次を、と彼は命じた
中宮の熱が下がらないまま、宮中では新たに伏せる者が増え始めた。
熱を出す者。
腹を下し、起き上がれなくなる者。
昨日まで何事もなく働いていた女房が、朝には局から出られなくなったという話も聞こえてくる。
姫の局では、今のところ具合を悪くした者はいなかった。
口にする水を煮立てて冷ますことも、いつの間にか毎日の習慣になっている。
ただし、習慣になったからといって、楽になったわけではない。
「まだ熱いです」
器を両手で持った千代が、困った顔をしている。
「もう少し待ちましょう」
紗良が答えると、千代は湯気の向こうから恨めしそうに見た。
「煮立ててから冷ますのでしたら、初めから冷たい水を飲んではいけないのでしょうか」
「それでは煮立てたことになりません」
「水とは、もっと簡単なものだと思っておりました」
それには紗良も同感だった。
この時代へ来るまで、水を飲むことにこれほど時間と手間をかけたことはない。
姫が袖で口元を隠した。
笑ったらしい。
「千代。紗良に水のことで申しても、譲らぬと思うわ」
「姫さままで、そのようなことを」
「でも、この局では誰も倒れていないのでしょう?」
姫に尋ねられ、紗良は頷いた。
「今のところは。ただ、この水のおかげだとは言い切れません」
「相変わらず、そなたは曖昧なことを言うのね」
「分からないことを、分かったとは言えませんから」
姫は少し考えるように紗良を見つめた。
「そこが、清景に似ているのかもしれないわ」
「私が、ですか?」
どう考えても似ていない。
紗良が納得できずにいると、御簾の外から女房たちの声が聞こえた。
「新しく女御さまがお入りになったばかりで、このようなことが……」
「滅多なことを申すものではありません」
衣擦れの音とともに、声は遠ざかっていった。
それだけの囁きだった。
けれど、姫の笑みは消えていた。
紗良は何も言わなかった。
姫の入内と中宮の病に関わりがないと言い切ったところで、噂を消せるわけではない。
慰めようとすれば、かえって姫が傷ついていることを認めさせてしまう気もした。
「父上は、もうご存じかしら」
姫が小さく呟いた。
「雅継さまなら、私たちより早くご存じなのではありませんか」
紗良が答えると、姫はわずかに目を細めた。
「そうね。父上だもの」
安心したのか、別の不安を覚えたのかは分からなかった。
その日の夕刻、賀茂清景が宮中へ入った。
中宮の病に、物の怪が関わっているかを確かめるためだという。
清景は中宮のいる殿舎へ向かう前に、姫の局へ立ち寄った。
御簾を隔てて簀子に座り、女房たちの様子を見回す。
「こちらでは、伏せった者はいないのか」
「今のところは」
紗良が答えた。
「水も、煮立てたものを続けています」
清景は、湯気の立つ器を運ぶ千代へ目を向けた。
「まだ続けていたのか」
「清景さまが、そうするように言ってくださったのでしょう」
「私が申さねば、誰も従わぬからな」
「おかげで助かっています」
清景は褒められたはずなのに、なぜか不満そうだった。
姫がおずおずと尋ねる。
「中宮さまのご病気は、物の怪によるものなのでしょうか」
「まだ拝見しておりません。ですが、内裏の外でも同じような病が出ております」
清景はそこで言葉を切った。
「一人の物の怪が、これほど多くの者へ取り憑いて回っているとは考えにくい」
「では、ただの病なのですか」
「ただの病と申すな。人の命を奪うものに、ただも何もない」
姫が扇を握り直す。
清景は少し声を和らげた。
「今、この局に悪しき気配はございません。これまでどおりお過ごしください」
「病と物の怪は、別なのですね」
紗良が尋ねた。
「別である時もあれば、重なる時もある」
清景は迷わず答えた。
「身体が弱れば、入り込もうとするものもある。だが、初めから物の怪と決めつければ、見えるはずの病を見失う」
以前の清景なら、そう言っただろうか。
紗良が見つめていると、清景が眉を寄せた。
「何だ」
「いえ。何でもありません」
「何でもない顔には見えぬ」
「少し、驚いただけです」
「そなたに驚かれる覚えはない」
清景は本当に不服そうだった。
紗良は笑いそうになるのをこらえた。
「それより、お願いがあります」
「今度は何だ」
「具合の悪い方が、無理をして姫さまの局へ来ないようにできませんか。私から休んでくださいと言っても、お役目を離れにくい方がいるようなので」
清景は少し考えた。
「三日の間、この局への出入りを慎ませよう」
「そのようなことができるのですか」
「物忌みとすればよい。必要のない者は近づけぬ」
紗良は目を瞬いた。
現代でいうところの、面会制限に近い。
方法も理由もまったく違うのに、望んでいた形にはなる。
「お願いします」
紗良が頭を下げると、清景は御簾の向こうからじっとこちらを見た。
「そなたは、妙なところで知恵を回すな」
「褒めてくださっているのでしょうか」
「まさか」
また即答された。
「少しくらい迷ってから答えてもよいのではありませんか」
「なぜ偽りを申さねばならぬ」
やはり、この男とは話が合うのか合わないのか分からない。
清景は立ち上がると、中宮のいる殿舎へ向かった。
その背中を見送りながら、姫が小さく言った。
「やはり、二人は少し似ているわ」
「どこがでしょう」
紗良には、まったく分からなかった。
けれど、清景の言葉によって、その日のうちに姫の局は三日の物忌みと定められた。
病を恐れて人を遠ざけたのではない。
そういう形にしたことで、誰も面目を失わずに出入りを減らすことができた。
この時代には、この時代の守り方があるのだ。
そして姫が案じたとおり、雅継はすでに宮中の噂を知っていた。
彼の前には、都の各所から届いた文が積み上げられていた。
中宮の病状。
内裏で伏せった者の数。
京の東で熱を出す者が増え、西の市の近くでは腹の病が広がっているという知らせ。
どの文にも、不安と恐れが滲んでいた。
「典薬寮から人を向かわせよ」
雅継は読み終えた文を脇へ置いた。
「薬が足りぬなら、蔵を開けさせる。必要な場所を先に確かめよ」
「承知いたしました」
側近が頭を下げた。
次の文には、中宮の病と新しく入内した女御を結びつける噂が記されていた。
雅継の視線が止まる。
「この噂は、どこまで広がっている」
「今は、女房たちの囁きにとどまっております」
「ならば、囁きのうちに消せ」
雅継は静かに命じた。
「中宮さまが伏せられる前から、都では同じ病が出ていた。その記録を整え、関わる者へ伝えよ」
「噂を口にした者は、いかがいたしましょう」
「探す必要はない」
雅継は文を閉じた。
「人の口を塞げば、塞いだ理由が新しい噂になる」
誰かを罰すれば、娘の入内と中宮の病に何か関わりがあると認めるようなものだ。
事実だけを先に広めればよい。
「今宵、帝には中宮さまのおそばを離れぬよう申し上げよ」
側近がわずかに顔を上げた。
入内したばかりの娘のもとへ、帝を向かわせるのではない。
政を預かる者として、雅継の判断は迷いがなかった。
「女御さまには、何とお伝えいたしますか」
雅継は少しだけ沈黙した。
娘の性格は分かっている。
中宮が重い病に伏している時に、自分の寂しさを訴えることはないだろう。
だからといって、何も感じていないわけではない。
「今は、何も伝えるな」
父の言葉は、ときに慰めより重くなる。
今、耐えよと書けば、娘はその言葉どおりに耐えてしまう。
「賀茂清景からの知らせは」
「まだ届いておりません」
「届き次第、すぐに持て」
「はっ」
雅継は次の文へ手を伸ばした。
その指先が、わずかに震えた。
紙の文字が揺れて見える。
一度目を閉じると、額の奥に鈍い痛みがあった。
昨夜から、ほとんど休んでいない。
朝に粥を数口取ったきり、何も口にしていなかった。
疲れているだけだ。
そう考え、再び文を開く。
「殿」
側近が遠慮がちに声をかけた。
「少しお休みになられては」
「今、私が休めば、この文は誰が読む」
「されど、お顔の色が――」
「いつもと同じだ」
言い切った直後、腹の奥に鈍い痛みが走った。
雅継は表情を変えなかった。
室内には火がある。
それなのに、身体の芯から寒気が這い上がってくる。
別の側近が、新しい文を差し出した。
「次の知らせにございます」
雅継はそれを受け取った。
「次を」
静かに命じる。
声だけは、いつもと変わらなかった。
けれど、文を開いた指先から、すでに血の気が失われ始めていた。




