三日で戻るはずだった女
紗良が二の宮の邸へ発った翌日、雅継は姫の局を訪れた。
主上から預かった言葉を伝えるためだった。
それ以外に、理由はない。
御簾の外へ座り、雅継は翌月に予定されている宮中の行事について話した。
姫は静かに聞き、必要なことを書き留めるよう女房へ命じている。
いつもと変わらない光景だった。
ただ一つ、姫から少し離れた場所が空いていた。
雅継の視線が、そこへ向かう。
紗良が控えていた場所だった。
「紗良なら、二の宮さまのもとです」
姫が言った。
「分かっている」
思ったより早く答えてしまった。
姫は扇の向こうから、父の顔を見ている。
「今朝、文が届きました」
「宮のご容体は」
雅継が尋ねる。
「昨夜は、一度お苦しそうになったそうです。紗良が香炉と火鉢を遠ざけ、お身体を起こしてお支えしたところ、少しずつ呼吸が落ち着かれたと」
「そうか」
「香や煙が、お苦しさを強くしているのかもしれないと申していました。ただ、自分は医師ではないので、病が何かは分からないとも」
紗良らしい文だった。
分からぬことを、分かったようには言わない。
できぬことを、できるとも言わない。
そのくせ、目の前で苦しむ者がいれば、できることを見つけるまでそばを離れようとしない。
雅継は、熱に浮かされていた夜を思い出した。
紗良は眠りもせず、何度も水を運び、呼吸を確かめていた。
今は同じことを、二の宮のそばでしているのだろう。
「紗良も、変わりなく過ごしているそうです」
姫が付け加えた。
雅継は顔を上げた。
「それは聞いておらぬ」
「ですから、お伝えしたのです」
姫の声には、わずかに笑いが含まれている。
「何か、おかしいことでも」
「いいえ。父上は、宮さまのご様子しかお尋ねになりませんでしたから」
「主上より、そのために遣わされた女だ。宮のご容体を聞くのは当然であろう」
「はい」
姫は素直に答えた。
それ以上、何も言わない。
そのことが、かえって雅継には落ち着かなかった。
「三日の務めが終われば、戻るのであろう」
「そのように聞いております」
あと二日。
雅継は心の中で数えた。
数える必要などないと思いながら。
*
その日の政務は、いつもより長く続いた。
各地から届いた報告に目を通し、公卿たちの意見を聞き、止まっていた行事の日取りを決める。
雅継がわずかな間でも宮中を離れたことで、判断を待つ事柄が増えていた。
身体はまだ、以前と同じようには動かない。
長く座っていると、背に重さを感じる。
それでも、休むつもりはなかった。
紗良に知られれば、また何か言われるだろう。
そう考えてから、雅継は手を止めた。
今、紗良がそれを知ることはない。
藤原邸にいた時なら、顔を見るだけで気づかれた。
宮中へ戻ってからも、姫の局で一度会っただけで、頬が痩せたことも、立ち上がった時の揺れも見逃さなかった。
だが今は、二の宮の呼吸を見ている。
「関白さま」
近侍に呼ばれ、雅継は顔を上げた。
「何だ」
「先ほどから、同じ文をご覧になっておりますが」
視線を落とす。
確かに、すでに読み終えた文を手にしたままだった。
「次を」
雅継はその文を置いた。
政務に戻ればよい。
紗良がどこにいようと、雅継のなすべきことは変わらない。
そう思った。
*
二日目の夕刻、二の宮の邸から新たな知らせが届いた。
昨夜は大きな発作を起こさず、久しぶりに長く眠れたという。
朝には粥を口にし、昼過ぎには自ら起き上がった。
帝は弟の回復をたいそう喜んだ。
「紗良という女は、なかなか不思議だな」
帝は、雅継の前で機嫌よく言った。
「薬を使ったわけでもないのに、弟は昨夜、よく眠れたそうだ」
「医師の治療が、ようやく効いたのでございましょう」
「弟の部屋から香炉を運び出し、女房たちまで遠ざけたと聞いたぞ」
雅継は答えなかった。
あの女なら、相手が皇族であろうと、必要だと思えば同じことをする。
「弟も、初めは腹を立てていたらしい」
帝が笑う。
「されど今朝は、自ら紗良を呼んだそうだ」
雅継の指が、膝の上でわずかに動いた。
「何かあったのでございますか」
「苦しくなる前に、確かめたいことがあると申していたらしい。弟が自分から誰かを呼ぶとは、珍しいことだ」
それは、よい変化のはずだった。
長く病に伏していた二の宮が、自ら身体のことを知ろうとしている。
帝の弟が回復することは、朝廷にとっても喜ばしい。
雅継が不快に思う理由など、どこにもなかった。
「紗良には、よく仕えるよう申しつけておきます」
雅継は静かに答えた。
*
三日目。
紗良が戻るはずの日だった。
朝から、雅継はいつもと変わらず政務を行った。
紗良が戻るのは姫の局であり、自分のもとではない。
その時刻を気にする必要はなかった。
昼を過ぎても、何の知らせもない。
夕刻になれば、牛車が宮中へ戻るだろう。
そう考えているところへ、帝から呼び出しがかかった。
御前へ進むと、帝は弟宮から届いた文を手にしていた。
「雅継。弟のことだが」
「はい」
「紗良を、もうしばらく置くことにした」
雅継は顔を上げた。
「もうしばらく、でございますか」
「香を遠ざけてから、咳が軽くなったらしい。弟自身も、何によって苦しくなるのか、紗良と確かめたいと申している」
「医師は、何と」
「害になることはしておらぬゆえ、しばらく様子を見てもよいとのことだ」
反対する理由が、一つずつ塞がれていく。
帝の命である。
二の宮自身が望んでいる。
医師も認めている。
そして何より、二の宮の身体は実際に楽になっていた。
「姫の局へ戻すよう、申し上げていたはずでは」
雅継の口から、言葉が漏れた。
帝が意外そうにこちらを見る。
雅継はすぐに続けた。
「姫も、紗良が三日で戻るものと思っておりますゆえ」
「娘には、私から伝えよう」
帝は気に留める様子もなく答えた。
「弟が落ち着くまでだ。長くはかかるまい」
落ち着くまで。
それが何日になるのか、誰にも分からない。
「不都合があるか」
帝に尋ねられ、雅継は頭を下げた。
「ございません」
ほかに答えようがなかった。
「では、そのように」
「仰せのままに」
雅継の声は、いつもと変わらなかった。
*
自らの部屋へ戻る頃には、外は暗くなっていた。
紗良が戻るはずだった一日が、終わろうとしている。
雅継は文箱の前へ座った。
紗良からの文はない。
姫へは、二の宮の状態について毎日知らせているという。
それでよい。
紗良は主上の命を果たしているだけだ。
二の宮も、病の苦しさを減らすために紗良を必要としている。
藤原邸で自分がそうであったように。
そこまで考え、雅継は目を閉じた。
なぜ、自分と二の宮を比べる必要がある。
紗良は医師でも、正式な女房でもない。
どこから来たのかさえ分からぬ女である。
そばに置きたいと思ったことなど、一度もない。
ただ、会わずとも、同じ宮中のどこかにいる。
姫の局を訪れれば、少し離れた場所に控えている。
それを、いつの間にか当たり前のことと思っていた。
今、その女は宮中にいない。
二の宮のそばにいる。
雅継は文箱へ手を伸ばした。
文を書いて、何を尋ねるというのか。
宮の様子か。
紗良が無事か。
いつ戻るのか。
どれも、姫を通せば分かることだった。
雅継は文箱へ伸ばした手を止めた。
関白が、弟宮に仕える一人の女へ私的な文を送る理由はない。
やがて、その手を膝の上へ戻す。
三日で戻ると聞いていた。
その三日が過ぎても、紗良は戻らなかった。




