戻るがよい
「おそらく、ここから千年ほど先の世から参りました」
紗良の声が、静かな部屋へ落ちた。
雅継は何も言わなかった。
驚いているのか、信じていないのか、その表情からは分からない。
紗良は懐から布包みを取り出した。
結び目をほどき、中に収めていたスマートフォンを雅継の前へ置く。
「何だ、これは」
「私がいた時代の物です」
雅継は黒い画面へ目を落とした。
「何に使う」
「遠くにいる人と話したり、文を送ったり、時刻を見たり……いろいろなことに使います」
「これほど小さな物でか」
「はい」
雅継の目が、わずかに疑うような色を帯びた。
当然だと思う。
紗良もこの時代へ来る前に、手のひらほどの板で遠くの人間と話せると言われたなら、簡単には信じなかっただろう。
紗良が画面へ触れる。
淡い光がともり、数字が浮かび上がった。
電池の残量は、五十パーセント。
雅継の視線が、画面へ注がれる。
「光っている」
「はい」
「火もないのに」
「私の時代では、不思議なことではありません」
「この中に人がいるのか」
「人は入っておりません」
紗良は思わず少し笑った。
けれど雅継は、冗談を言ったつもりではなさそうだった。
「人の声や姿を、遠くから届けることができるのです」
説明しながら、自分でも無理があると思う。
電波も電気も知らない相手に、スマートフォンを理解してもらうのは難しい。
雅継は画面へ手を伸ばしかけ、触れる前に止めた。
「触れても大丈夫です」
紗良が差し出すと、雅継はスマートフォンを手に取った。
指先が画面へ触れる。
表示が変わり、雅継の眉がわずかに動いた。
「今、何をした」
「雅継さまが触れたので、画面が変わりました」
「私が動かしたのか」
「はい」
雅継はもう一度触れようとしたが、今度は何も起こらなかった。
「いつも同じようには動かぬのか」
「触れる場所が違います」
「分かりにくい物だな」
「慣れれば便利なのです」
千年前の人にスマートフォンが分かりにくいと言われ、紗良は少しだけ複雑な気持ちになった。
雅継はしばらく眺めたあと、スマートフォンを紗良の前へ戻した。
「これが、そなたの申すことの証しなのか」
「これだけで信じていただけるとは思っていません」
画面の光が消える。
部屋の中には、再び秋の昼の光だけが残った。
「私の言葉も、病について知っていることも、この時代のものとは違います。人を助けるための仕事をしていたことも、本当です」
「医師ではないと申していたな」
「はい。看護師といいます。医師のように病を診断したり、薬を決めたりする仕事ではありません。病人のそばで、その人の身体や暮らしを支える仕事です」
雅継は黙って聞いていた。
「だから、私を看病できたのか」
「私一人でお救いしたわけではありません。医師が診て、皆さまが水や食事を用意してくださいました。私は、できることをしただけです」
「そのように申すところも、変わらぬな」
「変わらぬとは?」
「何でも自分でしたような顔はせぬ」
思いがけない言葉だった。
褒められたのかどうかは分からない。
けれど、雅継が自分のことを見ていたのだと知り、胸の奥が温かくなった。
それも、今だけのことかもしれない。
次の満月に帰ることになれば、この人と言葉を交わす機会は、もう何度も残されていない。
「信じてくださるのですか」
紗良が尋ねる。
雅継はすぐには答えなかった。
「そなたが、どこから来たのか分からぬ女であることは、最初から知っていた」
「それは、そうですが」
「今さら、千年先から来たと申されても、驚くほかにできることはない」
信じた、と明言したわけではない。
それでも、嘘だと退けられることもなかった。
雅継らしい答えだった。
「清景は知っているのか」
「はい。清景さまは、初めてお会いした時から、私がこの時代の者ではないと気づいていました」
「なぜ私には申さなかった」
低い声だった。
紗良は少し迷ってから答える。
「信じていただけないと思いました。それに、知られれば、どのような扱いを受けるか分からなくて」
「私が、そなたを捕らえると思ったのか」
「最初の頃は、少し」
雅継の目が細くなる。
「少しか」
「かなり、です」
正直に言うと、雅継は黙った。
怒らせてしまったかもしれない。
だが、最初に出会った頃の雅継は、紗良にとって、この時代で最も逆らってはならない人だった。
今でも逆らってよいわけではないが、あの頃とは違う。
何が違うのかを、紗良はまだ言葉にできなかった。
「今は」
雅継が尋ねる。
「今も、私を恐れているのか」
紗良は雅継の顔を見た。
「いいえ」
迷わず答えた。
「今は、雅継さまなら守ってくださると思っています」
雅継の表情は変わらなかった。
けれど、文机の上に置かれた指が、わずかに動いた。
「それで、なぜ今になって話した」
紗良はスマートフォンを布へ戻した。
ここからが、本当に伝えなければならないことだった。
「私がこの時代へ来たのは、満月の夜でした」
「満月」
「はい。清景さまによると、次の満月に、私が元の時代へ帰る道が開くかもしれないそうです」
雅継の目が、紗良へ向けられる。
「次の満月とは」
「秋の宴が開かれる夜です」
沈黙が落ちた。
先ほどまでと同じ静けさのはずなのに、部屋の空気が変わったように感じた。
「それで、宴へ行きたいと申したのか」
「はい」
「二の宮に伴うためではなく」
紗良は一瞬、答えに迷った。
「二の宮さまのお身体も心配です。姫さまたちにも会いたいと思っています。けれど、一番の理由は、帰る道を確かめるためです」
雅継は目を伏せた。
先ほどまでの不機嫌な表情は消えている。
代わりに浮かんだものを、紗良は読み取れなかった。
「帰れると決まったのか」
「いいえ。道が開くかどうかも分かりません。開いたとしても、短い間だけかもしれないと」
「その時に決めるのか」
「おそらくは」
自分で口にすると、選ばなければならない時が近づいていることが、急に現実味を帯びた。
元の世界へ帰るのか。
この時代へ残るのか。
帰れば、姫にも、千代にも、小夜にも、清景にも、二の宮にも、二度と会えない。
そして、雅継にも。
胸が苦しくなる。
だが、元の世界にも、自分が突然消えたことを案じている人がいるかもしれない。
途中になった仕事も、暮らしていた部屋もある。
簡単に捨ててよいものではなかった。
「戻りたいのか」
雅継が尋ねた。
低く、静かな声だった。
紗良は顔を上げる。
雅継は真っ直ぐに紗良を見ていた。
問いかけは一つだけだった。
帰るべきかではなく。
誰が待っているかでもなく。
紗良自身が、戻りたいのか。
「分かりません」
正直に答えた。
「こちらへ来たばかりの頃は、帰りたいとしか思っていませんでした。でも今は……」
続きが言えない。
雅継が待っている。
「今は、帰ることが怖いです」
「なぜだ」
「この時代で出会った方たちと、二度と会えなくなるからです」
雅継の表情は変わらない。
紗良は膝の上へ目を落とした。
「それでも、元の世界には、何も告げずに残してきた人たちがいます。私がどこへ行ったのかも分からず、心配しているかもしれません」
「そなたを待つ者とは」
「家族や、一緒に働いていた人たちです」
雅継は少し黙った。
「夫もいるのか」
「夫?」
思いがけない問いに、紗良は目を瞬いた。
「おりません」
「そうか」
雅継の返事は、妙に早かった。
「結婚もしておりません」
「けっこん」
「夫婦になることです」
「ならば、初めからそう申せ」
聞かれたから答えただけなのに、なぜ注意されるのだろう。
紗良には分からなかった。
雅継は何事もなかったように文机へ目を落としている。
けれど、先ほどまで文の端を押さえていた指から、わずかに力が抜けていたことに、紗良は気づかなかった。
「戻らなければならぬのか」
雅継が尋ねた。
紗良は少し考えてから頷いた。
「そう思います」
戻りたい、とは言えなかった。
ただ、戻らなければならないと思う。
その違いに、雅継が気づいたかどうかは分からない。
雅継はしばらく紗良を見つめていた。
「ならば、戻るがよい」
覚悟していた言葉だった。
それなのに、胸の奥を強く押されたように痛んだ。
引き止めてほしかったのだろうか。
帰る道を捨てて、ここに留まれと。
雅継がそのようなことを言うはずがないと分かっていた。
自分でも、まだ何を選ぶか決められないのに。
「はい」
紗良は頭を下げた。
声が震えなかったことに、少しだけ安堵した。
「お話しできて、よかったです」
雅継は何も答えなかった。
紗良は布包みを懐へ戻し、立ち上がろうとした。
「待て」
紗良は動きを止めた。
「このことを知る者は」
「清景さまと、雅継さまだけです」
「二の宮には」
「お話ししておりません」
「ならば、まだ申すな」
「なぜですか」
「道が開くと決まったわけではない。そなたの素性を知れば、利用しようとする者も現れる」
雅継の声には、関白としての冷静さが戻っていた。
「宴までは、これまでどおり二の宮のおそばに控えよ。清景にも、何か分かれば私へ知らせるよう伝えよ」
「承知いたしました」
やはり、この人は守ってくれる。
そう思った直後に、「戻るがよい」という言葉が胸によみがえった。
守ることと、引き止めることは違う。
雅継は紗良を守ろうとしている。
けれど、自分のそばへ留めようとはしていない。
「失礼いたします」
紗良は頭を下げ、今度こそ部屋を出た。
*
紗良が去ったあとも、雅継はしばらく動かなかった。
人を下げたままの部屋には、外から聞こえる風の音だけがある。
――今は、雅継さまなら守ってくださると思っています。
紗良の言葉が残っていた。
守ることはできる。
宮中にいる限り、紗良へ不用意に手を出す者を退けることもできる。
だが、千年先の世へ帰ろうとする女を、どのように守ればよいのか。
留まれと命じることならば、できる。
関白の権威を使い、宴へ出さず、帰る道から遠ざけることもできるかもしれない。
けれど、それをすれば、紗良は二度と雅継を信じないだろう。
「戻るがよい」
自ら告げた言葉を思い出す。
あの時、紗良の顔がわずかに曇った。
それでも、留まれとは言えなかった。
雅継は文机の上へ手を伸ばした。
しかし、手に取った文に何が記されているのか、しばらく頭に入らなかった。
秋の満月まで、あと九日だった。




