平安の都で、最高権力者が倒れました
知らせが届いたのは、夜が明けて間もなくのことだった。
藤原邸から来た使者は姫の局へ通されると、御簾の前で深く頭を下げた。
その姿を見ただけで、良い知らせではないことが分かった。
「関白さまが、昨夜お倒れになりました」
局の空気が止まった。
姫の手から、持っていた扇が滑り落ちる。
畳に当たった音が、ひどく大きく聞こえた。
「父上が……?」
「政務の途中でお身体を崩され、昨夜遅くに邸へお戻りになりました。熱が高く、今朝になってもお目覚めになりませぬ」
姫は扇を拾おうとした。
けれど、指がうまく動かない。
近くに控えていた千代が、代わりに拾い上げた。
「医師は」
「すでにおそばに。僧侶の方々にもお越しいただいております」
それを聞いても、姫の表情は戻らなかった。
医師もいる。
僧侶もいる。
藤原邸には大勢の者が集まっている。
それでも、安心できないのだろう。
「お加減は、どのように」
「激しい熱と、腹の病にございます。水も、ほとんどお飲みになれぬと」
使者の言葉に、紗良は顔を上げた。
高い熱が続き、水も飲めない。
詳しい状態は実際に見なければ分からない。それでも、よくない知らせであることだけは分かった。
姫はしばらく何も言わなかった。
「わたくしが、参ることは」
年長の女房が静かに首を振る。
「今は、お控えになった方がよろしいかと存じます」
中宮も病に伏している。
入内したばかりの女御が宮中を離れ、病の広がる邸へ戻れば、何を言われるか分からない。
しかも昨夜から、姫の入内と中宮の病を結びつける囁きまで出始めている。
姫にも、その意味は分かっているはずだった。
「……そうね」
返事はかすかだった。
行きたいのに、行けない。
父が重い病に伏していても、娘だからという理由だけでは動けない。
姫はうつむいたまま、衣の上で指を重ねた。
「皆、少し下がってください」
女房たちは一斉に頭を下げ、局の端へ退いた。
紗良も下がろうとしたが、
「紗良は残って」
と呼び止められた。
御簾の近くに残った紗良を、姫が見上げる。
宮中では女御として振る舞っていても、今は父を案じる一人の娘に見えた。
「紗良」
「はい」
「父上のもとへ行ってくれぬか」
紗良はすぐには答えられなかった。
雅継を助けたい。
けれど、この時代には点滴も、検査も、十分な薬もない。紗良が行ったところで、病を治せるとは限らない。
期待させることはできなかった。
「私が伺っても、雅継さまを治せるとはお約束できません」
姫は静かに頷いた。
「分かっています」
その声は、わずかに震えていた。
「治してほしいと申しているのではないの」
姫は一度言葉を切った。
「父上のおそばには、大勢の者がいるでしょう。けれど皆、父上を関白として見ています」
姫の指が、衣を小さくつまむ。
「そなたなら、病に伏した一人の人として、父上を見てくれるでしょう」
紗良は何も言えなかった。
雅継が最高権力者であろうと、病は遠慮をしない。
苦しい時には苦しい。
怖い時には怖い。
それは誰でも同じだ。
「父上を、一人にしないでください」
紗良は深く頭を下げた。
「承知しました」
宮中を出る支度は、すぐに整えられた。
紗良は姫から預かった文を懐へ収め、小夜とともに牛車へ乗り込んだ。
牛車が動き出しても、姫は御簾の内側に立っていた。
姿はほとんど見えない。
それでも紗良には、姫がこちらを見送っていることが分かった。
内裏を出る門の近くで、牛車が止まった。
前を行く車がつかえているらしい。
外では、従者たちの声や馬の蹄の音が重なっている。
やがて、近くを歩く男たちの会話が聞こえてきた。
「関白さまは、今朝になってもお目覚めにならぬそうだ」
紗良は、無意識に息を止めた。
「今宵を越えられぬという話もある」
「滅多なことを申すな」
そう咎めながらも、声を潜める気配はなかった。
「もしものことがあれば、次に帝のおそばで政を預かるのは、左大臣さまであろうか」
「いや、右大臣さまも、すでに人を集めておられるそうだ」
「関白の座が空けば、朝廷は二つに割れるぞ」
「大納言たちも、どちらにつくか見定めている頃だろう」
まるで、空いた席の場所を決めるような話し方だった。
「入内されたばかりの女御さまも、父君という後ろ盾を失えば厳しかろう」
男たちの声が遠ざかっていく。
牛車が再び動き始めた。
紗良は膝の上で、姫の文を入れた懐を押さえた。
雅継は、まだ生きている。
熱に苦しみながら、今も息をしている。
それなのに都では、もう彼がいなくなった後の話が始まっている。
「紗良さま」
向かいに座る小夜が、心配そうに紗良を見ていた。
紗良は握っていた手をゆっくりと開いた。
怒っても、雅継の熱は下がらない。
今、自分が考えるべきことは別にある。
「急ぎましょう」
「牛車に、これ以上急げと申すのは難しいかと……」
小夜が申し訳なさそうに答えた。
車輪が石を踏み、車内が大きく揺れる。
紗良は壁へ肩をぶつけそうになった。
「そうでした」
現代なら、もっと速い移動手段はいくらでもあった。
けれど、今乗っているのは牛車である。
焦ったところで、牛が早足になってくれるわけではない。
「お願いだから、今日は少しだけ頑張って」
紗良が前方へ向かって呟くと、小夜が目を瞬いた。
「牛にございますか?」
「はい」
「おそらく、聞いてはおらぬかと」
「分かっています」
それでも、言わずにはいられなかった。
ようやく藤原邸へ着いた時、以前とはまるで違う場所のように見えた。
門の前には何台もの牛車が止まり、使者が絶え間なく出入りしている。
邸の奥からは読経が聞こえた。
医師の指示を受けた者。
薬湯を運ぶ者。
政務の文を抱えた者。
誰もが落ち着かない足取りで、渡殿を行き交っている。
関白が倒れたというのに、政は止まってくれない。
むしろ彼が動けないからこそ、誰もが先を争って答えを求めていた。
紗良は小夜に案内され、雅継のいる寝殿へ急いだ。
途中、年長の女房が文箱と包みを抱えて通り過ぎる。
「それは?」
小夜が尋ねた。
「三条の御方より届いたものにございます」
包みの中には、薬湯に用いる乾かした草と、清らかな白絹が納められていた。
その上に、小さく折られた文が置かれている。
「三条の御方は」
「幼い若君がおられますゆえ、こちらへはお越しにならず、使いを寄越されました。何度も殿のお加減をお尋ねにございます」
紗良は文箱を見つめた。
三条の御方も、離れた邸で雅継を案じている。
来ないのではない。
来られないのだ。
宮中にいる姫も。
幼い子を守る三条の御方も。
それぞれの場所から動けず、知らせを待っている。
紗良だけが、雅継のもとへ向かっていた。
なぜ自分なのだろう。
一瞬そう思ったが、今は考えている場合ではなかった。
寝殿へ近づくにつれ、香と薬草の匂いが濃くなった。
御簾の外には僧侶たちが控え、低い声で祈りを続けている。
その奥では、医師が雅継の脈を診ていた。
紗良は邪魔にならない場所で、診察が終わるのを待った。
「熱が高いままにございます」
医師は側近へ告げた。
「薬湯をお飲みいただきたいのだが、お目覚めにならぬ。無理に口へ入れれば、むせてしまわれる」
「何か、ほかに手立ては」
「今は熱が鎮まるのを待つほかありませぬ」
医師は疲れた顔をしていた。
何もしていないわけではない。
できる限りのことをしているのだ。
それでも、できることには限りがある。
それは紗良も同じだった。
医師が退出すると、紗良はようやく雅継のそばへ通された。
几帳の内側は薄暗かった。
雅継は横たわったまま、目を閉じている。
いつも乱れなく整えられていた髪が、額へかかっていた。
呼吸は浅く、速い。
頬には熱があるのに、唇は乾いている。
紗良が初めて会った夜、雅継は月の下に一人で立っていた。
誰もが頭を下げる男だと知ったあとも、その姿勢が崩れるところを見たことはない。
その雅継が今は、自分で水を飲むことさえできずにいる。
「雅継さま」
呼びかけても、返事はなかった。
紗良はそっと手首へ触れた。
脈は速い。
力強いというより、追い立てられるように打っている。
手は冷たかった。
紗良は、そばに控える女房へ顔を向けた。
「煮立てて冷ました水を、少し用意していただけますか。それから、柔らかな布も」
女房が戸惑ったように側近を見る。
側近はすぐに頷いた。
「この方の申すとおりに」
権力者が倒れた邸では、紗良のような者の言葉にさえ、皆がすがろうとしている。
その重さに、胸が詰まりそうになった。
助けられるとは限らない。
それでも、何もしないまま見ていることはできなかった。
紗良が雅継の手首を包み直した時、その指がわずかに動いた。
「雅継さま?」
閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。
焦点の定まらない目が天井をさまよい、やがて紗良の顔で止まった。
「……幻か」
掠れた声だった。
「いいえ。紗良です」
雅継は、しばらく紗良を見つめていた。
「では私は……もう、この世にはおらぬのか」
「ここは藤原邸です。雅継さまは、まだ生きています」
「そうか」
雅継はわずかに息を吐き、再び目を閉じた。
紗良はその手首から指を離さなかった。
速く、弱い。
それでも脈は、確かに打ち続けていた。




