帝の弟宮のもとへ
雅継が政務へ戻ってから、三日が過ぎた。
姫の局には、以前と変わらない日々が戻っていた。
千代は朝になると水を煮立て、小夜は香を選び、年長の女房たちは届いた文を確かめている。
流行り病が治まったあとも、紗良が伝えた習慣は残っていた。
「もう、これを飲まないと落ち着きません」
千代が、冷ました水を器へ注ぎながら言う。
「私より、きちんと続けていますね」
「紗良さまがお始めになったのでしょう?」
「始めるより、続ける方が難しいのです」
紗良は差し出された器を受け取った。
宮中では、病に伏していた者の多くが床を離れたという。
雅継も毎日、政務へ出ている。
姫のもとへ届く話によれば、以前と変わらず公卿たちを厳しく問いただしているらしい。
それを聞くたび、紗良は安堵した。
同時に、もう自分が案じる必要はないのだとも思った。
あの日以来、雅継とは会っていない。
同じ宮中にいるはずなのに、姿を見かけることさえなかった。
昼を過ぎた頃、一人の女房が姫の局を訪れた。
身につけている衣は上品で、物腰にも落ち着きがある。
年は四十を少し過ぎた頃に見えた。
姫へ丁寧に挨拶をしたあと、女房は紗良へ目を向けた。
「こちらに、紗良という方がおられると伺いました」
突然名を呼ばれ、紗良は顔を上げた。
「私でございます」
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
女房はすぐには話し始めなかった。
ためらうように目を伏せ、それから静かに口を開いた。
「長く、胸の病に苦しんでおられる方がいらっしゃいます」
「胸の病、ですか」
「幼い頃より、お身体がお弱い方にございます。とりわけ季節の変わり目には、咳と息苦しさが続きます」
紗良は手にしていた器を置いた。
「今も、苦しんでおられるのですか」
「このところ夜ごと咳が続き、ほとんどお休みになれておりません。昨夜は、息をすることもひどくお苦しそうでございました」
「熱はありますか」
「高い熱はないと伺っております」
「痰は出ていますか。お胸に痛みは」
「私には、そこまでは」
女房は申し訳なさそうに答えた。
「咳は、幼い頃から続いているのですね」
「はい。治まっている時には、お庭へ出られることもございます。されど、ひとたび悪くなられると、何日も寝具から起き上がれません」
それだけでは、何の病か分からない。
幼い頃から繰り返す咳と息苦しさ。
熱はなく、良い時と悪い時がある。
喘息のようなものかもしれない。
けれど、ほかの病である可能性もある。
実際に呼吸の様子を見なければ、何も言えなかった。
「医師には診ていただいているのですか」
「もちろんでございます。薬もお飲みになり、祈祷も幾度となく行われました。それでも、同じことの繰り返しで」
女房は膝の上で両手を重ねた。
「関白さまが病に伏された折、そなたがおそばでお世話をなさったと聞きました」
局の空気が、わずかに変わった。
姫は扇を手にしたまま、女房を見ている。
「関白さまを治されたのは、医師の方々です」
紗良が答えた。
「私は、水を飲んでいただき、お身体を休められるようにしただけです」
「姫さまの局からは、お一人も病に伏さなかったとも」
「水を煮立て、手や器を清めることを、皆さまが続けてくださったからです。私一人が何かをしたわけではありません」
女房は、それでも紗良から目を逸らさなかった。
「胸の病にも、そのお力をお貸しいただけないでしょうか」
「私は医師ではありません」
紗良は、はっきりと答えた。
「お話を聞き、呼吸やお身体の様子を見ることはできます。ですが、病を見極めることも、治すこともお約束できません」
「それでも構いません」
女房は深く頭を下げた。
「どうか一度だけでも、おそばへ」
「どなたのことなのですか」
紗良が尋ねる。
女房は顔を上げ、姫へ視線を移した。
姫にも、まだ話していなかったらしい。
「主上の弟君、二の宮さまにございます」
御簾の内側が静まり返った。
千代と小夜が、同時に頭を下げる。
紗良も遅れて姿勢を正した。
帝の弟。
その立場の重さを、紗良も理解できるようになっていた。
「二の宮さまが……」
姫が小さく呟く。
「幼い頃から、お弱いとは伺っていたけれど」
「この秋は、ことのほかお苦しそうでございます」
女房の声が揺れた。
「宮さまは、もう新しい医師も祈祷も要らぬとおっしゃいます。けれど、このまま何もせずにいることなど、私どもにはできません」
女房は、もう一度深く頭を下げた。
「本日は、お尋ねするために参りました。無理にお願いするつもりはございません」
「私だけでは、お返事できません」
紗良が答える。
「私は姫さまのおそばに置いていただいている身です。それに、医師の方に代わることもできません」
「承知しております」
女房はそれ以上頼むことなく、静かに退出した。
衣擦れの音が遠ざかったあとも、局には沈黙が残った。
「帝の弟君ですか」
千代が、ようやく声を出した。
「紗良さまは、行かされるのでしょうか」
「まだ、何も決まっていません」
紗良は答えた。
しかし、胸の奥には小さなざわめきが残った。
夜ごと、息をすることさえ苦しんでいる人がいる。
けれど自分には、薬も医療器具もない。
できることがあるのかさえ分からなかった。
女房が退出してから、それほど時が経たないうちに、主上からの使いが訪れた。
局にいた者たちが一斉に姿勢を正す。
使者が姫へ文を差し出した。
姫は御簾の内側で文を開き、ゆっくりと読み進めた。
その表情が、次第に曇っていく。
「紗良」
名を呼ばれ、紗良は顔を上げた。
「はい」
「主上からの仰せです」
姫は手にした文へ、もう一度目を落とした。
「二の宮さまのもとへ赴き、そのお身体の様子を見るように、と」
予想していなかったわけではない。
それでも、帝の命として告げられると、紗良の胸が強く鳴った。
「私が、でございますか」
「ええ」
「けれど、私は医師ではありません」
「主上も、それはご存じです。医師の治療はこれまでどおり続けるそうです。そのうえで、父上やこの局の者たちを支えたそなたに、宮さまの暮らしを見てほしいと」
暮らしを見る。
その言葉なら、紗良にも理解できた。
薬を処方することはできない。
病名を決めることもできない。
けれど、呼吸が苦しくなる時の様子や、部屋の環境、食事や睡眠について見ることはできる。
「どれほどの間、参るのでしょう」
姫が文の続きを確かめる。
「まずは三日。宮さまのご様子によっては、その後も留まるようにとあります」
三日。
思っていたより長い。
姫のそばを離れ、知らない邸で過ごすことになる。
「断ることは、できませんよね」
紗良が尋ねると、姫は静かに首を振った。
「主上からの仰せですから」
姫も不安なのだろう。
扇を持つ指に、わずかに力が入っていた。
「けれど、二の宮さまはお優しい方だと聞いています。何も案じることはないわ」
「はい」
紗良は答えた。
危険な場所へ行くわけではない。
帝の弟が暮らす邸である。
それでも、宮中へ来た時とは違う心細さがあった。
宮中には姫がいて、千代と小夜がいる。
清景も、どこかにいる。
そして、近づくことはできなくても、雅継がいる。
二の宮の邸には、知っている者が一人もいない。
紗良は懐へ手を入れた。
雅継から届いた短い文が、指先に触れた。
同じ頃、雅継は帝の前にいた。
政務についての話が終わったあと、帝が人を下がらせた。
「雅継」
「は」
「そなたの娘の局に、紗良という女がいるそうだな」
雅継は顔を上げなかった。
「はい」
「弟のもとへ行かせることにした」
帝の声は穏やかだった。
「このところ、また息の病が重いらしい。医師も手を尽くしているが、良くならぬ」
「紗良は医師ではございません」
「分かっている」
帝は静かに答えた。
「だが、そなたが病に伏した時、あの女がそばにいたのであろう。娘の局から病人が出なかったのも、紗良が水や器の扱いを変えさせたからだと聞いた」
雅継は黙っていた。
広めるなと命じた噂が、すでに帝の耳にも届いている。
「弟を治せと申すのではない。ただ、何か気づくことがあればと思ってな」
帝は、わずかに息を吐いた。
関白へ向けた言葉ではなく、弟を案じる兄の声だった。
「まずは三日、弟の邸へ置く」
置く。
その言葉が、雅継の胸に引っかかった。
紗良は姫に仕える女である。
そう言えば、帝も考え直すかもしれない。
けれど、姫もまた帝に仕える身だった。
その姫の女房を、帝が弟のために遣わす。
関白であっても、拒む理由はなかった。
「承知いたしました」
雅継は深く頭を下げた。
「弟のことを頼むと、紗良へ伝えてくれ」
「仰せのままに」
声は、いつもと変わらなかった。
翌朝、二の宮の邸から牛車が迎えに来た。
紗良は三日分の衣を用意し、姫の前へ座った。
「必ず、戻ってきてね」
姫が言った。
「はい。三日で戻ります」
千代は煮立てて冷ました水を竹筒へ入れ、小夜は紗良の衣へ姫の局と同じ香を焚きしめた。
「知らない方から渡された水は、すぐに飲んではなりませんよ」
千代が真剣な顔で言う。
「私が、いつも皆さんへ言っていることですね」
「ですから、紗良さまにも守っていただきます」
「分かりました」
紗良が笑うと、千代の目に涙が浮かんだ。
「三日だけですよね」
「はい。すぐに戻ります」
そう答えながら、紗良は懐の文へ触れた。
雅継には、会わずに行くことになった。
わざわざ別れを告げる間柄ではない。
同じ宮中にいても、自由に会える人ではなかった。
それでも、何も言わずに離れることが、少しだけ心に残った。
牛車へ乗り込む。
簾が下ろされ、姫たちの姿が見えなくなる。
やがて車輪が、ゆっくりと動き始めた。
三日後には戻る。
紗良は自分に言い聞かせた。
しかし、その三日が、雅継との間に新たな距離を生むことになるとは、まだ知らなかった。




