病人ではない時間
二の宮の邸へ来て、四日目の朝を迎えた。
三日分しか持ってこなかった衣は、橘が手配した女房によって洗われ、きれいに畳まれている。
姫の局へ戻るはずだった昨日、主上から滞在を延ばすようにとの命が届いた。
いつまでとは、書かれていなかった。
紗良は姫へ文を送り、しばらく戻れなくなったことを伝えた。
千代と小夜は心配しているだろう。
姫も、寂しく思っているかもしれない。
懐には、雅継から届いた短い文が入ったままだ。
――そなたの願いに従い、今日までは休む。
もう何日も前の文なのに、なぜ持ち歩いているのだろう。
紗良は紙に触れた指を離した。
「紗良さま」
几帳の向こうから、橘が声をかけた。
「宮さまがお目覚めにございます」
「すぐに参ります」
紗良は立ち上がった。
*
二の宮は、寝具の上へ身体を起こしていた。
部屋から香炉を遠ざけて三日が経つ。
火鉢も身体の近くには置かず、煙がこもらないよう気をつけている。
女房たちは最初こそ不安そうだったが、二の宮の咳が少し減ったことで、今では紗良の言葉を聞くようになっていた。
「昨夜は眠れましたか」
紗良が尋ねる。
「夜中に一度、咳で目を覚ました」
「そのあとは?」
「朝まで眠った」
「息苦しさはありましたか」
「少し。だが、以前ほどではない」
紗良は二の宮の顔色を見る。
初めて会った日よりもよい。
唇の色も悪くなく、話している間に息を継ぐことも減っている。
「お手に触れてもよろしいですか」
二の宮は黙って手首を差し出した。
紗良が指を当てる。
脈は落ち着いていた。
「今日は、何をする」
二の宮が尋ねた。
「何を、とは?」
「そなたは昨日、何をすれば苦しくなるのか、少しずつ確かめると申した」
「覚えていらしたのですね」
「私を何だと思っている」
「お話を聞いてくださらない方かと」
二の宮が眉を寄せた。
「ずいぶんな言いようだな」
「初日は、帰るようにおっしゃいましたから」
「帰らなかったではないか」
「主上から、三日間はこちらにいるよう命じられておりましたので」
二の宮は、呆れたように紗良を見る。
「兄上の命には、忠実なのだな」
「帝の仰せですから」
几帳の外で、橘が小さく息を呑むのが聞こえた。
二の宮はしばらく紗良を見ていたが、やがて庭へ目を向けた。
「外へ出たい」
紗良も、御簾の向こうへ目を向ける。
秋の空は晴れ、風も昨日ほど強くない。
「これまで、どのくらい歩いていましたか」
「今年の春に、あの廊の端まで」
二の宮が指した先は、寝殿から続く廊の先だった。
「その後は?」
「出ていない」
橘が几帳の外から口を挟んだ。
「その折にもお咳が止まらなくなりました。以来、宮さまにはお控えいただいております」
「今日は風も穏やかです。お身体も昨日より落ち着いています」
紗良が答えると、橘は不安そうに首を振った。
「もし、またお苦しくなられたら」
「苦しくなる前に戻ります」
「その時を、どう見極めるのですか」
「宮さまに教えていただきます」
紗良は二の宮を見る。
「少しでも胸が苦しい、息を吐きにくい、咳が出そうだと感じたら、すぐにおっしゃってください」
二の宮は黙って聞いている。
「我慢して歩き続けるのであれば、今日は出られません」
「私の邸で、そなたが決めるのか」
「宮さまが我慢なさっていることを、私には見抜けないからです」
「顔を見れば、何でも分かるのではないのか」
「分かりません。ですから、お話しいただきたいのです」
二の宮の表情から、わずかな苛立ちが消えた。
しばらく沈黙したあと、静かに尋ねる。
「苦しいと申せば、すぐに寝具へ戻されるのか」
「休んで、落ち着いたら、また次を考えます」
「二度と出るなとは?」
「申しません」
二の宮は庭へ目を向けた。
その横顔は、初めて会った時よりも幼く見えた。
「皆、私が一度咳をすれば、もう何もするなと申す」
橘が目を伏せる。
「宮さまのお身体を案じてのことでございます」
「分かっている」
二の宮の声は穏やかだった。
「分かっているから、何も申さなかった」
紗良には、その言葉の重さが分かるような気がした。
心配され、守られ、大切にされる。
それでも、何もさせてもらえない日々は、その人から自分で選ぶ力を少しずつ奪っていく。
「今日は、あの廊の端までにしましょう」
紗良が言った。
「その先は?」
「戻ってきた時のご様子を見てからです」
「今日で終わりではないのか」
「お身体の状態がよければ、また歩けます」
二の宮は、橘へ視線を向けた。
「衣を」
橘はまだ迷っていたが、やがて深く頭を下げた。
「承知いたしました」
*
二の宮が立ち上がろうとすると、すぐに二人の女房が左右から身体を支えた。
二の宮の顔に、不本意そうな色が浮かぶ。
紗良はその表情に気づいた。
「まずは、ご自分で立っていただいてはいかがでしょう」
「もし、お倒れになったら」
橘が言う。
「すぐそばで、皆さまと一緒に見ています」
二の宮が、女房たちを下がらせた。
片手を床につき、ゆっくりと腰を上げる。
途中で動きが止まった。
紗良は手を出さず、顔色と呼吸を見ていた。
やがて二の宮は、自分の力で立ち上がった。
「お加減はいかがですか」
「これだけで尋ねるのか」
「立ち上がることも、身体には負担ですから」
「何ともない」
「では、ゆっくり参りましょう」
二の宮が一歩を踏み出す。
裾を踏まないよう足元を確かめながら、もう一歩進む。
歩みは遅い。
けれど、誰の手も借りていなかった。
紗良は半歩後ろを歩いた。
橘と女房たちも、少し離れてついてくる。
御簾の外へ出ると、庭から秋の風が届いた。
紗良は、目の前に広がる景色に思わず足を止めた。
寝殿の前には、白い砂を敷き詰めた広い庭がある。
その向こうには大きな池があり、秋の空を静かに映していた。
池の中央には木々の生えた小さな島が浮かび、岸との間に赤い橋が架かっている。庭の端から流れてきた細い水が、石の間を通り、かすかな音を立てながら池へ注いでいた。
紗良には、庭の造りや、置かれた石や木の意味までは分からない。
それでも、長い年月をかけ、大切に手入れされてきた美しい庭であることは分かった。
赤や黄色に色づき始めた木々が池へ映り、白や薄紫の菊が風に揺れている。
庭というより、一つの風景が、そのまま邸の中に置かれているようだった。
これほど広く美しい場所が、寝殿のすぐ前にある。
それなのに二の宮にとっては、半年もの間、たどり着けない場所だった。
紗良が隣を見ると、二の宮も庭を見つめていた。
「冷たくありませんか」
「いや」
「息苦しさは?」
「まだない」
二の宮はそう答え、ゆっくりと歩き始めた。
廊を半ばまで進んだところで、二の宮の呼吸が少し速くなった。
紗良は歩みを止めた。
「少し休みましょう」
「まだ歩ける」
「歩けることと、今休むことは別です」
二の宮は不満そうに紗良を見たが、廊の柱へ背を預けた。
「そなたは、関白にもそのように申したのか」
突然名を出され、紗良は二の宮を見る。
「なぜ、関白さまが」
「そなたが世話をしたのであろう」
「はい」
「素直に休んだのか」
「一日だけ、延ばしてくださいました」
二の宮が小さく笑った。
「そなたの言葉でも、一日か」
「お忙しい方ですから」
それ以上、二の宮は雅継について尋ねなかった。
紗良も、何も付け加えなかった。
「呼吸は、いかがですか」
「少し速い。だが、苦しくはない」
「では、あと少しだけ進みましょう」
再び歩き始める。
やがて二の宮は、目指していた廊の端へたどり着いた。
庭が最もよく見える場所だった。
二の宮は柱のそばへ座り、紗良も少し離れて膝をつく。
「ここまで来たのは、春以来だ」
「半年ほどですか」
「ああ」
「お庭は、毎日ここにあったのに」
「私には、遠い場所だった」
二の宮は目を細め、秋の庭を眺めた。
誰も言葉を発しなかった。
風が木の葉を揺らし、乾いた音を立てる。
二の宮は病人としてではなく、ただ庭を眺める一人の男に見えた。
*
部屋へ戻る途中、二の宮の足が止まった。
呼吸が先ほどより速くなっている。
「苦しいですか」
「少しだけだ」
今度は、隠さずに答えた。
「では、ここで休みましょう」
二の宮は素直に柱へ身体を預けた。
紗良は少し離れたところへ膝をつき、呼吸の様子を見る。
「お話しくださって、ありがとうございます」
「そのように礼を言われることか」
「我慢せずに伝えていただかなければ、私には分かりませんから」
二の宮は何も答えなかった。
けれど、その表情に先ほどまでの不満はなかった。
呼吸が落ち着くのを待ち、再びゆっくりと歩き始める。
部屋へ戻ると、二の宮は寝具へ身体を預けた。
疲れは見えるが、呼吸は大きく乱れていない。
「今日は、ここまでにしましょう」
紗良が言う。
二の宮は庭の方へ目を向けた。
「明日は」
「今夜と明日の朝のお身体を見てからです」
「そうか」
それ以上、二の宮は求めなかった。
その時、橘が一通の文を運んできた。
「宮さま。主上より、来月の秋の宴について、再びお文が届いております」
二の宮の表情が、わずかに変わった。
「そこへ置いておけ」
「お返事は、いかがいたしましょう」
「今は要らぬ」
橘はそれ以上何も言わず、文箱の上へ文を置いた。
二の宮は、そちらを見ようともしなかった。
紗良も尋ねなかった。
来月、宮中で秋の宴がある。
先ほどまで庭を眺めていた二の宮は、病に伏す皇子ではなく、ただ秋の美しさを楽しむ一人の人に見えた。
けれど、宮中から届いた文を前にした途端、その横顔は再び遠いものになっていた。
寝殿の前の庭へ出るだけでも、半年かかった。
二の宮にとって宮中は、その庭よりもさらに遠い場所なのだろう。
庭から吹き込んだ風が、文箱の上に置かれた紙の端をかすかに揺らした。
それでも二の宮が手を伸ばすことはなく、主上からの文は、開かれないままそこに残った。




