治せるとは申しません
二の宮の邸は、宮中から牛車で半刻ほどのところにあった。
高い築地塀に囲まれているが、雅継の藤原邸とは雰囲気が違う。
人の出入りは少なく、門をくぐっても、辺りは静まり返っていた。
秋の風が庭の木々を揺らしている。
牛車を降りた紗良のもとへ、昨日、姫の局を訪れた女房が歩み寄った。
「お越しいただき、ありがとうございます」
女房は深く頭を下げた。
「三日間、お世話になります」
「橘と申します。幼い頃から、二の宮さまのおそばに仕えております」
橘は紗良の荷を別の女房へ預け、寝殿へ向かって歩き始めた。
「昨夜から、宮さまのご様子はいかがですか」
「明け方まで、お咳が続いておりました。今は少しお休みになっております」
「食事は取られましたか」
「朝に、粥を二口ほど」
「水は」
「薬湯を少しだけお飲みになりました」
歩きながら答える橘の声には、疲れがにじんでいた。
寝殿に近づくと、甘く重い香りが漂ってきた。
紗良は足を止めた。
「この香りは、いつも焚いているのですか」
「宮さまがお心を鎮められるよう、絶やさぬようにしております」
「お咳がひどい時も?」
「はい」
橘が不思議そうに紗良を見る。
香りと咳の関係を、まだ決めつけることはできない。
ただ、これほど濃い香りが、弱った呼吸に何の影響もないとは思えなかった。
「宮さまにお会いしてから、また伺います」
紗良はそう告げ、橘のあとに続いた。
寝殿の中は薄暗かった。
御簾も几帳も閉じられ、昼間だというのに灯明がともされている。
火鉢のそばでは香炉から煙が立ち昇り、室内の空気は重く淀んでいた。
几帳の奥に、一人の男が横たわっている。
紗良は少し離れた場所へ座り、深く頭を下げた。
「水城紗良と申します。主上の仰せにより、参りました」
しばらく返事はなかった。
眠っているのかと思った時、低い声が届いた。
「兄上も、余計なことをなさる」
想像していたより若い声だった。
二の宮は、ゆっくりと上半身を起こした。
年は紗良より少し下に見える。
髪は長く艶やかだが、顔は青白く、頬も痩せていた。
整った顔立ちの中で、目だけが冷めたようにこちらを見ている。
「そなたが、関白を救った女か」
「お救いしたのは、医師の方々です」
「姫の局を、病から守ったとも聞いた」
「皆さまが、水や器を清潔に保ってくださったからです」
「自らの手柄とは申さぬのだな」
「私一人の手柄ではありませんので」
二の宮は、紗良を値踏みするように見つめた。
「それで、私も治せるのか」
橘をはじめ、周囲の女房たちが息を潜めている。
紗良は姿勢を正した。
「治せるとは申しません」
室内が静まり返った。
橘が慌てて口を開く。
「紗良さま、宮さまへ何ということを」
二の宮が片手を上げ、橘を止めた。
その唇に、かすかな笑みが浮かんでいる。
「皆、私を治すために来たと申した。治せぬと言ったのは、そなたが初めてだ」
「私は医師ではありません。お身体の様子を見て、苦しくなる原因を一緒に探すことはできます。ですが、病名を決めることも、治すとお約束することもできません」
「では、何をするために来た」
「宮さまのお話を伺うためです」
二の宮の眉が、わずかに動いた。
「話を聞けば、病が癒えるのか」
「すぐには癒えないと思います」
紗良が答えると、今度こそ二の宮は小さく笑った。
「そなたは、ずいぶん役に立たぬことを正直に申す女だな」
「できないことを、できるとは申し上げられません」
「ならば、兄上へそう伝えて帰るがよい」
二の宮は再び寝具へ身体を預けようとした。
その時だった。
短い咳が漏れた。
一度。
続けて、もう一度。
二の宮は口元を袖で覆い、咳を抑えようとする。
だが、咳は次第に激しくなった。
橘と女房たちが一斉に立ち上がる。
「宮さま」
「薬湯を」
「僧をお呼びして」
いくつもの声が重なる。
女房の一人が新たな香を香炉へくべようとした。
「待ってください」
紗良は思わず声を上げた。
二の宮は片手を寝具につき、前かがみになっている。
肩が大きく上下し、息を吐くたびに、かすかな音が聞こえた。
ひゅう、ひゅうと、空気が細い隙間を通るような音だった。
「香を足さないでください。香炉を遠ざけて」
「されど、いつも香によってお心を」
「今は、かえって苦しくさせているかもしれません」
女房たちは動こうとしなかった。
紗良は橘を見る。
「お願いします」
橘が迷った末、香炉を下げるよう命じた。
「火鉢も少し離してください。御簾は、風が直接当たらない程度に開けてください」
「冷たい風が入ります」
「宮さまのお身体には当てません。部屋にこもった煙を外へ出したいのです」
橘が頷き、女房たちが動き始めた。
香炉と火鉢が遠ざけられ、御簾がわずかに上げられる。
冷たい風が直接入らないよう、几帳の向きも変えられた。
「皆さま、少しお下がりください」
「宮さまのおそばを離れるわけには」
「大勢で囲むと、宮さまも不安になります。橘さまだけ残ってください」
二の宮は苦しそうに呼吸をしながらも、片手を上げた。
「申すとおりにせよ」
女房たちは心配そうに振り返りながら、几帳の外へ下がった。
紗良は二の宮のそばへ寄る。
「お身体に触れてもよろしいですか」
返事の代わりに、二の宮がわずかに頷いた。
紗良は背に手を添えた。
「横にならず、このまま少し身体を起こしていましょう。背中に寝具を入れます」
橘と二人で、二の宮の背後へ畳んだ寝具を置く。
前かがみのまま腕を支えられるよう、膝の上にも寝具を重ねた。
「息を大きく吸おうとなさらなくて大丈夫です」
二の宮が苦しそうに紗良を見る。
「ゆっくり、吐けるだけ吐いてください。私はここにおります」
紗良は、自分の呼吸を見せるように、ゆっくりと息を吐いた。
二の宮の肩は、まだ大きく上下している。
すぐには治まらない。
紗良に、この発作を止める薬はない。
もし呼吸がさらに悪くなれば、自分にできることは限られている。
その事実が、紗良の胸を締めつけた。
それでも今は、二の宮を不安にさせるわけにはいかなかった。
「急がなくて大丈夫です」
紗良は繰り返した。
「苦しいですね。でも、少しずつ息はできています」
しばらくすると、激しかった咳の間隔が少しずつ開き始めた。
肩の動きも、先ほどより小さくなっている。
二の宮は目を閉じたまま、長く息を吐いた。
紗良は手首へ指を当てた。
脈は速い。
けれど、呼吸は少しずつ落ち着いてきていた。
「水は、今すぐ無理に飲まなくて大丈夫です。もう少し呼吸が落ち着いてからにしましょう」
橘が、目に涙を浮かべながら頷いた。
「このように苦しくなる前に、香を焚いていましたか」
二の宮が薄く目を開ける。
「いつも……焚いている」
「咳が出るのは、夜が多いですか」
「ああ」
「寒い時や、埃の多い場所でも苦しくなりますか」
「冷たい風に当たった時は、咳が出る。古い文を開いた時にも」
夜間。
冷たい空気。
埃。
強い香り。
いくつかの特徴は、紗良が知る喘息に似ていた。
しかし、聴診器も検査もない。
ほかの病が隠れている可能性もある。
「何か分かったのか」
二の宮が尋ねた。
「喘息という、空気の通り道が狭くなる病に似ているかもしれません」
紗良は慎重に答えた。
「けれど、今のお話だけでは分かりません。私は医師ではありませんから、決めつけることもできません」
「また、できぬと言うのだな」
「はい」
二の宮の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「ですが、香や煙、埃が、息苦しさを強くしている可能性はあります。しばらく香を控え、寝具やお部屋の埃にも気をつけて、発作がどう変わるか見てみませんか」
「この邸から香をなくすつもりか」
「宮さまのお部屋から、少し遠ざけるだけです」
「皆が嫌がるだろうな」
「宮さまと香の、どちらが大切なのでしょう」
橘が、慌てて頭を下げた。
「もちろん、宮さまにございます」
二の宮が低く笑う。
その笑いが再び咳に変わり、紗良は背へ手を添えた。
今度の咳は、すぐに治まった。
「三日だったな」
二の宮が尋ねる。
「はい。主上からは、まず三日と伺っております」
「三日で何が分かる」
「すべては分かりません。けれど、どのような時に苦しくなり、何を遠ざければ少し楽になるのかは、見つけられるかもしれません」
二の宮は目を閉じた。
疲れたのだろう。
それ以上、言葉はなかった。
紗良が手を離そうとした時、二の宮が再び口を開いた。
「名は、何と申した」
「紗良にございます」
「紗良」
確かめるように、二の宮がその名を繰り返す。
「はい」
「明日も、来るのか」
紗良は少し驚いた。
「こちらに三日間、滞在するよう仰せを受けておりますので」
「そうであったな」
二の宮は目を閉じたまま答えた。
「ならば明日、続きを聞こう」
何の続きを指しているのか、紗良には分からなかった。
病の話か。
香の話か。
それとも、紗良がどこでこの知識を身につけたのか。
「今は、お休みください」
紗良が言うと、二の宮はもう答えなかった。
呼吸は、先ほどより静かになっている。
紗良はそのそばに座ったまま、しばらく胸の動きを見守った。
治せるとは言えない。
それでも、苦しさを減らすためにできることはあるかもしれない。
紗良は、香の消えた室内で、二の宮の呼吸を数え続けた。




