返事のない文
政務へ戻った雅継を待っていたのは、積み上げられた文だった。
四日ほど宮中を離れただけである。
それでも、決めなければならないことも、返事を待つ者も増えていた。
「こちらは、中宮さまがご快復された後の宮中について」
近くに控える者が、一通の文を差し出した。
雅継は受け取り、目を通す。
病に伏していた者の多くは回復し、新たに熱を出す者もほとんどいないという。
祈祷はすでに終えられ、止まっていた行事も少しずつ再開されることになっていた。
「ほかの局は」
「大事に至った方はおられぬとのことにございます」
「そうか」
短く答え、次の文を手に取る。
姫の局では、誰一人として病に伏さなかった。
水を煮立て、手や器を清める。
紗良が伝えたことを、女房たちは今も続けていると聞いている。
祈りでも、薬でもない。
あの女がどこで身につけたのか分からぬ方法が、姫を守った。
雅継は、文を持つ手を止めた。
「関白さま」
呼ばれて顔を上げる。
「お疲れでございましたら、しばしお休みに」
「要らぬ」
答えてから、そばに置かれた水へ手を伸ばした。
一口飲み、器を戻す。
冷えてはいたが、藤原邸で紗良が差し出していた水とは違うように感じた。
違うはずはない。
同じように煮立て、冷ました水である。
器が違うだけだ。
雅継は再び文へ目を落とした。
――しばし、そこにいよ。
熱が下がり始めたばかりの朝、なぜ自分はそのようなことを口にしたのだろう。
水を渡した紗良が、そのまま立ち去るとは思っていなかった。
それでも、そばにいるよう言葉にする必要などなかった。
「次を」
雅継が告げると、新たな文が差し出された。
考えるほどのことではない。
そう決め、雅継は政務へ戻った。
昼近く、雅継は数人の公卿を従え、姫の局の前を通った。
女房たちは御簾の内側へ下がり、頭を垂れている。
外から、その顔を見ることはできない。
けれど、姫のそばには紗良も控えているはずだった。
ほんのわずかに、歩みが遅くなる。
「関白さま?」
後ろから声をかけられ、雅継は何も答えずに先へ進んだ。
ここで足を止めれば、姫を案じていると思われるだろう。
それならば構わない。
だが、御簾の内側にいる一人の女を捜したのだと、自分だけは知っている。
雅継は振り返らなかった。
夕刻、姫の局を訪れた。
主上が昨夜訪れたことを聞き、雅継はひとまず安堵した。
帝から贈られた菊の話をする娘へ相づちを打ちながら、御簾の内側に控えている者たちへ目を向ける。
紗良は、姫から少し離れた場所にいた。
藤原邸にいた時とは違い、衣も髪も女房たちと同じように整えられている。
顔を伏せ、こちらを見ようとはしない。
やがて姫が、紗良の名を口にした。
「紗良は、父上のお顔を自分の目で確かめるまで、安心できないと申しておりました」
名を呼ばれた紗良が顔を上げる。
視線が重なった。
紗良は真っ先に雅継の顔を見た。
次に手元へ目を向け、再び顔を見る。
何も尋ねていないのに、どこまで力が戻ったのか確かめているのだと分かった。
「文に記したとおり、昨日までは休んだ」
雅継が言うと、紗良は静かに頭を下げた。
「はい。拝読いたしました」
「ならば、もう案ずるな」
「お元気になられて、安心いたしました」
交わした言葉は、それだけだった。
藤原邸にいた時なら、紗良はもっと言葉を重ねただろう。
食事を取ったか。
水を飲んだか。
疲れてはいないか。
尋ねられずとも、顔を見れば何かを言った。
しかし、今は黙って遠くに控えている。
ここは宮中である。
それが当然だった。
退出するために立ち上がった時、足元がわずかに揺れた。
すぐに従者が近づいてくる。
その向こうで、紗良が反射的に腰を浮かせた。
だが、隣にいた年長の女房が、その袖を押さえた。
紗良は動きを止め、元の場所へ座り直した。
雅継は差し出された支えを断り、自分で姿勢を整えた。
大丈夫だと伝えるため、紗良へわずかに頷く。
紗良は、深く頭を下げた。
藤原邸ならば、誰に止められることもなく、あの手が差し出されていた。
雅継は御簾へ背を向けた。
同じ宮中に戻れば、いつでも会えると思っていた。
だが、宮中にいるからこそ、近づけないこともあるらしい。
自らの部屋へ戻ると、届けられた文が文箱の上に置かれていた。
政に関するもの。
公卿からの伺い。
藤原邸から届いた報告。
どれも、待っていたものではなかった。
雅継は手を止めた。
何を捜しているのか、自分でも分かっていなかった。
紗良へ送った文を思い出す。
――そなたの願いに従い、今日までは休む。
返事を求めて送ったわけではない。
そもそも、和歌すら添えていない短い文だった。
返事がなくても、何ら不思議ではない。
それでも、何も届いていないことを確かめるために文箱へ目を向けたのは、今日になって二度目だった。
「関白さま」
近くに控えていた者が、遠慮がちに声をかけた。
「何だ」
「少し、気になる話がございます」
雅継は顔を上げた。
「関白さまが病に伏された折、異国より来た女が、不思議な術でお命を救ったと」
雅継の目が、わずかに細くなる。
「どこで、その話を聞いた」
「宮中にございます。姫さまの局に仕える女だとも」
誰が漏らしたのか。
医師か、藤原邸の者か。
あるいは、姫の局を訪れた者が、水を煮立てている様子を見たのか。
噂というものは、事実よりも早く、そして人の望む姿へ変わりながら広がっていく。
「私を癒やしたのは医師だ」
雅継は静かに告げた。
「そのような術を使う女は知らぬ」
「されど」
「二度と、その話を口にするな。耳にした者にも、同じように伝えよ」
声を荒らげたわけではない。
それでも、控えていた者は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
人が病を恐れる時、不思議な力を持つ者の噂は広まりやすい。
救いを求める者もいれば、災いを招いた者として疑う者もいる。
紗良がどこから来たのか、雅継も知らない。
だからこそ、その素性へ人の目を向けさせてはならなかった。
文箱の上には、政務の文だけが残っている。
返事など、求めてはいなかった。
紗良が姫の局で、変わらず過ごしているなら、それでよい。
雅継はそう思いながら、次の文を手に取った。
けれど、その噂はすでに、病に伏した者を抱える別の邸へ届いていた。




