恋文は、一人では書けません
宮中へ戻って三日が過ぎた。
中宮の熱は下がり、ほかの局で伏せっていた者たちも、少しずつ起き上がれるようになったという。
夜ごと響いていた祈りの声も、いつしか聞こえなくなっていた。
姫の局では、誰一人として寝込まずに済んだ。
千代は今日も、煮立てて冷ました水を器へ注いでいる。
「もう、ほかの局でも病は治まったのでしょう?」
そう言いながらも、やめるつもりはないらしい。
「せっかく慣れましたゆえ」
習慣というものは、始めるまでは大変だが、一度身につくと手放す方が落ち着かないのかもしれない。
紗良は差し出された水を一口飲んだ。
「冷たいお水が懐かしいです」
「冷めておりますが」
「もっと冷たいものです。氷を入れて」
「秋に氷を?」
千代が信じられないものを見る目を向ける。
「お腹を壊しそうにございます」
「私も、今はそう思います」
冷蔵庫から出したばかりの水を、何も考えずに飲んでいた自分が遠い。
その時、局の外から声がかかった。
「主上より、お文にございます」
女房たちの空気が変わった。
千代は器を置き、小夜は姫の衣を整える。年長の女房が文を受け取り、紙の色と香を確かめてから御簾の内側へ運んだ。
姫は両手で文を受け取った。
淡い紫の紙には、菊の花がひと枝添えられている。
何が書かれているのだろう。
紗良は少し離れた場所に座り、姫が文を読むのを待った。
現代なら、他人のメッセージを横からのぞくなど、かなり失礼な行為である。
この時代でも、おそらく失礼には違いない。
ところが、姫は読み終えると、年長の女房へ文を差し出した。
女房は文を読み、小夜へ渡す。
小夜も読み、千代までが、その後ろから紙をのぞき込んだ。
恋文の扱いが、思っていたより共有制である。
「今宵、お越しになるということでございましょうか」
小夜が声を弾ませる。
「けれど、月を待つと詠んでおられます」
年長の女房が慎重に答えた。
「月が昇ってから、という意味ではございませんか」
「月を姫さまにたとえておられるのでは?」
「それならば、すでにお会いになっているではありませんか」
解釈が分かれ始めた。
紗良には、菊と露と月が詠まれていることしか分からない。
結局、来るのか。
来ないのか。
そこが一番知りたいのに、誰もはっきりとは言わない。
現代のメッセージなら、
――今夜、行きます。
その一文で済む。
けれど、この時代では、花も月も露も総動員して、ようやく一つの約束を交わすらしい。
「紗良は、どう思う?」
姫に尋ねられ、紗良は姿勢を正した。
「たいへん美しいお文だと思います」
「読めなかったのね」
「少しは読めました」
「では、主上は今宵お越しになるの?」
一番難しいところを聞かれてしまった。
「……お越しになる可能性を、月へ託されたのではないでしょうか」
姫が小さく笑う。
「分からない時の紗良は、やはり言葉が美しくなるのね」
以前にも同じことを言われた気がする。
「それで、ご返事はいかがいたしましょう」
年長の女房が尋ねた。
今度は、返す歌を考えなければならない。
姫はしばらく菊の花を見つめていた。
「月が出るまで、菊の露が消えずに残っているでしょうか」
「そのお気持ちを、お詠みになってはいかがでしょう」
年長の女房が答える。
そこから、さらに長い相談が始まった。
どの言葉を使うか。
同じ音が重なっていないか。
待っていると素直に伝えるのか、少し遠回しにするのか。
紙は何色にするか。
どの香を焚きしめるか。
紗良は、恋文とは一人で書くものだと思っていた。
少なくとも、現代ではそうだったはずだ。
けれど宮中では、本人が心を決め、女房たちが言葉を整え、紙を選び、香を添える。
恋文一通に、チームが組まれている。
「紗良、墨をお願い」
姫に呼ばれ、紗良は硯の前へ座った。
「歌の方は、お役に立てそうにありませんので、墨は心を込めてすります」
「そのように申さずともよいのに」
姫は笑いながら、女房たちが整えた歌をもう一度読み返した。
やがて姫自身の手で、淡い色の紙へ歌が記された。
文字は細く、流れるようだった。
最後の一画を書き終えた姫が、筆を置く。
「これで、よいかしら」
不安そうに尋ねる姿は、宮中に仕える姫というより、返事を待つ一人の若い女性に見えた。
「よくお似合いのお歌にございます」
年長の女房が答えた。
姫は安堵したように目を伏せた。
香を焚きしめた文は、菊のひと枝とともに使者へ託された。
あとは待つしかない。
文が届いたかどうかも。
歌がどう受け取られたかも。
今宵、本当に帝が訪れるのかも。
「返事を送ったあとが、一番落ち着かないのね」
姫が小さく呟いた。
「はい」
紗良にも、その気持ちは分かる。
送信したあと、何度も画面を確かめる。
既読になったか。
返事が来たか。
余計なことを書かなかったか。
時代が変わっても、待っている人の心は、それほど変わらないのかもしれない。
ただ、この時代には確認する画面すらなかった。
午後になり、藤原邸から使者が訪れた。
雅継から姫へ届けられた文には、政務へ戻る日と、邸の様子が簡潔に記されていた。
姫はそれを読んで、少し困ったように眉を寄せた。
「父上は、もう政へ戻られるそうよ」
「やはり」
紗良の口から、思わず言葉が漏れた。
「驚かないのね」
「考えておく、とおっしゃっていましたから」
休むと言わなかった時点で、こうなる予感はしていた。
「もう一通ございます」
使者が、細く折られた白い紙を差し出した。
「紗良という方へ、と」
局にいた女房たちの視線が、一斉に紗良へ集まった。
「私に、ですか?」
念のため尋ねたが、この局に紗良は一人しかいない。
使者は深く頭を下げた。
姫が文を受け取り、表に記された名を確かめてから、紗良へ差し出した。
「紗良へ、ですって」
声が少し楽しそうに聞こえる。
「中をお読みになりますか」
「読みません」
姫はそう答えたが、千代は明らかに残念そうな顔をしていた。
紗良は女房たちの視線を感じながら、文を開いた。
和歌はなかった。
季節の花も、遠回しな言葉もない。
雅継の筆で、短く記されている。
――そなたの願いに従い、今日までは休む。
紗良は、もう一度読んだ。
今日まで。
明日からは休まないらしい。
「何と書かれていたの?」
姫が尋ねる。
「本日までは、お休みになるそうです」
「それだけ?」
「はい」
周囲の女房たちから、わずかな落胆が伝わってきた。
期待に沿えるような恋の歌は、一文字も書かれていない。
けれど紗良には、雅継があの言葉を覚えていたことが意外だった。
――どうか、今しばらくお身体をお休めください。
聞き流されたと思っていた。
紙からは、姫への文と同じ香がした。
雅継が好んで使う、低く静かな香り。
「お返事は、どうなさいますか」
小夜が尋ねた。
紗良は雅継の文を見つめた。
休んでください。
無理をしないでください。
書こうと思えば、いくらでも書ける。
けれど、それはもう伝えた。
「お返事はいたしません」
「よろしいのですか」
「はい」
雅継は、自分で今日まで休むと決めた。
その先まで、紗良が決めることではない。
紗良は文を丁寧に畳み、懐へ収めた。
姫は何も言わなかったが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
夜になった。
帝が訪れるかもしれないため、局では香が焚かれ、御簾や几帳が整えられている。
紗良も姫のそばに控えていた。
廊を渡る足音が聞こえるたび、女房たちが耳を澄ませる。
けれど、その足音は局の前を通り過ぎていった。
しばらくすると、また別の足音が近づいてくる。
姫は扇を手にしたまま、何も言わない。
誰も、今度こそとは口にしなかった。
やがて足音が、御簾の向こうで止まった。
女房たちが一斉に頭を下げる。
帝の到着を告げる声がした。
姫の手にある扇が、ほんの少しだけ揺れた。
紗良は黙って頭を下げた。
菊と月に託された約束は、きちんと届いていたらしい。
その夜、紗良は離れた場所へ下がり、一人で月を見上げた。
懐には、昼に届いた短い文が入っている。
出さずに帰した返事。
言葉にしなかった心配。
月の下で出会った男は、今頃もう眠っているだろうか。
それとも、明日から戻る政務の文を、すでに開いているのだろうか。
紗良は懐の上へ、そっと手を置いた。
返事をしないことも、待つことの一つなのかもしれない。
雲の切れ間から現れた月が、宮中の屋根を白く照らしていた。




