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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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20/36

平安の都で、最高権力者が倒れました


知らせが届いたのは、夜が明けて間もなくのことだった。


藤原邸から来た使者は姫の局へ通されると、御簾の前で深く頭を下げた。


その姿を見ただけで、良い知らせではないことが分かった。


「関白さまが、昨夜お倒れになりました」


局の空気が止まった。


姫の手から、持っていた扇が滑り落ちる。


畳に当たった音が、ひどく大きく聞こえた。


「父上が……?」


「政務の途中でお身体を崩され、昨夜遅くに邸へお戻りになりました。熱が高く、今朝になってもお目覚めになりませぬ」


姫は扇を拾おうとした。


けれど、指がうまく動かない。


近くに控えていた千代が、代わりに拾い上げた。


「医師は」


「すでにおそばに。僧侶の方々にもお越しいただいております」


それを聞いても、姫の表情は戻らなかった。


医師もいる。


僧侶もいる。


藤原邸には大勢の者が集まっている。


それでも、安心できないのだろう。


「お加減は、どのように」


「激しい熱と、腹の病にございます。水も、ほとんどお飲みになれぬと」


使者の言葉に、紗良は顔を上げた。


高い熱が続き、水も飲めない。


詳しい状態は実際に見なければ分からない。それでも、よくない知らせであることだけは分かった。


姫はしばらく何も言わなかった。


「わたくしが、参ることは」


年長の女房が静かに首を振る。


「今は、お控えになった方がよろしいかと存じます」


中宮も病に伏している。


入内したばかりの女御が宮中を離れ、病の広がる邸へ戻れば、何を言われるか分からない。


しかも昨夜から、姫の入内と中宮の病を結びつける囁きまで出始めている。


姫にも、その意味は分かっているはずだった。


「……そうね」


返事はかすかだった。


行きたいのに、行けない。


父が重い病に伏していても、娘だからという理由だけでは動けない。


姫はうつむいたまま、衣の上で指を重ねた。


「皆、少し下がってください」


女房たちは一斉に頭を下げ、局の端へ退いた。


紗良も下がろうとしたが、


「紗良は残って」


と呼び止められた。


御簾の近くに残った紗良を、姫が見上げる。


宮中では女御として振る舞っていても、今は父を案じる一人の娘に見えた。


「紗良」


「はい」


「父上のもとへ行ってくれぬか」


紗良はすぐには答えられなかった。


雅継を助けたい。


けれど、この時代には点滴も、検査も、十分な薬もない。紗良が行ったところで、病を治せるとは限らない。


期待させることはできなかった。


「私が伺っても、雅継さまを治せるとはお約束できません」


姫は静かに頷いた。


「分かっています」


その声は、わずかに震えていた。


「治してほしいと申しているのではないの」


姫は一度言葉を切った。


「父上のおそばには、大勢の者がいるでしょう。けれど皆、父上を関白として見ています」


姫の指が、衣を小さくつまむ。


「そなたなら、病に伏した一人の人として、父上を見てくれるでしょう」


紗良は何も言えなかった。


雅継が最高権力者であろうと、病は遠慮をしない。


苦しい時には苦しい。


怖い時には怖い。


それは誰でも同じだ。


「父上を、一人にしないでください」


紗良は深く頭を下げた。


「承知しました」


宮中を出る支度は、すぐに整えられた。


紗良は姫から預かった文を懐へ収め、小夜とともに牛車へ乗り込んだ。


牛車が動き出しても、姫は御簾の内側に立っていた。


姿はほとんど見えない。


それでも紗良には、姫がこちらを見送っていることが分かった。


内裏を出る門の近くで、牛車が止まった。


前を行く車がつかえているらしい。


外では、従者たちの声や馬の蹄の音が重なっている。


やがて、近くを歩く男たちの会話が聞こえてきた。


「関白さまは、今朝になってもお目覚めにならぬそうだ」


紗良は、無意識に息を止めた。


「今宵を越えられぬという話もある」


「滅多なことを申すな」


そう咎めながらも、声を潜める気配はなかった。


「もしものことがあれば、次に帝のおそばで政を預かるのは、左大臣さまであろうか」


「いや、右大臣さまも、すでに人を集めておられるそうだ」


「関白の座が空けば、朝廷は二つに割れるぞ」


「大納言たちも、どちらにつくか見定めている頃だろう」


まるで、空いた席の場所を決めるような話し方だった。


「入内されたばかりの女御さまも、父君という後ろ盾を失えば厳しかろう」


男たちの声が遠ざかっていく。


牛車が再び動き始めた。


紗良は膝の上で、姫の文を入れた懐を押さえた。


雅継は、まだ生きている。


熱に苦しみながら、今も息をしている。


それなのに都では、もう彼がいなくなった後の話が始まっている。


「紗良さま」


向かいに座る小夜が、心配そうに紗良を見ていた。


紗良は握っていた手をゆっくりと開いた。


怒っても、雅継の熱は下がらない。


今、自分が考えるべきことは別にある。


「急ぎましょう」


「牛車に、これ以上急げと申すのは難しいかと……」


小夜が申し訳なさそうに答えた。


車輪が石を踏み、車内が大きく揺れる。


紗良は壁へ肩をぶつけそうになった。


「そうでした」


現代なら、もっと速い移動手段はいくらでもあった。


けれど、今乗っているのは牛車である。


焦ったところで、牛が早足になってくれるわけではない。


「お願いだから、今日は少しだけ頑張って」


紗良が前方へ向かって呟くと、小夜が目を瞬いた。


「牛にございますか?」


「はい」


「おそらく、聞いてはおらぬかと」


「分かっています」


それでも、言わずにはいられなかった。


ようやく藤原邸へ着いた時、以前とはまるで違う場所のように見えた。


門の前には何台もの牛車が止まり、使者が絶え間なく出入りしている。


邸の奥からは読経が聞こえた。


医師の指示を受けた者。


薬湯を運ぶ者。


政務の文を抱えた者。


誰もが落ち着かない足取りで、渡殿を行き交っている。


関白が倒れたというのに、政は止まってくれない。


むしろ彼が動けないからこそ、誰もが先を争って答えを求めていた。


紗良は小夜に案内され、雅継のいる寝殿へ急いだ。


途中、年長の女房が文箱と包みを抱えて通り過ぎる。


「それは?」


小夜が尋ねた。


「三条の御方より届いたものにございます」


包みの中には、薬湯に用いる乾かした草と、清らかな白絹が納められていた。


その上に、小さく折られた文が置かれている。


「三条の御方は」


「幼い若君がおられますゆえ、こちらへはお越しにならず、使いを寄越されました。何度も殿のお加減をお尋ねにございます」


紗良は文箱を見つめた。


三条の御方も、離れた邸で雅継を案じている。


来ないのではない。


来られないのだ。


宮中にいる姫も。


幼い子を守る三条の御方も。


それぞれの場所から動けず、知らせを待っている。


紗良だけが、雅継のもとへ向かっていた。


なぜ自分なのだろう。


一瞬そう思ったが、今は考えている場合ではなかった。


寝殿へ近づくにつれ、香と薬草の匂いが濃くなった。


御簾の外には僧侶たちが控え、低い声で祈りを続けている。


その奥では、医師が雅継の脈を診ていた。


紗良は邪魔にならない場所で、診察が終わるのを待った。


「熱が高いままにございます」


医師は側近へ告げた。


「薬湯をお飲みいただきたいのだが、お目覚めにならぬ。無理に口へ入れれば、むせてしまわれる」


「何か、ほかに手立ては」


「今は熱が鎮まるのを待つほかありませぬ」


医師は疲れた顔をしていた。


何もしていないわけではない。


できる限りのことをしているのだ。


それでも、できることには限りがある。


それは紗良も同じだった。


医師が退出すると、紗良はようやく雅継のそばへ通された。


几帳の内側は薄暗かった。


雅継は横たわったまま、目を閉じている。


いつも乱れなく整えられていた髪が、額へかかっていた。


呼吸は浅く、速い。


頬には熱があるのに、唇は乾いている。


紗良が初めて会った夜、雅継は月の下に一人で立っていた。


誰もが頭を下げる男だと知ったあとも、その姿勢が崩れるところを見たことはない。


その雅継が今は、自分で水を飲むことさえできずにいる。


「雅継さま」


呼びかけても、返事はなかった。


紗良はそっと手首へ触れた。


脈は速い。


力強いというより、追い立てられるように打っている。


手は冷たかった。


紗良は、そばに控える女房へ顔を向けた。


「煮立てて冷ました水を、少し用意していただけますか。それから、柔らかな布も」


女房が戸惑ったように側近を見る。


側近はすぐに頷いた。


「この方の申すとおりに」


権力者が倒れた邸では、紗良のような者の言葉にさえ、皆がすがろうとしている。


その重さに、胸が詰まりそうになった。


助けられるとは限らない。


それでも、何もしないまま見ていることはできなかった。


紗良が雅継の手首を包み直した時、その指がわずかに動いた。


「雅継さま?」


閉じられていた瞼が、ゆっくりと開く。


焦点の定まらない目が天井をさまよい、やがて紗良の顔で止まった。


「……幻か」


掠れた声だった。


「いいえ。紗良です」


雅継は、しばらく紗良を見つめていた。


「では私は……もう、この世にはおらぬのか」


「ここは藤原邸です。雅継さまは、まだ生きています」


「そうか」


雅継はわずかに息を吐き、再び目を閉じた。


紗良はその手首から指を離さなかった。


速く、弱い。


それでも脈は、確かに打ち続けていた。

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