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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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次の満月


二の宮が秋の宴への文を開いた翌日、邸に陰陽師が訪れた。


「賀茂清景さまにございます」


橘から名を聞いた紗良は、思わず顔を上げた。


清景と会うのは、雅継の病が落ち着いて以来だった。


二の宮は御簾の内側で、わずかに眉を寄せる。


「祈祷ならば要らぬ」


「そのようにお伝えしたのですが」


橘が困った顔をする。


病に伏すたび、僧や陰陽師が呼ばれてきたのだろう。


香を焚かれ、火を焚かれ、祈りの声に囲まれる。


二の宮が嫌がるのも無理はなかった。


「清景さまは、その……宮さまにお目にかかるために参ったのではないと」


「では、誰に」


橘の視線が、紗良へ向く。


嫌な予感がした。


清景が自分を訪ねてくる理由など、一つしか思い浮かばない。


「私ですか」


「そのようにございます」


二の宮も紗良を見る。


「知り合いなのか」


「知り合いと申しますか……以前、少しお世話になりました」


「少しではない」


廊から声がした。


橘が御簾を上げるより先に、清景が姿を見せる。


相変わらず遠慮がない。


「この女が都へ現れた時から、その素性を調べている」


「清景さま」


紗良は慌てて声を上げた。


それ以上、二の宮の前で話されては困る。


だが清景は、紗良の焦りなど気にも留めない顔をしていた。


二の宮が清景を見つめる。


「素性を?」


「少々、変わった生まれの女ゆえ」


「それは、見れば分かる」


あっさりと返され、今度は紗良が二の宮を見た。


「見れば分かるのですか」


「分からぬと思っていたのか」


「もう少し、周りに馴染めているつもりでした」


二の宮の口元が、かすかに緩んだ。


「それは難しかろう」


清景まで真顔で頷く。


二人にそろって否定されるとは思わなかった。


「清景さま。お話があるのでしたら、場所を移しましょう」


紗良が立ち上がると、二の宮が呼び止めた。


「私に聞かれてはならぬ話か」


紗良は答えに迷った。


嘘をつきたくはない。


けれど、自分が千年ほど先の世から来たのだと、ここで打ち明けることもできなかった。


「まだ、私にも分からないことなのです」


やがて、そう答えた。


二の宮はしばらく紗良を見ていたが、それ以上は尋ねなかった。


「そうか」


「少し、席を外します」


紗良は頭を下げ、清景とともに廊へ出た。



清景が向かったのは、庭に面した渡殿だった。


二の宮が歩くようになってから、紗良も何度か庭を眺めている。


白い砂の向こうには大きな池が広がり、その水面に空が映っていた。


池の中には小さな島があり、そこへ渡る橋の朱色が、色づき始めた木々の間によく映えている。


庭について詳しいことは分からない。


どの木がどのような意味で植えられ、石がどのような決まりで置かれているのかも知らなかった。


それでも、美しいと思う。


そして、広い。


宮中や雅継の邸とも違う、静かで、少し寂しい広さだった。


池の向こうにいる人の顔は見えない。


誰かに呼びかけても、声が届くか分からないほどだった。


清景は周囲に人がいないことを確かめてから、足を止めた。


「宴は、次の満月の夜だそうだな」


「もうご存じなのですか」


「宮中の行事を、陰陽師が知らぬと思うか」


「思ってはいませんけど」


いつもの調子で返しながらも、紗良の胸は落ち着かなかった。


次の満月。


その言葉を聞くたび、自分がこの時代へ来た夜を思い出す。


清景が紗良へ向き直った。


「そなたがこちらへ来たのも、満月の夜だった」


「はい」


「持っていた物は」


紗良は懐へ手を入れた。


布に包んだスマートフォンを取り出す。


一度、残量が四十五パーセントあることを確かめてからは、ほとんど触れていない。


使えば電池が減る。


なくなれば、もう二度と充電することはできない。


そう思うと、怖くて使えなかった。


清景が手を差し出す。


紗良は迷った末に、スマートフォンを渡した。


「以前と変わりは」


「ありません。電波はずっとないままです」


「でんぱ」


「遠くにいる人と話すための……目には見えないものです」


「その説明では何も分からぬ」


「これ以上は、私にもうまく説明できません」


清景が側面へ触れる。


突然、暗かった画面が淡く光った。


紗良は息をのんだ。


清景は電源の入れ方など知らない。


画面には、こちらへ来てから正しいのかどうかも分からなくなった時刻が表示されている。


その隅には、五十パーセントという数字が残っていた。


細かな光が一瞬だけ画面を走り、すぐに暗くなる。


「今、何をしました?」


「何もしておらぬ」


「触りましたよね」


「触れただけだ」


清景はスマートフォンを見つめていた。


「これが光る時、そなたの周りの気もわずかに乱れる」


「前にも、そうでしたか」


「いや。今日ほどはっきりと感じたのは初めてだ」


紗良の指先が冷たくなる。


「どういうことですか」


清景はすぐには答えなかった。


池へ目を向ける。


風が水面を渡り、映っていた空を細かく揺らしていた。


「道が、再び近づいているのかもしれぬ」


紗良は清景の横顔を見た。


「帰れるということですか」


自分の声なのに、遠くから聞こえたように感じた。


清景は、曖昧に慰めるようなことは言わない。


「分からぬ」


やはり、はっきりと答えた。


「満月になれば必ず開くとは申せぬ。そなたが来た時と同じ場所、同じ時が重ならねばならぬのかもしれぬ。ほかにも、我らには分からぬ条件があるのかもしれぬ」


「では、何も分からないのと同じではありませんか」


「何も分からぬのと、可能性があるのとでは違う」


紗良は言葉を失った。


元の世界へ帰る。


それを望んでいたはずだった。


初めて清景に会った時も、帰る方法を見つけてほしいと頼んだ。


元の世には、突然いなくなった自分を案じている人がいるかもしれない。


途中になった仕事もある。


住んでいた部屋も、見慣れた街も、当たり前に使っていたものもある。


帰れる可能性があるなら、喜ぶべきだった。


それなのに、胸の奥に最初に浮かんだのは、喜びではなかった。


姫の顔。


千代と小夜の声。


そして、姫の局で交わした雅継との短い会話。


――文に記したとおり、昨日までは休んだ。


紗良が病み上がりの身体を案じ、休むよう求めたから、雅継はその願いに従った。


だから、もう自分の身を心配しなくてよい。


雅継の告げた「ならば、もう案ずるな」は、そういう意味だった。


ただそれだけの言葉である。


優しい言い方でもなければ、特別な約束をしたわけでもない。


それでも、自分の心配を受け止めてもらえたようで、あの時の紗良は確かに安心した。


――ならば、もう案ずるな。


今になって、その声まで鮮明によみがえる。


なぜ帰れるかもしれないという時に、雅継のことを思い出すのだろう。


紗良はスマートフォンを受け取り、両手で包んだ。


「秋の宴が開かれる場所には、大きな池がある」


清景が言う。


「月が高く上がれば、水にも同じ月が映る。そなたがこちらへ来た夜と似た気の重なりが、生まれるかもしれぬ」


「だから、宴へ行けと?」


「行くかどうかを決めるのは、そなただ」


清景は紗良を見た。


「ただし、道が開くとしても、長くは保たぬだろう」


「その場で決めなければならないのですか」


「おそらくは」


あまりにも大きなことを、あまりにも静かに告げられた。


帰るか、残るか。


その時になってから考えればよいと思っていた。


帰る道など見つからないかもしれないと、どこかで決めつけてもいた。


けれど今、選ばなければならない時が、本当に来るかもしれない。


「まだ、誰にも話してはならぬ」


清景が告げる。


「なぜですか」


「確かなことではない。それに、そなたを帰したくない者が知れば、何をするか分からぬ」


紗良の胸が、わずかに揺れた。


「私を帰したくない人など、いるでしょうか」


清景は答えなかった。


その沈黙が、なぜか落ち着かなかった。


「少なくとも、宴までは身辺に気をつけよ」


「また、もののけですか」


「人であるか、もののけであるかは分からぬ」


清景らしい、少しも安心できない答えだった。



紗良が戻ると、二の宮は御簾のそばに座り、庭を眺めていた。


「話は終わったのか」


「はい」


「随分と顔色が悪い」


紗良は自分の頬へ触れた。


「そう見えますか」


「そなたは、人の顔色にはうるさいのに、自分のことには気づかぬらしい」


「私は病人ではありませんから」


「私も、今は病人ではないと申したはずだ」


言い返され、紗良は口を閉じた。


少し前に自分が言った言葉を、覚えていたらしい。


二の宮は、紗良の懐へ目を向けた。


「何を告げられた」


「まだ、私にも分かりません」


廊へ出る前と同じ答えだった。


二の宮は追及しなかった。


ただ、開いたまま置かれた宴の文へ視線を落とした。


「秋の宴へ出れば、そなたも来るのか」


「宮さまのお身体の状態によります」


「私が出られるならば」


紗良はすぐには答えられなかった。


宴の夜、帰る道が開くかもしれない。


二の宮のそばにいれば、その時を迎えられる。


だが、道が開いた時、自分は本当に迷わず帰れるのだろうか。


「おそばに控えるよう命じられましたら」


ようやく答えると、二の宮は小さく頷いた。


それ以上は何も言わなかった。


紗良もまた、宴の文を見つめる。


開かれた文は、昨日までと何も変わっていない。


けれど今は、その先にある満月が、まったく違うものに思えた。



邸を出ようとした清景は、池のほとりで足を止めた。


白い砂の上に、濡れた足跡が一つ残っている。


池から上がったように見えるのに、その先へ続く跡はなかった。


清景が振り返る。


水面には、まだ細い月が映っていた。


その月のすぐ下を、長い髪の女の影が横切った。


次の瞬間には、池には何もいなかった。


「道が近づけば、動くものもあるか」


清景は低く呟いた。


秋の満月まで、あと十日あまりだった。

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