御簾の向こうで、待つということ
牛車というものは、外から眺めるぶんには優雅である。
ゆったりと進む車輪。
風に揺れる簾。
美しい装束をまとった女房たち。
絵巻の中で見れば、平安時代らしさ満点だ。
けれど、実際に乗ってみると話は違う。
「……揺れる」
紗良は小さく呟いた。
「何か申したか?」
向かいに座る姫が尋ねる。
「いえ。牛車とは、思っていたよりも力強く進むものなのだな、と」
物は言いようである。
実際には、尻が痛い。
車輪が石を踏むたびに車内が傾き、何度も壁に肩をぶつけそうになる。姫は慣れているのか、幾重にも重ねた衣を乱すことなく、静かに座っている。
同じ人間なのに、どうしてこれほど違うのだろう。
紗良は自分の膝の上に置いた手を見た。
藤原邸で過ごしたひと月の間に、装束の扱いには少し慣れた。歩くたびに裾を踏み、最初の頃は何度転びかけたか分からない。
それでも今日の衣は、普段よりずっと重い。
姫の入内に付き従う女房として、紗良にも新しい衣が用意された。淡い桜色の単に、落ち着いた色の袿を重ねている。
小夜と千代が何度も襟元や裾を整えてくれたおかげで、見た目だけなら、それらしくなっているはずだ。
中身は相変わらず、三十歳の看護師だけれど。
「紗良」
姫に呼ばれ、紗良は顔を上げた。
「はい」
「そのように固くならずともよい」
「姫さまこそ、お疲れではありませんか」
「まだ着いてもおらぬ」
「そうでした」
姫がわずかに笑う。
その笑みを見て、紗良も少しだけ肩の力を抜いた。
姫は朝から、ほとんど弱音を吐いていない。
藤原邸を出る時にも、泣かなかった。
見送る女房たちの中には袖で目元を押さえる者もいたが、姫は一人ひとりに穏やかな言葉をかけ、最後に父である雅継へ深く頭を下げた。
雅継もまた、娘を引き止めなかった。
ただ、
「身を大切にせよ」
と告げただけだった。
親子なのに、それだけなのかと紗良は思った。
けれど、雅継が去っていく牛車をいつまでも見送っていたことを、姫は知らない。
少なくとも、紗良にはそう見えた。
「紗良は、父上より何か言われたか」
不意に尋ねられ、紗良は瞬きをした。
「私が、ですか?」
「昨夜、父上の使いがそなたのもとを訪れたと聞いた」
情報が早い。
さすが藤原邸である。もう離れてしまったとはいえ、壁にも簾にも耳があるのではないかと思えてくる。
「宮中で姫さまのお側に仕える以上、慎みを忘れぬように、と」
紗良は、なるべく正確に答えた。
実際に雅継から届いた言葉は、それだけではなかった。
――己の目で見て、己で考えよ。
――ただし、見たものをすべて口にする必要はない。
紗良の性格をよく知っているような注意だった。
納得はできる。
できるけれど、少しだけ腹が立つ。
私だって、何でも思ったまま口に出しているわけではない。
そう言い返したかったが、使者を困らせるだけなのでやめた。
三条の御方に言われたことも、紗良は覚えている。
宮中では、言葉を今より少し慎んだ方がよい。
同じ忠告でも、三条の御方の言葉には、自ら痛みを知る人の静けさがあった。
だからこそ、胸に残っている。
「父上らしい」
姫はそう言ったきり、簾の向こうへ目を向けた。
都へ近づくにつれ、人の気配が増えていく。
車輪の音に混じって、馬の蹄や従者たちの声が聞こえた。簾の隙間から見えるのは、ごく限られた景色だけだ。
土の道。
行き交う人々の足元。
遠くに連なる屋根。
スマートフォンの地図なら、現在地を青い点で示してくれる。
けれど、紗良のバッグに入っているスマートフォンは、電源を切ったままだ。
ここがどこなのか。
宇治川からどのくらい離れたのか。
もう、確かめる方法はない。
やがて牛車の速度が緩み、外から声がかかった。
内裏へ着いたらしい。
紗良は無意識に背筋を伸ばした。
牛車を降りるだけなのに、大勢の視線を感じる。
実際には御簾や几帳に遮られ、誰が見ているのかも分からない。それでも、姿の見えない誰かに一挙一動を量られているようだった。
姫が先に進み、紗良たち女房がその後に続く。
渡殿を歩くたび、衣擦れの音が重なった。
藤原邸も十分に広かったが、ここはさらに入り組んでいる。
廊と廊が結ばれ、その先にまた御簾がある。庭には秋の草が植えられ、どこからともなく香が流れてきた。
華やかで、美しい。
けれど、明るい場所ではなかった。
昼間だというのに、御簾や几帳に遮られた室内は薄暗い。誰かがそこにいると分かっても、顔まではよく見えない。
声。
衣の色。
香り。
扇の動き。
ここでは、そのわずかなものだけで相手を知るのだ。
紗良が姫の後ろを歩いていると、御簾の向こうから女房たちの囁きが聞こえた。
「あれが、例の……」
「藤原殿の姫君に付き従ってきたという」
「見慣れぬ者ね」
紗良は聞こえないふりをした。
言い返したところで、何ひとつ良いことはない。
藤原邸へ来たばかりの自分なら、思わず振り返っていたかもしれない。けれど今は、前を歩く姫の裾だけを見て進んだ。
少しは成長したと思いたい。
姫に与えられた局へ着くと、女房たちはすぐに動き始めた。
運び込まれた文箱や装束を整え、几帳を立て、香炉を置く。誰がどこに控えるかも、すでに決められているらしい。
紗良も手伝おうとしたが、何をどこへ置くのか分からず、かえって邪魔になりそうだった。
千代が小声で教えてくれる。
「紗良さまは、こちらを」
渡されたのは、畳んだ衣だった。
「これは、どちらへ?」
「そちらの唐櫃へ」
指された方へ進もうとして、紗良は別の箱の前で立ち止まった。
「こちらですか?」
「その隣にございます」
「これ?」
「もう一つ、奥に」
箱が多い。
しかも、全部よく似ている。
ようやく正しい唐櫃へ衣を納めた時には、それだけで大仕事を終えたような気分になっていた。
「病人の処置より難しいかもしれない……」
思わず漏らすと、千代が口元を袖で隠した。
笑ったらしい。
少し離れた場所では、姫が年長の女房から宮中での呼ばれ方や作法について説明を受けていた。
これから姫は、以前のようにただ「姫さま」と呼ばれる存在ではなくなる。
帝に仕える一人の女御として、他の后妃たちと同じ宮中で暮らすのだ。
父の権力は、姫をここへ連れてくることはできる。
けれど、帝の心まで約束してくれるわけではない。
紗良は、整えられていく室内を見渡した。
華やかな衣。
高価な香。
磨かれた調度。
どれも美しいのに、なぜか息が詰まりそうだった。
夕刻になると、姫のもとへ次々と挨拶の文が届いた。
誰から届いたものなのか、紗良には半分も分からない。女房たちは差出人の名を聞くたびに顔を見合わせ、文に焚きしめられた香や紙の色まで確かめている。
文字だけではない。
紙も、香りも、季節の草花も、すべてが言葉なのだ。
「紗良、これは何と書いてあると思う」
姫が一通の文を差し出した。
紗良は慎重に受け取り、目を凝らした。
美しい。
美しいのだが、読めない。
流れるような文字が、どこからどこまで一文字なのかも分からない。
書道五段の面目が、宮中へ来た初日に崩れ去りそうである。
「たいへん……風情のある文かと」
「読めぬのだな」
「はい」
姫がくすりと笑った。
「そなたは、分からぬ時だけ言葉が美しくなる」
ひどい。
だが、否定できない。
その時、外から男の声が聞こえた。
「賀茂清景さまにございます」
紗良は顔を上げた。
清景は局の中へ入らず、簀子に控えた。御簾を隔てた向こうに、濃い色の衣をまとった姿が見える。
入内に伴う方違えや今後の物忌みについて、姫へ伝えるために来たらしい。
話を終えると、清景は少し間を置いた。
「それから、水のことですが」
紗良は思わず耳を澄ませた。
「こちらで用いる水は、しばらく決められた井より汲ませてください。今朝、別の井に濁りが見られました」
「穢れでございましょうか」
年長の女房が尋ねる。
「まだ分からぬ。ゆえに、分かるまでは使わぬ方がよい」
清景は、分からないことを分からないと言う。
何でも祟りや物の怪の仕業にしなくなったのは、少しだけ紗良の影響もあるのかもしれない。
「飲む水は、一度煮立ててから冷ました方がよいと思います」
紗良は御簾の内側から、控えめに付け加えた。
清景の沈黙が落ちる。
出過ぎたかと思ったが、やがて彼は、
「では、そのように」
と答えた。
年長の女房が戸惑う。
「すべての水を、でございますか」
「少なくとも、口へ入れるものは」
清景の声は淡々としていた。
「水の扱いは、この者の言葉に従え」
紗良だけが言えば、異国めいた習慣だと退けられたかもしれない。
けれど清景の一言で、女房たちはすぐに承知した。
ありがたい。
ありがたいけれど、少しだけ複雑である。
同じ内容なのに、陰陽師の肩書きがつくと通りが早い。
清景が帰ろうとした時、紗良は小声で呼び止めた。
「清景さま」
「何だ」
「昨夜は、ありがとうございました」
宇治から伸びてきた水の道を閉ざし、姫の荷を一つ残らず確かめたのは清景だった。
そのおかげで、紗良は今日ここまで来ることができた。
「あの女は、宇治へ戻ったのでしょうか」
「ひとまずはな」
「ひとまず……」
「今は姫君のことだけを考えよ。ここには、宇治とは異なるものが多すぎる」
脅すような口調ではなかった。
宮中に渦巻くものが、物の怪だけではないことを、清景は知っているのだろう。
「宮中では、病も災いも、人の心さえも、御簾の向こうへ隠される」
清景は低い声で続けた。
「見えぬからといって、ないものと思うな」
「分かりました」
「それと、勝手に一人で歩き回るな。ここは藤原邸よりも道が多い」
「雅継さまにも、同じことを言われました」
「ならば、よく聞いておけ」
清景はそれだけ告げると、立ち上がった。
衣擦れの音が遠ざかっていく。
紗良は小さく息を吐いた。
最高権力者と陰陽師の二人から、そろって迷子の心配をされている。
三十歳として、少し情けない。
夜が深くなると、局の中は静かになった。
女房たちは姫の衣を整え、香を焚き、いつ帝の使いが訪れてもよいように待っていた。
紗良も几帳のそばに控えていた。
何かをするわけではない。
ただ、待つ。
時計もない。
連絡もない。
来るのか、来ないのかさえ分からない。
現代なら、メッセージを一つ送れば済む。
遅れるのか。
今日は会えないのか。
いつ頃になるのか。
けれど、この時代では、足音一つを待つしかない。
廊を歩く気配がした。
女房たちの間に、わずかな緊張が走る。
紗良も背筋を伸ばした。
足音は近づいてきた。
けれど、姫の局の前で止まることなく、そのまま通り過ぎていった。
誰も何も言わない。
ただ、香炉から細い煙だけが立ち上っている。
紗良は姫を見た。
姫は扇を手にしたまま、うつむいていた。
その横顔には、悲しみも怒りも浮かんでいない。
少なくとも、紗良には読み取れなかった。
「今夜は、もうお休みになられますか」
年長の女房が静かに尋ねた。
姫はしばらく答えなかった。
やがて、扇の向こうから声がした。
「もう少しだけ、待ちます」
誰を、とは言わなかった。
けれど、姫が待っているのが帝であることは、この場の誰もが知っていた。
その言葉を聞いて、紗良は胸の奥が痛んだ。
待たなくてもよい、と言うことは簡単だ。
そんな男のために、と怒ることもできる。
けれど、それは姫の立場も、姫が背負ってここへ来たものも知らない者の言葉だ。
紗良は黙って、姫のそばへ座り直した。
励ます言葉も、慰める言葉も、今は必要ない気がした。
ただ一人で待たせないこと。
今の自分にできるのは、それだけだった。
夜は、静かに深くなっていく。
御簾の向こうを通る足音に、そのたび女房たちが耳を澄ませる。
そして紗良もまた、来るかどうか分からない人を待ちながら、初めて知った。
待つことは、何もしないことではない。
期待を捨てずにいることも。
失望を人に見せずにいることも。
決められた場所から逃げずに、朝を迎えることも。
きっと、この時代を生きる女たちの強さなのだ。
明け方近く、姫は扇を閉じた。
結局、その夜、帝は姫のもとを訪れなかった。
理由は、誰にも告げられなかった。
それでも姫は泣かず、静かに言った。
「明日の支度を」
女房たちは一斉に頭を下げた。
紗良もそれにならった。
床へ伏せた視線の先で、淡い朝の光が御簾を透かし始めていた。
宮中での最初の夜は、帝の訪れがないまま終わった。
けれど姫は、もう次の日を生きようとしている。
紗良はその背中を見つめながら、音を立てずに息を吐いた。
ここでは、見えないものほど重い。
病も。
人の心も。
そして、待つ者が言葉にしない痛みも。
紗良の知らない宮中の暮らしが、静かに始まった。




