↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
22/33

関白は、まだ目覚めていない


呪詛の文が見つかった翌朝、雅継の熱はわずかに下がっていた。


昨夜から、雅継が目を覚ますたびに上半身を起こし、煮立てて冷ました水を飲ませている。


初めは匙を使っていたが、今では紗良が器を支えれば、自分で少しずつ飲めるようになった。


吐くことも、むせることもない。


乾いていた唇にも、わずかに色が戻っている。


水を飲んだあとには、重湯も数匙、口にすることができた。


額にはまだ熱が残っているものの、呼吸は昨夜より穏やかだった。


「昨夜より、落ち着いておられます」


雅継の脈を確かめた医師が告げると、室内に控えていた者たちの間から、安堵の息が漏れた。


「されど、まだ熱はございます。しばらくは静かにお休みいただくように」


紗良も黙って頷いた。


回復へ向かい始めてはいる。


けれど、いつものように政務へ戻れる状態ではない。


医師が退出すると、代わるように賀茂清景が入ってきた。


昨夜の呪詛に使われた紙の灰を調べていたらしい。


御簾の外へ座った清景は、雅継が目を開けていることを確かめると、声を落とした。


「文を運び込んだ者が分かりました」


雅継は枕に頭を預けたまま、清景へ目を向けた。


「誰だ」


「政所へ出入りしている、若い官人にございます。昨夜、ほかの文に紛れ込ませたようです」


「捕らえたのか」


「まだです」


そばにいた側近が、わずかに眉をひそめた。


「なぜ、すぐに捕らえぬ」


「その者が呪詛を行ったとは限らぬ。何も知らず、頼まれた文を運んだだけかもしれない」


清景は淡々と答えた。


「今捕らえれば、その者へ文を渡した者が逃げる」


側近は口を閉ざした。


雅継もしばらく何も言わなかった。


高い熱に体力を奪われているはずなのに、その目にはすでに、関白としての冷静さが戻り始めている。


やがて雅継は、静かに尋ねた。


「私が目を覚ましたことを、知る者は」


「この場にいる者と、医師だけにございます」


側近が答える。


「では、伏せておけ」


「どのようにお伝えいたしましょう」


「私はまだ目を覚ましておらぬ。今朝になっても意識は戻らず、今宵を越えられるか分からぬ――そう伝えよ」


「承知いたしました」


側近が深く頭を下げる。


雅継は続けて、邸の出入りを確かめる者と、若い官人のあとを追わせる者を決めていった。


紗良は、何も言わずにその横顔を見ていた。


話すたびに、声が少しずつ掠れていく。


息を継ぐ間も長くなっていた。


休んでほしいという言葉が喉まで出かかったが、紗良は飲み込んだ。


この都の政を預かってきた雅継には、雅継にしか見えていないものがある。


紗良には、その判断を止めることが正しいとは思えなかった。


だから、待った。


雅継自身が言葉を止めるまで、その呼吸と顔色を見ながら、黙ってそばにいた。


やがて、雅継の声が途切れた。


何かを続けようとして口を開いたが、言葉は出てこない。


雅継は目を閉じ、しばらく呼吸を整えた。


室内に、短い沈黙が落ちる。


「……清景」


「はい」


「あとは任せる」


「御意」


清景が頭を下げた。


雅継は、自分で終わりを決めた。


紗良はそれを見届けても、すぐには声をかけなかった。


人々が下がり、室内が静かになってから、雅継が再び目を開ける。


「水を」


「はい」


紗良は用意してあった器を手に取った。


女房とともに雅継の上半身をゆっくりと支え、背に畳んだ寝具を入れる。


姿勢が安定したことを確かめてから、器を口元へ運んだ。


雅継は自分の速さで、少しずつ水を飲んだ。


途中で何度か息を整えながらも、昨夜より多く口にすることができた。


「もうよい」


雅継が器から口を離す。


「はい」


紗良はそれ以上勧めず、器を下ろした。


再び横になった雅継の呼吸が落ち着くまで、黙ってそばにいる。


水を飲ませることも、休ませることも大切だ。


けれど、相手を自分の思うとおりに動かすことが、その人を支えることではない。


以前の紗良なら、もっと早く口を挟んでいたかもしれない。


今は、雅継が自分で限界に気づき、清景へ託すまで待つことができた。



御簾の向こうに控えていた清景が、紗良へ一度だけ目を向けた。


けれど何も言わず、立ち上がった。


「動きがあれば、すぐにお知らせいたします」


「ああ」


雅継は目を閉じたまま答えた。



雅継が目を覚ましたことは、邸の中でも伏せられた。


医師が退出して間もなく、


――関白さまは、いまだ御意識が戻らぬ。


という知らせが、政所に集まる者たちへ伝えられた。


病状を尋ねる使者が次々と訪れ、そのたびに同じ答えが返された。


昼を過ぎた頃、昨夜の文を運んだ若い官人も、その知らせを耳にした。


男は青ざめた顔で周囲を窺い、やがて用を思い出したように政所を離れた。


清景の命を受けた者が、そのあとを追う。


若い官人は邸を出ると、都の西へ向かった。


人目を避けるように細い路地へ入り、古びた築地塀のそばで一人の男へ小さな文を渡す。


受け取ったのは、ある大納言の家に仕える家司だった。


二人が別れた直後、待ち構えていた者たちがその身を押さえた。


若い官人は、ほどなく事情を認めた。


渡された文を藤原邸へ運べば、褒美を与えると言われたこと。


中身については、何も知らされていなかったこと。


ただ、ほかの政務の文へ紛れ込ませるよう命じられたこと。


捕らえられた家司のもとからは、呪詛の人形に用いられていたものと同じ紙と、黒い糸が見つかった。


清景が問いただすと、家司はついに口を開いた。


雅継が死ねば、主家の力が増す。


その働きを大納言に認められれば、自分も取り立てられる。


そう考え、雅継が病に伏した機会を狙ったのだという。


けれど、大納言本人が呪詛を命じた証はなかった。


家司は、主のためにしたことだと訴えた。


それが真実なのか。


主を庇うための言葉なのか。


あるいは、勝手な忠義心から出た行いなのか。


清景にも判断はできなかった。



夕刻、清景は藤原邸へ戻った。


雅継は重湯を口にしたあと、短い眠りから覚めたところだった。


熱はまだ残っている。


それでも、朝より目の力が戻っていた。


清景から報告を受けても、雅継の表情はほとんど変わらなかった。


「大納言本人が命じた証は、見つかっておりません」


「ならば、名を出すな」


雅継は短く答えた。


「されど、家司が主のためにしたと申しているのは確かにございます」


側近が言う。


「証もなく大納言を罪に問えば、こちらが政敵を陥れたと見られる」


雅継の声は、まだ掠れている。


それでも、言葉に迷いはなかった。


「呪詛を行った家司と、文を運んだ官人は検非違使へ引き渡せ。誰の命であろうと、行ったことへの責は本人に負わせる」


「御意」


側近が頭を下げた。


それ以上の追及を、雅継は命じなかった。


自分を殺そうとした者がいる。


しかも、その背後には、さらに大きな意思が隠れているかもしれない。


それでも、疑いだけでは人を罰しない。


紗良には、その判断のすべてを理解することはできなかった。


ただ、雅継が恐れや怒りに任せて人を裁く男ではないことは分かった。


誰もが顔色を窺う最高権力者。


その力を持つからこそ、自ら使い方を誤らぬようにしているのかもしれない。


紗良の胸には、心配とともに、静かな敬意が生まれていた。


清景は、焼け残った呪詛の灰を納めた包みを取り出した。


「こちらは陰陽寮で清め、処分いたします」


「あれと同じものが、ほかにないか」


「すでに邸の中を確かめさせております。今のところ、見つかってはおりませぬ」


「そうか」


雅継は目を閉じた。


話すだけでも、身体に堪えるのだろう。


それでも紗良は、すぐに休むようには言わなかった。


ただ、枕元の水へ手を伸ばせるよう、器を近くへ寄せた。


やがて雅継が、自ら告げた。


「今日は、もうよい」


側近と清景が頭を下げ、静かに退出していく。


人の気配が遠ざかってから、雅継は再び口を開いた。


「宮中から、文が届いていたはずだ」


紗良は文箱へ目を向けた。


「姫さまからお預かりしています」


「見せよ」


紗良は文箱から、姫の文を取り出した。


淡い色の紙には、姫が選んだ香がほのかに残っている。


雅継は、起こした上半身を寝具へ預けて文を受け取った。


指先にはまだ力が戻りきっていない。


それでも、自分の手で文を開いた。


紗良は少し離れ、黙って待った。


何が書かれているのかは知らない。


姫の文なのだから、紗良が勝手に読むものではなかった。


雅継の目が、ゆっくりと文字を追っていく。


読み終えたあとも、しばらく文を閉じなかった。


「姫さまは、お元気です」


紗良は静かに告げた。


「とても心配されていました」


「……そうか」


返ってきたのは、それだけだった。


けれど、娘の文を見る雅継の目は、関白として政務の文を読む時とは違っていた。


雅継は文を畳み、枕元へ静かに置いた。


「宮中へ戻る時に、返事を持たせる」


そう言って文箱へ目を向けたものの、その手は動かなかった。


紗良は何も言わず、待った。


雅継はしばらく考えたあと、目を閉じる。


「……明日にする」


「はい」


それでよかった。


紗良が決めたのではない。


雅継自身が、今は身体を休める時だと判断したのだ。


紗良は寝具を整え、呼吸が楽になるよう姿勢を確かめた。


ほどなく、静かな寝息が聞こえ始める。


昨夜のような、熱に追い立てられる呼吸ではなかった。


邸の外では、関白はいまだ目覚めていないことになっている。


その知らせを信じて動いた者は捕らえられた。


けれど雅継は、目を覚ました途端にまた、誰かの企みと向き合わなければならなかった。


病に倒れることさえ、政の一部にされてしまう世界。


紗良は音を立てないよう、器へ新しい水を用意した。


次に目を覚ました時、雅継が自ら望んだなら、すぐに差し出せるように。


何かをすることだけが、人を支えることではない。


相手の力を信じて待つことも、きっと、その一つなのだ。


枕元には、姫の文が置かれている。


雅継は束の間、関白であることを手放したように、静かに眠っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。