↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/41

月を追う女房へ


姫を宮中へ送り出した翌朝、雅継は主のいなくなった部屋の前で足を止めた。


几帳も、文机も、そのまま残されている。


季節ごとに取り替えられていた香だけが薄く残り、開け放たれた簾の向こうでは、秋の草が朝露に濡れていた。


昨朝まで、ここには娘がいた。


幼い頃から見慣れた場所なのに、人が一人いなくなっただけで、ひどく広く見える。


雅継は中へ入らなかった。


立ち止まっていたのも、ほんのわずかな間だった。


「殿」


後ろから声をかけられ、雅継は振り返った。


家司が深く頭を下げている。


「宮中より、使いが参っております」


「通せ」


いつもの声で命じ、雅継は自らの居所へ戻った。


文机の前に座ると、すでに朝からいくつもの文が積まれていた。


地方から届いた訴え。

官職を求める者からの願い。

近く予定されている祭の人選。

親族からの伺い。


その中に、宮中から届けられた細い文があった。


雅継はほかの文には手を触れず、先にそれを取った。


昨夜、帝は娘の局を訪れなかった。


理由は、急な政務が入ったためと記されている。


西国から届いた報せをめぐり、夜まで公卿たちの詮議が続いたらしい。帝が娘を軽んじたわけではなく、近日中に改めて訪れる意向もあるという。


雅継は最後まで読み、文を静かに畳んだ。


「このことを、ほかに知る者は」


「すでに宮中では、いくらか噂になっているようにございます」


家司は慎重に答えた。


「新たに参られた女御さまのもとへ、帝がお渡りにならなかった、と」


「噂というものは、事実より足が速い」


雅継はそう言っただけだった。


娘が入内したその夜に、帝の訪れを得られなかった。


それが政務のためであろうと、宮中の者たちには関係がない。誰が寵愛を得て、誰が待たされたのか。それだけが、面白おかしく語られる。


娘本人が、どのような気持ちで夜を明かしたのかも。


「帝のお耳へ入れる文を用意せよ」


「いかなる内容でございましょう」


「西国からの報せについて、明日の朝議で扱うべきことをまとめる。今宵まで政務を長引かせる必要はない」


「承知いたしました」


「それから、女御の局へ新しい香を届けよ。入内の祝いとして、親族の女君たちから文も届くようにしておけ」


家司が顔を上げた。


ほんの一瞬だったが、雅継の意図を察したらしい。


娘の局へ人の関心を集める。


帝が訪れなかったことではなく、藤原家の姫がどれほど大切に迎えられているかを、宮中の者たちへ見せるために。


雅継は、帝へ娘のもとを訪れよと命じることはできない。


たとえできたとしても、そうするつもりはなかった。


命じられて訪れた男を、娘が喜ぶとも思えない。


ただ、帝が自ら足を向けられるよう、障りとなるものを取り除くことはできる。


それが父親としての振る舞いなのか、藤原家の長としての策なのか。


雅継自身にも、もう区別はつかなかった。


「姫君へは、いかがいたしましょう」


「私が文を書く」


「かしこまりました」


家司が下がり、室内に静けさが戻る。


雅継は硯を引き寄せた。


筆を取ったものの、すぐには書かなかった。


昨夜のことには触れぬ方がよい。


大丈夫かと尋ねれば、娘は大丈夫だと答えるだろう。


幼い頃から、そういう娘だった。


転んで膝を擦りむいた時も、母を亡くした夜も、人前では泣かなかった。


誰に似たのかと考え、雅継は筆先を墨へ沈めた。


おそらく、自分なのだろう。


娘の身体を案じる言葉と、近日中に贈る衣について簡潔に書く。


そこまで記したところで、雅継の筆が止まった。


娘の傍らには、見慣れぬ女房がいる。


宮中の作法にも、身分の違いにも慣れていない。それでも、病に伏した娘のもとから逃げなかった女。


月夜の庭で、自分の素性も知らずに道を尋ねてきた女。


雅継は、新しい紙へ視線を移した。


紗良だけに文を送る理由はない。


娘の女房を、邸の主人が特別に気にかける必要もない。


宮中には、言葉をねじ曲げることに長けた者が多い。雅継から紗良へ直接文を送れば、それだけで余計な意味を持つ。


雅継は再び筆を動かした。


娘への文の末尾へ、ごく短い一文を書き添える。


――傍らの、月を追う女房にも伝えよ。宮中では道に迷うな、と。


書いてから、雅継はしばらくその一文を見つめた。


余計な言葉だった。


消そうと思えば、まだ間に合う。


だが雅継は紙を替えず、そのまま文を畳んだ。


「誰か」


呼ぶと、すぐに控えていた者が姿を現した。


「これを宮中へ」


文を渡したあと、雅継は積まれた政務の文へ手を伸ばした。


一通目を開き、目を通す。


二通目も同じように読む。


けれど、墨が乾く前の一文だけが、なぜか頭から離れなかった。


昼を過ぎた頃、家司が再び現れた。


「今宵のことでございますが」


雅継は文から目を上げなかった。


「何だ」


「三条の御方のもとへ、お渡りになるご予定はいかがいたしましょう。先日お届けした衣への礼が届いております」


雅継の筆が、わずかに止まった。


三条の御方のもとには、しばらく足を運んでいない。


必要な品は届けている。


子どもの暮らしにも、不自由がないよう取り計らっている。病や困り事があれば、すぐに知らせるようにも命じてある。


果たすべき務めを怠っているつもりはなかった。


しかし、それと彼女のもとへ通うことは、同じではない。


「今宵はよい」


「かしこまりました」


家司は理由を尋ねなかった。


雅継が三条の御方を迎えたのは、恋情からではない。


三条の御方は、亡き北の方の遠縁にあたる。


かつて宮中で、ある女御に仕えていた女房だった。人目を引く華やかさはないが、余計なことを口にせず、宮中の事情にも通じている。


雅継と北の方との間に跡継ぎへの不安が生じた頃、両家の均衡を崩さぬ相手として、三条の御方が選ばれた。


それだけのことだった。


雅継は元服する頃には、すでに北の方との婚姻を決められていた。


初めて対面するよりも前に、誰を妻とするかが決まっていた。


北の方は高位の公家の娘であり、藤原家にとって申し分のない縁だった。


二人の間に、初めから恋があったわけではない。


それでも年月を重ねるうち、互いへの敬意と穏やかな情は育った。


北の方は家を守り、娘を育て、雅継が政務に追われる間も、決して人前で不満を漏らさなかった。


亡くなって五年が過ぎても、彼女が好んだ香を焚く者はいない。


三条の御方との関係もまた、家のために決められたものだった。


彼女も、それを承知していた。


雅継の訪れを待っているとも、寂しいとも言わない。


以前、久しぶりに訪ねた時も、


「お忙しいところを、ありがとうございます」


と静かに頭を下げた。


夫を迎える女の言葉ではなく、後ろ盾となる者へ礼を述べるような言葉だった。


雅継には、それを責める資格はない。


彼自身が、三条の御方をその立場へ置いたのだから。


女との関わりは、雅継にとって常に家と政治の内にあった。


誰を妻とするか。


誰のもとへ通うか。


誰に子を産ませるか。


そこに雅継自身の望みが問われたことはない。


そして雅継もまた、問われぬことに慣れていた。


「三条の御方へ、何かお届けいたしましょうか」


退出しかけていた家司が尋ねた。


雅継は少し考えた。


「子どもへ、先日届いた絵巻を。三条の御方には、冬の衣を早めに用意せよ」


「承知いたしました」


家司が下がる。


雅継は再び文へ目を落とした。


務めは果たしている。


そう考えた瞬間、胸の内にわずかな苦さが残った。


夕刻、宮中から新たな使いが来た。


帝より娘へ文と贈り物が届けられ、今宵には局を訪れる意向が伝えられたという。


雅継は表情を変えず、


「そうか」


とだけ答えた。


家司たちは安堵した様子を見せたが、雅継はすぐに次の政務へ戻った。


娘の立場は、ひとまず守られる。


だが、今宵帝が訪れたからといって、その先まで約束されたわけではない。


宮中で生きるというのは、選ばれた一夜のあとも、次の訪れを待ち続けることなのだろう。


日が暮れてから、雅継は文机を離れた。


庭へ出ると、雲の切れ間に月が見えた。


満月には、まだ少し足りない。


以前、この庭で道に迷っていた女は、月を見上げながら歩いていた。


恐れもなく話しかけてきたかと思えば、自分が邸の主人だと知った翌日には、声も出せずに固まっていた。


思い出すと、口元がわずかに緩んだ。


雅継はすぐに笑みを消した。


紗良には、政治的な価値などない。


どの家の娘かも分からず、縁戚も後ろ盾もない。宮中へ連れていくことで、藤原家に利益をもたらす女でもない。


むしろ、余計な面倒を起こす可能性の方が高い。


それなのに、今頃どうしているのかと思う。


娘のそばで、宮中の暗い廊に迷ってはいないか。


読めぬ文を前に、分かったような顔をしてはいないか。


夜になれば、また月を追って歩き出すのではないか。


雅継は月から目を逸らした。


今まで、会う必要のない女に、会いたいと思ったことはなかった。


遠く宮中にいる紗良は今頃、自分が添えた一文を読んで、腹を立てているかもしれない。


その顔を見られないことを、少しだけ惜しいと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。