宮中では、道に迷うな
宮中で迎えた最初の朝は、思ったよりも騒がしかった。
もちろん、表立って声を上げる者はいない。
女房たちは静かに行き交い、衣擦れの音さえ慎ましい。誰もが扇で口元を隠し、声を落として話している。
けれど、その小さな声は、紗良の耳にも届いた。
「昨夜は、お渡りがなかったそうよ」
「入内されたばかりだというのに」
「藤原殿の姫君といえど、帝の御心までは……」
紗良は足を止めなかった。
こちらへ聞かせるつもりなのか、本当に聞かれていないと思っているのかは分からない。
昨夜、姫が朝までどのような顔で待っていたかを、彼女たちは知らない。
思うところはあったが、紗良は前だけを見て歩いた。
ここへ来る前に、雅継と三条の御方から言われたことを覚えている。
見たものを、すべて口にする必要はない。
宮中では、言葉を慎んだ方がよい。
紗良は手にしていた布を持ち直し、何も聞かなかった顔で姫の局へ戻った。
姫は文机の前に座っていた。
昨夜、ほとんど眠っていないはずだった。
それでも髪を整え、背筋を伸ばしている。
前には一枚の紙が置かれていたが、まだ何も書かれていなかった。
紗良は持っていた布を千代へ渡し、姫から少し離れた場所へ座った。
何か声をかけるべきか迷ったが、姫が文机へ目を落としていたため、黙って待った。
やがて姫が、小さく口を開いた。
「父上は、もう昨夜のことをご存じであろうか」
紗良はすぐに答えず、言葉を選んだ。
「宮中のことは、早くお耳に入るようですから」
「そうであろうな」
姫はうつむいた。
「案じておられるだろうか」
その声は、昨夜までの落ち着いたものより、少し幼く聞こえた。
「きっと」
紗良は、それだけ答えた。
大丈夫です。
今夜はきっと来ます。
そう言いたくなったが、何の約束もできない。
姫は紙の端へ指を置いたものの、筆を取らなかった。
ほどなくして、外が慌ただしくなった。
「女御さま、藤原殿よりお届け物にございます」
年長の女房の声に、姫が顔を上げた。
運び込まれてきたのは、一つや二つではなかった。
香。
衣。
美しい料紙。
季節の花が添えられた文箱。
それに続いて、雅継の縁につながる女君たちから、入内を祝う文が次々と届けられた。
先ほどまで静かだった局が、色と香りで満たされていく。
「昨日も、たくさん運び込まれていたと思うのですが……」
紗良が小声で言うと、千代が耳元で答えた。
「女御さまには、これほど多くの方々がおつきになっていると、宮中の皆さまへお示しになるためでもございます」
紗良は積み上げられた品々を見た。
雅継はここにいない。
けれど、娘が宮中で軽んじられないように動いていることは分かった。
朝から聞こえていた囁きも、これで少しは静まるのかもしれない。
「紗良」
姫に呼ばれ、紗良は顔を上げた。
姫は、父から届いた文を手にしていた。
張り詰めていた表情が、ほんの少しだけ和らいでいる。
「父上からだ」
「はい」
「身体を大切にせよ、と。近日中に冬の衣も届けるそうだ」
雅継らしい文だと、紗良は思った。
娘を案じているはずなのに、言葉にすると必要なことだけになってしまう。
「よろしゅうございました」
紗良が言うと、姫は小さく頷いた。
そして文を畳もうとして、手を止める。
「まだ、続きがある」
姫の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「そなたへの言葉だ」
「私に、ですか?」
「傍らの、月を追う女房にも伝えよ。宮中では道に迷うな、と」
紗良は瞬きをした。
「……それだけですか?」
「それだけだ」
「私はまだ、一度も迷っていません」
千代が、そっと口元を袖で隠した。
「まだ宮中へ参りまして、一日でございます」
「千代まで、そのようなことを」
「申し訳ございません」
謝りながらも、千代の肩はわずかに揺れている。
姫も扇で口元を隠した。
小さな笑い声が漏れた。
昨夜から初めて見る、柔らかな笑顔だった。
紗良は少し不満そうな顔を作ったが、それ以上は言わなかった。
姫が笑えたのなら、迷子扱いされたくらいは構わない。
それでも、雅継が娘への文を書きながら、自分のことまで思い出したという事実は、少し不思議だった。
単に、また夜歩きをしないよう釘を刺しただけかもしれない。
おそらく、そうなのだろう。
紗良はそう考え、姫の手にある文から目を逸らした。
昼を過ぎた頃、今度は帝から使いが訪れた。
局の空気が変わった。
女房たちは一斉に姿勢を正し、姫も扇を手に取る。
届けられたのは、美しい料紙に書かれた文と、香を焚きしめた衣だった。
文には、昨夜は急な政務によって訪れることができなかったこと、今宵こそ姫の局を訪れたいという意向が、和歌とともに記されているらしい。
紗良には、流れる文字の半分も読めない。
ただ、文を読む姫の指から少しずつ力が抜けていくのは見えた。
「お返事を」
年長の女房が硯を用意した。
姫はすぐには筆を取らなかった。
帝の文を読み返し、庭へ目を向ける。
薄の穂が、秋の風に揺れている。
ようやく筆を取ったものの、数文字で止まった。
姫はしばらく紙を見つめ、新しい紙へ替える。
二枚目も途中で筆が止まった。
紗良は何も言わず、書き損じた紙を受け取った。
姫は三枚目の紙を前に、小さく息を吐いた。
「昨夜、待っていたことを……どこまで書いてよいのか分からぬ」
年長の女房は少し考え、
「お恨みになったように聞こえぬ方がよろしいかと存じます」
と静かに答えた。
「恨んでなど、おらぬ」
姫はそう言ったが、その声はどこか頼りなかった。
「ただ、少し心細かっただけだ」
紗良は俯いたまま、書き損じた紙を揃えた。
昨夜の姫は、何も言わずに朝まで帝を待っていた。
寂しかったことを隠すのも、きっと姫自身が選んだことなのだろう。
紗良が代わりに言葉にすることではない。
姫は長いあいだ迷った末、もう一度筆を取った。
今度は途中で止めず、最後まで書き終えた。
出来上がった歌を見つめる姫の顔には、安堵よりも不安が残っていた。
「これで、よいだろうか」
年長の女房が文を拝見し、深く頭を下げた。
「たいへん、優しい御歌にございます」
姫はようやく、小さく息を吐いた。
夕刻から、局では慌ただしい支度が始まった。
姫の衣を選び、髪を整え、几帳の位置を確かめる。
香炉には、雅継から届いたばかりの香が入れられた。
「紗良さま、そちらをもう少しこちらへ」
千代に言われ、紗良は香炉を動かした。
「ここですか?」
「もう少し奥にございます」
「この辺り?」
「行き過ぎでございます」
「難しい……」
紗良は慎重に香炉を戻した。
「こちらでよろしいでしょうか」
「はい。そこで」
ようやく置き終えたところで、別の女房が近づいてきた。
「香が、少し強すぎるのではございませんか」
紗良は香炉を見た。
「減らしましょうか?」
「今、蓋を開けますと、かえって香りが乱れます」
「では、どうすれば」
「しばらくお待ちくださいませ」
また、待つ。
平安時代へ来てから、紗良は何度この言葉に出会ったか分からない。
湯が沸くのを待つ。
文の返事を待つ。
人が訪れるのを待つ。
香がほどよく馴染むのを待つ。
香炉の前で腕を組みそうになり、紗良は慌てて手を重ね直した。
やがて、帝の訪れを告げる声がした。
室内の空気が静まった。
姫は御簾の内側に座り、扇を胸元へ引き寄せた。
その手が、かすかに震えている。
紗良は姫と目が合った。
何と声をかければよいか分からず、ただ小さく頭を下げた。
姫も、ほんのわずかに頷いた。
紗良たち女房は、少し離れた場所へ下がった。
近づいてくる足音。
男たちの低い声。
衣擦れの音。
やがて、新しい香りが漂ってきた。
帝の姿は、ほとんど見えない。
紗良も見ようとはしなかった。
御簾の向こうから、帝の低い声が聞こえる。
続いて、姫の声。
何を話しているのかまでは分からない。
それでよいと思った。
夜が更けても、帝はすぐには帰らなかった。
女房たちの張り詰めていた空気が、少しずつ和らいでいく。
誰も何も言わなかった。
けれど、朝から聞こえていた囁きとは違う話が、明日には宮中を巡るのだろう。
帝が帰ったのは、夜が明ける少し前だった。
見送りを終えると、姫は長く息を吐いた。
疲れているように見えたが、昨夜の朝とは表情が違う。
頬に、わずかな赤みが残っている。
紗良は何も尋ねなかった。
「お水をお持ちします」
立ち上がろうとすると、姫が呼び止めた。
「紗良」
「はい」
姫はすぐには続けなかった。
扇の端を指でなぞり、少し俯いている。
「昨夜は……そなたがいて、心強かった」
紗良は、姫の横顔を見た。
「私も、姫さまのお側にいられてよかったです」
それ以上のことは言わなかった。
姫も、静かに頷いた。
ほどなくして、煮立ててから冷ました水が運ばれてきた。
紗良は器へ注ぎ、姫の前へ置いた。
姫が一口飲んだ時、水を運んできた女房が何気なく言った。
「別の局では、昨夜から腹を下した者が二人いるそうにございます」
紗良は女房へ目を向けた。
「お二人とも、同じ局の方ですか」
「はい。冷えたものでも召し上がったのでございましょう」
同じものを口にしたのかもしれない。
身体を冷やしただけかもしれない。
これだけでは、何も分からない。
「千代」
「はい」
「念のため、こちらでは今までどおり、煮立てた水を使いませんか」
「承知いたしました」
「器も、それぞれ決めておいた方がよいと思います。無理のない範囲で」
千代は少し不思議そうな顔をしたが、素直に頷いた。
「そのようにいたします」
紗良はそれ以上、何も言わなかった。
まだ病が広がっていると決まったわけではない。
姫が飲み終えた器を受け取り、千代へ渡した。
それからしばらくは、穏やかな時間が流れた。
女房たちは昨夜の片づけをし、姫は父へ返す文を書いた。
紗良は少し離れた場所で、届いた衣を畳んでいた。
相変わらず、どの唐櫃へ入れるのかを何度も千代へ確かめなければならない。
「こちらで間違いありませんか」
「そちらにございます」
「前回も、そこでしたか?」
「前回は、その隣にございます」
「どうして変わるのですか」
「衣が増えましたので」
雅継から大量に贈られてきた衣のせいである。
娘を守る父親の気持ちは分かる。
けれど、収納する側の都合も少しは考えてほしい。
ようやく最後の衣を納めた時、廊の向こうが急に騒がしくなった。
何人もの足音が重なっている。
女房たちが、何事かを囁きながら行き交い始めた。
姫も顔を上げた。
「何があった」
年長の女房が様子を確かめるため、局の外へ出ていった。
戻ってきた時、その顔から血の気が引いていた。
「中宮さまが、お倒れになったそうにございます」
局の空気が静まった。
「中宮さまが?」
姫が扇を握り直す。
「ひどいお熱にございます。先ほどから、お声をかけても、はっきりとお答えにならぬと」
それを聞いた紗良の背筋に、冷たいものが走った。
高熱。
意識がはっきりしない。
それだけでも、軽い状態ではない。
だが中宮は、紗良が簡単に近づける相手ではなかった。
様子を見に行くことも、触れることもできない。
やがて、宮中の門から大勢の者が入ってくる気配がした。
僧侶たちが呼ばれたらしい。
廊を進む衣の音。
低く交わされる言葉。
運び込まれる仏具。
ほどなくして、中宮の局がある方角から読経が聞こえ始めた。
低い声がいくつも重なり、宮中の建物を伝ってくる。
女房の一人が、胸元で手を合わせた。
別の者は、
「物の怪でございましょうか」
と青ざめた顔で囁いている。
紗良は何も言わなかった。
祈ることを否定するつもりはない。
この時代では、病に倒れた人のためにできる大切なことなのだろう。
それでも、心の中には戸惑いがあった。
高熱で人が倒れて、最初に集められるのがお坊さんなんだ。
僧侶たちと話をしても、紗良の言葉が通じるとは思えない。
そもそも、紗良には中宮の症状さえ詳しく分からない。
別の局で腹を下した者がいることと、中宮の熱が同じものによるのかも不明だった。
紗良は姫の前に置かれた水差しへ目を向けた。
今、自分にできるのは、この局で使う水に気をつけることくらいだ。
「姫さま」
呼びかけると、姫が不安そうな顔で振り返った。
「こちらのお水をお飲みください」
紗良は、煮立ててから冷ました水を新しい器へ注いだ。
姫は何も尋ねず、両手で器を受け取った。
御簾の外では、僧侶たちの読経が続いている。
その声は、日が暮れても止まなかった。
夜、月は出ていた。
けれど紗良は外へ出ず、姫のそばに残った。
宮中の長い廊を、薬を運ぶ者と、祈祷に必要な品を抱えた者が行き交っている。
中宮の熱は、まだ下がらない。
その知らせだけが、祈りの声とともに、幾度も宮中を巡っていた。




