。
結ばれた紐にも、見たことのないほど細かな細工が施されている。
美術館なら、ガラスケースの中に飾られていそうな品だった。
「これを、私が?」
「宴で使え」
「お借りしてよろしいのですか」
「貸すとは申しておらぬ」
紗良は檜扇と二の宮を交互に見た。
「では、宴が終わりましたらお返しいたします」
二の宮の眉が寄った。
「人の話を聞いていたか」
「聞いております。でも、このような立派なものをいただく理由がありません」
「私とともに宴へ出る」
二の宮は迷いなく告げた。
「理由はそれで足りる」
紗良には、まったく足りているように思えない。
助けを求めて橘を見ると、橘は檜扇の端を示した。
「こちらの意匠は、二の宮さまがお使いになる品にだけ施されるものでございます」
よく見ると、流れる水の中に、重なる二枚の紅葉が描かれている。
ほかの紅葉とは異なり、その部分だけ銀の細い線で縁取られていた。
「これを持っていたら、二の宮さまからいただいたものだと分かるのですか」
「見る者が見れば」
橘が答える。
紗良は、もう一度檜扇へ目を落とした。
現代の贈り物とは違う。
誰から贈られたのかを口にしなくても、持っているだけで周囲に伝わってしまう。
これは扇というより、二の宮の名札を持たされるようなものではないだろうか。
――さすが平安時代。
贈り物一つにも、意味がありすぎる。
「お気に召さぬか」
二の宮の声に、紗良は慌てて顔を上げた。
「いいえ。とてもきれいです。ただ、私が持ってもよいものなのかと」
「よいかどうかは、私が決める」
いかにも二の宮らしい答えだった。
紗良は檜扇を両手で持ち、頭を下げた。
「ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
ようやく二の宮の眉間から皺が消えた。
「宴までに、扱い方を覚えよ」
「扱い方があるのですか」
「まさか、開いて風を送るだけだと思っていたのか」
「違うのですか」
女房たちの間から、かすかな笑いが漏れる。
紗良は檜扇を手にしたまま、先ほどよりも深刻な気持ちでそれを見つめた。
宴へ出るまでに覚えなければならないことは、歩き方だけではないらしい。
*
その日の夕暮れ、紗良は橘へ伝えたことを紙に書き留めていた。
文字にすれば、この時代の者には分かりにくい言葉もある。
一つずつ言い換えながら筆を動かす。
煙を遠ざける。
身体を起こす。
衣を緩める。
無理に話をさせない。
苦しさが続けば、医師を呼ぶ。
「それは何だ」
顔を上げると、二の宮が立っていた。
紗良は反射的に紙を伏せた。
「橘さまへお渡しするものです」
「今朝の話か」
「はい。覚えておいていただければ、これからも安心ですから」
「誰が」
「私が、です」
二の宮は紗良の前まで歩いてくると、伏せられた紙へ目を向けた。
「関白のもとから戻って以来、そなたは先のことばかり考えている」
紗良は答えられなかった。
「宴の後も、姫の局へは戻らぬのか」
「分かりません」
「では、どこへ行く」
「それも、まだ……」
「分からぬことばかりだな」
責める声ではなかった。
だからこそ、紗良は顔を上げられなかった。
「雅継さまだけのことではありません」
口にしてから、しまったと思った。
二の宮の目が細くなる。
「関白が、そなたの行く先に関わっているのか」
「それは……申し上げられません」
「また口止めか」
「はい」
しばらく、何の音もしなかった。
やがて二の宮は、紗良が伏せていた紙から目を離した。
「申せぬのなら、今は聞かぬ」
紗良はそっと顔を上げた。
二の宮は不機嫌そうな顔をしている。
それでも、問い詰めることはしなかった。
「だが、紗良」
「はい」
「どこへ行くにしても、黙って消えることは許さぬ」
紗良の指先が、紙の上で止まった。
「私に、そなたを捜させるな」
強い言葉だった。
けれど、その奥にあるものは怒りではないように思えた。
紗良はゆっくりと頷いた。
「分かりました」
「本当か」
「はい。黙ってはいなくなりません」
二の宮は紗良の顔を確かめるように見つめたあと、踵を返した。
その袖が、近くに置かれた箱の端へわずかに触れる。
箱の中には、紅葉と流水を描いた檜扇が収められている。
帰る道が開いた時、これをどうすればよいのだろう。
返してから行くべきなのか。
それとも、持っていってもよいのか。
そんなことを考えた自分に、紗良は気づいた。
帰れるかどうかも分からない。
帰りたいのかさえ、まだ分からない。
それでも少しずつ、帰るための支度だけが整っていく。
次の満月まで、あと八日だった。
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※「檜扇」とは、薄い檜の板を重ね、糸で綴じて作られた扇です。平安時代の貴族女性が、儀式や宮中行事などで用いました。




