手を伸ばせない距離
翌朝、姫の局は早くから落ち着かなかった。
関白が、今日より政務へ戻る。
その知らせが届いたためだった。
「本当に、もう戻られるのですね」
紗良が呟くと、姫は困ったように笑った。
「父上は、今日までは休むと書かれたのでしょう?」
「はい」
「ならば、お言葉どおり、今日から政へ戻られるおつもりなのでしょうね」
紗良は、昨日届いた短い文を思い出した。
――そなたの願いに従い、今日までは休む。
雅継は、紗良の言葉を聞き流したのではなかった。
考えたうえで、もう一日だけ休むことを選び、それをわざわざ知らせてくれた。
「もう少し、お休みになってもよろしいと思うのですが」
「それでも、父上が昨日までお休みになったのは、そなたが申したからでしょう?」
「まさか」
「そうでなければ、そなたへ文など送らないわ」
姫が楽しそうに笑う。
紗良は返す言葉を失い、懐に収めた文の上へ、そっと手を置いた。
熱は下がっていた。
食事も取れるようになっていた。
けれど、立ち上がるだけで息を乱していた人が、数日で元どおりになるはずはない。
病を治したことと、身体が元の力を取り戻したことは別である。
「また、難しい顔をしているわ」
姫に言われ、紗良は眉間へ力が入っていたことに気づいた。
「関白さまは、歩いて参内されるのでしょうか」
「牛車でいらっしゃると思うけれど」
「牛車を降りてからは、お歩きになりますよね」
「おそらく」
「政務の間は、横になれませんよね」
「紗良」
姫が笑いをこらえるように、扇で口元を隠した。
「ここで案じても、父上には届かないわ」
分かっている。
それでも、藤原邸にいた時なら、顔色を見ることができた。
脈を取り、水を渡し、食事をどれほど取ったか確かめられた。
立とうとすれば、すぐそばへ膝をつくこともできた。
けれど、宮中へ戻った雅継は関白である。
紗良が自分から様子を見に行ける人ではなかった。
昼近くになり、廊の向こうがにわかに慌ただしくなった。
人の動く気配と、低く交わされる声が近づいてくる。
「関白さまがお通りになるそうです」
外を確かめた小夜が戻ってきた。
女房たちは姿勢を正し、御簾の内側へ下がった。
紗良も千代の隣に座り、頭を垂れた。
やがて、複数の足音が聞こえてきた。
藤原邸で聞いていた、静かな衣擦れとは違う。
先に道を整える者がいて、その後ろに公卿たちが続いている。
御簾越しに見えるのは、重なる衣と人影ばかりだった。
どこにいるのだろう。
顔を上げることはできない。
紗良は伏せたまま、通り過ぎていく足音へ耳を澄ませた。
一つ、二つ、三つ。
その中のどれが雅継のものなのか、分からなかった。
これほど近くを通っているのに、姿さえ確かめられない。
足音は、そのまま遠ざかっていった。
「もう、よろしいようです」
年長の女房が告げ、皆が顔を上げる。
紗良は御簾の外へ目を向けた。
そこにはもう、誰もいなかった。
「見えなかったでしょう?」
姫が尋ねた。
「はい」
「私も、よく見えなかったわ」
姫はそう言って、少しだけ御簾を揺らした。
「けれど、父上が宮中へ戻られたのなら、もう案じることはないのでしょうね」
紗良はすぐに返事ができなかった。
姿を見ていない以上、大丈夫だとは言えない。
「そうであれば、よいのですが」
姫が紗良を見る。
「顔を見なければ、安心できないのね」
「看病していた者として、です」
言い終えてから、少し急いで付け加えたように聞こえた。
姫は何も言わず、扇の向こうで小さく笑った。
その日の夕刻、雅継が姫の局を訪れた。
前触れが届くと、女房たちは急いで御簾や几帳を整えた。
紗良も退出しようとしたが、姫に呼び止められた。
「そなたも、ここにいて」
「よろしいのですか」
「父上が病に伏しておられた間のことを、尋ねられるかもしれないでしょう」
紗良は姫から離れた場所へ控えた。
ほどなくして、雅継が御簾の外へ座った。
その姿は、藤原邸にいた時とはまるで違って見えた。
髪も衣も乱れなく整えられ、背筋を伸ばしている。
声にも、病み上がりとは思えない力があった。
雅継は姫の体調を尋ね、帝が昨夜訪れたことに触れた。
姫が主上からの文について話すと、雅継は静かに耳を傾けている。
父と娘の会話ではある。
けれど、そこには宮中での立場を背負う二人の慎重さがあった。
紗良は少し離れた場所から、雅継の顔を見つめた。
顔色は悪くない。
声にも張りがある。
だが、頬は以前より痩せていた。
長く座っているせいか、時折、わずかに呼吸を整えているようにも見える。
紗良は無意識に、雅継の手へ目を向けた。
姫への文を書いた時の震えは、もう治まったのだろうか。
「父上」
姫が、少し声をやわらげた。
「本当に、もうお身体はよろしいのですか」
「案ずるほどのことではない」
予想していたとおりの返事だった。
「紗良は、父上のお顔を自分の目で確かめるまで、安心できないと申しておりました」
「姫さま」
突然名を出され、紗良は顔を上げた。
雅継の視線が、まっすぐにこちらへ向けられる。
藤原邸を出て以来、初めて目が合った。
「文に記したとおり、昨日までは休んだ」
雅継が言った。
「はい。拝読いたしました」
「ならば、もう案ずるな」
そう言われても、頬は以前より痩せている。
けれど、声には力があり、顔色も悪くなかった。
紗良はようやく、小さく息を吐いた。
「お元気になられて、安心いたしました」
「ああ」
交わした言葉は、それだけだった。
藤原邸にいた時なら、脈を取り、食事の量を尋ねていただろう。
けれど、ここは宮中だった。
目の前にいるのは、紗良が看病していた一人の病人ではない。
大勢の者が頭を垂れる、関白だった。
姫が帝から贈られた菊の話を始める。
雅継の視線も、再び姫へ戻った。
紗良は黙って頭を下げた。
もう、自分から声をかける理由はなかった。
雅継の顔を見ることができた。
声も聞けた。
無事であることも確かめられた。
それで十分なはずだった。
それなのに、胸の奥には、何かが置き去りにされたような感覚が残っていた。
雅継が退出することになり、女房たちは再び頭を垂れた。
雅継は立ち上がった。
その身体が、わずかに揺れた。
紗良は反射的に腰を浮かせた。
だが、すぐ隣にいた年長の女房が、紗良の袖へそっと手を置いた。
止められて初めて、自分が雅継のもとへ行こうとしていたことに気づく。
ここは藤原邸ではない。
雅継のそばには、すぐに従者が寄った。
紗良の手など、必要なかった。
雅継は差し出された支えを断り、自分で姿勢を立て直した。
そして、御簾の内側へ一度だけ目を向けた。
紗良と視線が重なる。
大丈夫だ。
そう告げるように、雅継がごくわずかに頷いた。
紗良は浮かせていた腰を下ろし、深く頭を下げた。
衣擦れの音が遠ざかっていく。
顔を上げた時には、もう雅継の姿はなかった。
「行ってしまわれましたね」
隣で千代が囁いた。
「はい」
藤原邸では、手を差し出せば届くところにいた。
水の器を渡し、乱れた寝具を整え、その呼吸をすぐそばで確かめていた。
――しばし、そこにいよ。
そう言われた場所は、もう遠い。
宮中へ戻れば、雅継は大勢の者に囲まれる関白で、紗良は御簾の内側から頭を下げる者の一人だった。
同じ宮中にいる。
声が届くほど近くにいる。
それでも、手を伸ばすことはできない。
紗良は、自分の膝の上に置いた手を見つめた。
その手にはまだ、熱に弱った雅継の重みが残っているような気がした。




