病床の関白を狙う者
雅継の熱は、夜が明けても下がらなかった。
時折、苦しそうに眉を寄せるものの、目を覚ますことはない。
紗良は懐から、姫に預けられた文を取り出した。
淡い色の紙には、姫が選んだ香が焚きしめられている。
今の雅継に見せるべきだろうか。
少し考えたあと、紗良は文を開かず、ほかの文とは分けて文箱へ納めた。
この人は娘からの文を読めば、どれほど苦しくても返事をしようとするだろう。
今はまだ、その時ではない。
「姫さまの文にございますか」
そばに控えていた小夜が尋ねた。
「はい。もう少しお元気になってからお渡しします」
「すぐにお見せせずとも、よろしいのでしょうか」
「今は、読むことより休むことの方が大切です」
小夜は文箱へ目を向け、それから静かに頷いた。
雅継の額へ手を当てる。
まだ熱い。
けれど、昨夜のような寒気による震えは見られなかった。
紗良は冷たい水で絞った布を、雅継の額へそっと乗せた。
しばらくすると、布はすぐに温くなる。
新しい布へ替え、また温くなれば取り替える。
それを何度も繰り返した。
この時代には体温計もない。
数字で確かめることはできない。
額や首元へ触れ、呼吸を見て、顔色の変化を追う。
今の紗良にできるのは、その程度だった。
やがて雅継の額に、細かな汗が浮かび始めた。
背に触れた衣もしっとりと湿っている。
「汗で濡れています。乾いたお召し物に替えていただけますか。敷物も、できれば新しいものを」
紗良が頼むと、年長の女房が頷いた。
「承知いたしました」
女房たちは手早く几帳を動かし、雅継の身体を支えながら、汗に濡れた衣を乾いたものへ替えた。
敷物も新しく整えられる。
紗良はその間に、額へ乗せていた布を冷たいものへ取り替えた。
冷たい布も、乾いた衣も、雅継の病そのものを治すわけではない。
それでも、少しでも身体を休ませることはできる。
今の紗良にできるのは、そうした小さなことを重ねることだけだった。
昼を過ぎた頃、雅継がかすかに目を開けた。
「雅継さま。分かりますか」
呼びかけると、その目がゆっくりと紗良へ向いた。
昨夜よりは、わずかに焦点が合っている。
「お水を飲めそうですか」
雅継が、ほんの少し頷いた。
紗良は女房と近習へ声をかけた。
「お身体を、ゆっくり起こしてください」
二人に支えてもらいながら、雅継の上半身を起こす。
背には畳んだ敷物を重ね、身体が傾かないように整えた。
紗良は雅継が自分で目を開けていられることを確かめ、煮立てて冷ました水を受け取った。
まず、濡らした布で乾いた唇を湿らせる。
「少しだけ飲んでみましょう」
小さな匙に水をすくい、口元へ運んだ。
一口目を含ませる。
すぐに次を入れず、きちんと飲み込むのを待つ。
雅継の喉が、ゆっくりと動いた。
むせてはいない。
呼吸にも変化はなかった。
「もう一口、飲めますか」
雅継がわずかに頷く。
二口目。
しばらく待って、三口目。
それ以上は無理をさせなかった。
「今は、これくらいにしましょう」
器を置き、再びゆっくりと身体を横たえてもらう。
雅継は目を閉じた。
眠ってしまったのかと思ったが、掠れた声がした。
「……少なすぎる」
「一度にたくさん飲んで、むせたり吐いたりするよりよいです」
「そなたは……加減というものを知らぬと思っていた」
「失礼ですね」
言い返したものの、紗良は少しだけほっとした。
それだけ憎まれ口を言える力は戻ったらしい。
雅継はもう返事をせず、静かに眠りへ落ちていった。
水を飲めたからといって、熱が下がったわけではない。
それでも、小さな一歩だった。
その後も吐く様子がなかったため、医師とも相談し、夕刻に重湯を試すことになった。
再び身体を起こし、まずは一匙だけ口へ運ぶ。
雅継は嫌そうに眉を寄せた。
「お口に合いませんか」
「味がせぬ」
「重湯ですから」
「そなたが作ったのか」
「違います」
「ならば、責める相手を間違えたな」
まだ熱に浮かされているはずなのに、そういうところだけは普段の雅継に戻っている。
「文句を言えるなら、もう一口いけそうですね」
「なぜ、そうなる」
返事をせず、紗良は二匙目を差し出した。
雅継は諦めたように目を閉じ、それを口にした。
無理はさせず、そこで終える。
少量ではあるが、水も重湯も飲み込むことができた。
夕刻になると、三条の御方が藤原邸を訪れた。
幼い若君は、病が広がる邸へ近づけぬよう、自らの邸へ残してきたという。
三条の御方は病床へ押しかけることはせず、御簾の外へ静かに座った。
「殿は……」
それだけを口にして、次の言葉を待っている。
「熱はまだ高いままですが、お水と重湯を少し召し上がりました」
紗良が答えると、三条の御方は目を伏せた。
「そうですか」
安堵したように、かすかな息を吐く。
「まだ、政の文はお見せしておりません」
三条の御方が顔を上げた。
「姫さまからお預かりした文も、もう少しお元気になってからお渡しするつもりです」
しばらく沈黙があった。
「殿は、少しでもお目覚めになれば、文をお求めになるでしょう」
「はい。ですから今は、見せないことにしました」
三条の御方の口元に、ごく淡い笑みが浮かんだ。
「それが、よろしゅうございます」
雅継が自分から休むことのできない人だと、三条の御方も知っているのだ。
「若君も、父君を案じておられます」
「雅継さまがお目覚めになりましたら、お伝えします」
三条の御方は深く頭を下げた。
「どうか、よろしくお願いいたします」
それ以上は何も言わず、静かに立ち去った。
来ないのではない。
何も思っていないのでもない。
三条の御方は、自分に許された場所から雅継を案じていた。
夜になると、賀茂清景が藤原邸へ到着した。
雅継の病に、物の怪が関わっていないか確かめるため、邸の者が呼んでいたらしい。
清景は御簾の内側へ入ると、雅継の姿をしばらく見つめた。
それから、寝殿の四方へ目を向ける。
「いかがですか」
紗良が尋ねた。
「今のところ、取り憑いているものはない」
「では、病だけなのですね」
「今は、な」
その言い方が気になった。
「何かあるのですか」
「この邸には、人の思いが集まりすぎている」
清景は淡々と答えた。
「関白殿の回復を願う者。死を恐れる者。そして――」
言葉を切り、御簾の外へ視線を向ける。
「目覚められては困る者」
その時、若い役人が政務の文を抱えて現れた。
「お目覚めになりました折に、ご覧いただきたく」
側近が文を受け取り、文机へ置こうとする。
「待て」
清景の声が飛んだ。
側近の手が止まる。
「その中に、差出人のないものがある」
「差出人のないもの?」
文の束を確かめると、一番下から白い紙が現れた。
見た目には何の変哲もない。
だが、それが寝殿へ入った途端、灯火が揺れた。
風はない。
御簾も動いていない。
それなのに、部屋の灯が一斉に同じ方向へ傾く。
枕元に置かれた器の水に、小さな波紋が広がった。
冷たい気配が、畳の上を這う。
紗良の指先が強張った。
病による寒気ではない。
白い文から伸びた何かが、雅継を探している。
紗良には、それが細い黒い糸のように見えた。
黒い糸は畳の上を進み、雅継の胸元へ絡みつく。
雅継の呼吸が急に速くなった。
閉じられた瞼の下で、眼が激しく動いている。
「雅継さま」
紗良が手首へ触れると、脈は先ほどよりさらに乱れていた。
「清景さま、黒い糸が――」
「見えているなら、そこから動くな」
清景は側近から白い文を受け取った。
その紙を開く。
中から現れたのは、人の形に切られた小さな紙だった。
黒い糸が幾重にも巻きつけられ、胸元には雅継の名が記されている。
「呪詛……」
側近の顔から血の気が引いた。
清景は懐から、短い刃を取り出した。
人を斬るための刀ではない。
柄には見慣れない文様が刻まれている。
黒い糸が、雅継の胸元へさらに強く絡みつく。
雅継が苦しそうに息を詰めた。
清景は人形を畳へ置き、刃を構える。
「退け」
刃が振り下ろされた。
黒い糸が断ち切られる。
糸は雅継の胸元から離れ、煙のように消えた。
人形の端が黒く焦げ、音もなく崩れていく。
同時に、傾いていた灯火が元へ戻った。
器の水も静まる。
雅継の呼吸が、少しずつ落ち着いていった。
紗良は手首へ触れたまま、脈を確かめた。
まだ速い。
熱も残っている。
清景は刃を収め、焼け残った紙を見下ろした。
「病は消えておらぬ」
「分かっています」
「今、断ったのは、病で弱った身体へ重ねられたものだけだ」
紗良は黒くなった紙の端を見つめた。
「こんな時にまで、呪いをかけるのですか」
清景が冷ややかに答える。
「こんな時だからだ」
「誰が、こんなことを」
「分からぬ」
清景は焼け残った紙を、別の白い紙で包んだ。
「だが、関白殿が朝まで生きていては困る者だ」




