月を追う女房へ
姫を宮中へ送り出した翌朝、雅継は主のいなくなった部屋の前で足を止めた。
几帳も、文机も、そのまま残されている。
季節ごとに取り替えられていた香だけが薄く残り、開け放たれた簾の向こうでは、秋の草が朝露に濡れていた。
昨朝まで、ここには娘がいた。
幼い頃から見慣れた場所なのに、人が一人いなくなっただけで、ひどく広く見える。
雅継は中へ入らなかった。
立ち止まっていたのも、ほんのわずかな間だった。
「殿」
後ろから声をかけられ、雅継は振り返った。
家司が深く頭を下げている。
「宮中より、使いが参っております」
「通せ」
いつもの声で命じ、雅継は自らの居所へ戻った。
文机の前に座ると、すでに朝からいくつもの文が積まれていた。
地方から届いた訴え。
官職を求める者からの願い。
近く予定されている祭の人選。
親族からの伺い。
その中に、宮中から届けられた細い文があった。
雅継はほかの文には手を触れず、先にそれを取った。
昨夜、帝は娘の局を訪れなかった。
理由は、急な政務が入ったためと記されている。
西国から届いた報せをめぐり、夜まで公卿たちの詮議が続いたらしい。帝が娘を軽んじたわけではなく、近日中に改めて訪れる意向もあるという。
雅継は最後まで読み、文を静かに畳んだ。
「このことを、ほかに知る者は」
「すでに宮中では、いくらか噂になっているようにございます」
家司は慎重に答えた。
「新たに参られた女御さまのもとへ、帝がお渡りにならなかった、と」
「噂というものは、事実より足が速い」
雅継はそう言っただけだった。
娘が入内したその夜に、帝の訪れを得られなかった。
それが政務のためであろうと、宮中の者たちには関係がない。誰が寵愛を得て、誰が待たされたのか。それだけが、面白おかしく語られる。
娘本人が、どのような気持ちで夜を明かしたのかも。
「帝のお耳へ入れる文を用意せよ」
「いかなる内容でございましょう」
「西国からの報せについて、明日の朝議で扱うべきことをまとめる。今宵まで政務を長引かせる必要はない」
「承知いたしました」
「それから、女御の局へ新しい香を届けよ。入内の祝いとして、親族の女君たちから文も届くようにしておけ」
家司が顔を上げた。
ほんの一瞬だったが、雅継の意図を察したらしい。
娘の局へ人の関心を集める。
帝が訪れなかったことではなく、藤原家の姫がどれほど大切に迎えられているかを、宮中の者たちへ見せるために。
雅継は、帝へ娘のもとを訪れよと命じることはできない。
たとえできたとしても、そうするつもりはなかった。
命じられて訪れた男を、娘が喜ぶとも思えない。
ただ、帝が自ら足を向けられるよう、障りとなるものを取り除くことはできる。
それが父親としての振る舞いなのか、藤原家の長としての策なのか。
雅継自身にも、もう区別はつかなかった。
「姫君へは、いかがいたしましょう」
「私が文を書く」
「かしこまりました」
家司が下がり、室内に静けさが戻る。
雅継は硯を引き寄せた。
筆を取ったものの、すぐには書かなかった。
昨夜のことには触れぬ方がよい。
大丈夫かと尋ねれば、娘は大丈夫だと答えるだろう。
幼い頃から、そういう娘だった。
転んで膝を擦りむいた時も、母を亡くした夜も、人前では泣かなかった。
誰に似たのかと考え、雅継は筆先を墨へ沈めた。
おそらく、自分なのだろう。
娘の身体を案じる言葉と、近日中に贈る衣について簡潔に書く。
そこまで記したところで、雅継の筆が止まった。
娘の傍らには、見慣れぬ女房がいる。
宮中の作法にも、身分の違いにも慣れていない。それでも、病に伏した娘のもとから逃げなかった女。
月夜の庭で、自分の素性も知らずに道を尋ねてきた女。
雅継は、新しい紙へ視線を移した。
紗良だけに文を送る理由はない。
娘の女房を、邸の主人が特別に気にかける必要もない。
宮中には、言葉をねじ曲げることに長けた者が多い。雅継から紗良へ直接文を送れば、それだけで余計な意味を持つ。
雅継は再び筆を動かした。
娘への文の末尾へ、ごく短い一文を書き添える。
――傍らの、月を追う女房にも伝えよ。宮中では道に迷うな、と。
書いてから、雅継はしばらくその一文を見つめた。
余計な言葉だった。
消そうと思えば、まだ間に合う。
だが雅継は紙を替えず、そのまま文を畳んだ。
「誰か」
呼ぶと、すぐに控えていた者が姿を現した。
「これを宮中へ」
文を渡したあと、雅継は積まれた政務の文へ手を伸ばした。
一通目を開き、目を通す。
二通目も同じように読む。
けれど、墨が乾く前の一文だけが、なぜか頭から離れなかった。
昼を過ぎた頃、家司が再び現れた。
「今宵のことでございますが」
雅継は文から目を上げなかった。
「何だ」
「三条の御方のもとへ、お渡りになるご予定はいかがいたしましょう。先日お届けした衣への礼が届いております」
雅継の筆が、わずかに止まった。
三条の御方のもとには、しばらく足を運んでいない。
必要な品は届けている。
子どもの暮らしにも、不自由がないよう取り計らっている。病や困り事があれば、すぐに知らせるようにも命じてある。
果たすべき務めを怠っているつもりはなかった。
しかし、それと彼女のもとへ通うことは、同じではない。
「今宵はよい」
「かしこまりました」
家司は理由を尋ねなかった。
雅継が三条の御方を迎えたのは、恋情からではない。
三条の御方は、亡き北の方の遠縁にあたる。
かつて宮中で、ある女御に仕えていた女房だった。人目を引く華やかさはないが、余計なことを口にせず、宮中の事情にも通じている。
雅継と北の方との間に跡継ぎへの不安が生じた頃、両家の均衡を崩さぬ相手として、三条の御方が選ばれた。
それだけのことだった。
雅継は元服する頃には、すでに北の方との婚姻を決められていた。
初めて対面するよりも前に、誰を妻とするかが決まっていた。
北の方は高位の公家の娘であり、藤原家にとって申し分のない縁だった。
二人の間に、初めから恋があったわけではない。
それでも年月を重ねるうち、互いへの敬意と穏やかな情は育った。
北の方は家を守り、娘を育て、雅継が政務に追われる間も、決して人前で不満を漏らさなかった。
亡くなって五年が過ぎても、彼女が好んだ香を焚く者はいない。
三条の御方との関係もまた、家のために決められたものだった。
彼女も、それを承知していた。
雅継の訪れを待っているとも、寂しいとも言わない。
以前、久しぶりに訪ねた時も、
「お忙しいところを、ありがとうございます」
と静かに頭を下げた。
夫を迎える女の言葉ではなく、後ろ盾となる者へ礼を述べるような言葉だった。
雅継には、それを責める資格はない。
彼自身が、三条の御方をその立場へ置いたのだから。
女との関わりは、雅継にとって常に家と政治の内にあった。
誰を妻とするか。
誰のもとへ通うか。
誰に子を産ませるか。
そこに雅継自身の望みが問われたことはない。
そして雅継もまた、問われぬことに慣れていた。
「三条の御方へ、何かお届けいたしましょうか」
退出しかけていた家司が尋ねた。
雅継は少し考えた。
「子どもへ、先日届いた絵巻を。三条の御方には、冬の衣を早めに用意せよ」
「承知いたしました」
家司が下がる。
雅継は再び文へ目を落とした。
務めは果たしている。
そう考えた瞬間、胸の内にわずかな苦さが残った。
夕刻、宮中から新たな使いが来た。
帝より娘へ文と贈り物が届けられ、今宵には局を訪れる意向が伝えられたという。
雅継は表情を変えず、
「そうか」
とだけ答えた。
家司たちは安堵した様子を見せたが、雅継はすぐに次の政務へ戻った。
娘の立場は、ひとまず守られる。
だが、今宵帝が訪れたからといって、その先まで約束されたわけではない。
宮中で生きるというのは、選ばれた一夜のあとも、次の訪れを待ち続けることなのだろう。
日が暮れてから、雅継は文机を離れた。
庭へ出ると、雲の切れ間に月が見えた。
満月には、まだ少し足りない。
以前、この庭で道に迷っていた女は、月を見上げながら歩いていた。
恐れもなく話しかけてきたかと思えば、自分が邸の主人だと知った翌日には、声も出せずに固まっていた。
思い出すと、口元がわずかに緩んだ。
雅継はすぐに笑みを消した。
紗良には、政治的な価値などない。
どの家の娘かも分からず、縁戚も後ろ盾もない。宮中へ連れていくことで、藤原家に利益をもたらす女でもない。
むしろ、余計な面倒を起こす可能性の方が高い。
それなのに、今頃どうしているのかと思う。
娘のそばで、宮中の暗い廊に迷ってはいないか。
読めぬ文を前に、分かったような顔をしてはいないか。
夜になれば、また月を追って歩き出すのではないか。
雅継は月から目を逸らした。
今まで、会う必要のない女に、会いたいと思ったことはなかった。
遠く宮中にいる紗良は今頃、自分が添えた一文を読んで、腹を立てているかもしれない。
その顔を見られないことを、少しだけ惜しいと思った。




