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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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水面の子守歌

姫の入内までのひと月は、驚くほど早く過ぎていった。


朝になれば、手習い。


昼には、宮中での作法。


夕方には、小夜と千代を相手に、御簾越しの受け答えを繰り返した。


紗良は、ようやく簡単な文字なら読めるようになっていた。


自分の名。


姫。


月。


水。


人。


文。


同じ音の文字に、いくつもの形があることには、まだ納得できない。


それでも、以前のように紙を見た瞬間、すべてが模様に見えることはなくなった。


「こちらは?」


小夜が文字を指す。


「月」


「正解にございます」


「では、これは?」


「水」


「正解です」


「これは?」


紗良は目を細めた。


先ほどの『水』と似ても似つかない。


「……同じく、水」


「よくお分かりになりましたね」


「分かったというより、今の流れで予想したの」


「それでも正解にございます」


文字は少し進歩した。


衣にも慣れた。


普通に歩くだけなら、自分の裾を踏むこともほとんどなくなった。


ただし、急ぐと踏む。


振り返っても踏む。


雅継の使いが来た時にも、なぜか踏む。


「ここぞという時だけ駄目なの、どうにかならないかな」


紗良が呟くと、千代が笑った。


「紗良さまらしゅうございます」


「それ、褒めてないでしょう」


一方、和歌はまったく上達しなかった。


小夜から秋の気配を詠むように言われ、紗良は半刻ほど考えた末に、


秋が来て


朝晩少し


冷えました


衣を一枚


増やしてください


と書いた。


「これは歌ではなく、お願いにございます」


小夜に即座に却下された。


「伝えたいことは、分かりやすいでしょう」


「分かりやすければよいというものではございません」


「歌と用件を、別々に書けばいいのに」


「紗良さま」


小夜が深いため息をつく。


紗良の宮中行きを最も心配しているのは、小夜かもしれない。


入内の準備は、日が近づくほど慌ただしくなった。


衣や調度品が整えられ、文箱には必要な紙や筆が収められる。


香は混ざらないよう、一つずつ別の箱へ納められた。


三条の御方からも、女房がすぐに取り出せるよう仕切りをつけた箱や、衣をまとめるための紐が届いた。


文には、


「かつて手間取りましたゆえ」


とだけ添えられていた。


何に手間取ったのか、詳しくは書かれていない。


けれど、小夜たちには、その短い言葉で十分らしかった。


雅継の姿を、紗良は何度か遠くから見た。


いつも多くの男たちを従え、誰かと話しながら廊を進んでいた。


二人きりで言葉を交わす機会はなかった。


文も届かなかった。


入内の準備に関する命令は何度も届いたが、すべて姫や女房たちへ向けられたものだった。


紗良は時々、自分の文箱を開けた。


そこには、雅継から届いた二通の文がある。


月夜の道を詠んだ歌。


そして、


――ひとりならずとも、夜歩きは許さぬ。


――歌は、数だけは合っている。


と書かれた短い返事。


新しい文が来るはずもないのに、古い文を確かめる。


そのたび、自分でも何をしているのだろうと思った。


清景も、入内が近づくにつれて藤原邸を訪れることが増えた。


姫の部屋や宮中へ運び込む荷を一つずつ確かめ、札を置いていく。


「何かいる?」


紗良が尋ねても、清景は首を振るだけだった。


「今のところ、異変はない」


「『返して』と言っていた女は?」


「現れておらぬ」


「あれから、どこへ行ったんだろう」


「分からぬ」


「本当に分からないことが多いね、陰陽師って」


「そなたは、物の怪を何だと思っている」


「少なくとも、検査をすれば結果が数字で出るようなものではない」


「何の話だ」


「こっちの話」


清景は怪訝そうな顔をしながら、次の部屋へ向かった。


物の怪が姿を見せないまま、入内の前日を迎えた。


邸の中には、すでに旅立ちのような空気が満ちていた。


宮中へ運ぶ荷は一か所へ集められ、女房たちは最後の確認に追われている。


小夜と千代も、朝から部屋を出たり入ったりしていた。


夜になってようやく人の動きが落ち着くと、紗良は姫の部屋を訪ねた。


姫は一人、几帳のそばに座っていた。


「眠れませんか」


紗良が尋ねる。


「はい」


それ以上、何も言わなかった。


紗良は姫から少し離れたところへ座った。


無理に励ます言葉は思いつかなかった。


大丈夫。


きっと楽しい。


何も心配はいらない。


どれも、今の姫には軽すぎる気がした。


明日、この部屋を出れば、姫の暮らしは変わる。


父親の邸に守られていた少女ではなく、帝のもとへ入った藤原家の姫として見られるようになる。


簡単に帰ることはできないだろう。


「明日の夜には、ここではない場所にいるのですね」


姫が呟いた。


「そうですね」


「この部屋で眠るのも、今夜が最後です」


「寂しいですか」


「少し」


姫は部屋を見回した。


「母上が亡くなられた夜も、ここにおりました」


紗良は黙って聞いていた。


「人は悲しい時、これほど長く夜が続くものかと思いました。けれど朝は来て、母上のお姿はなくなっておりました」


姫の声は穏やかだった。


悲しみが消えたのではない。


五年という時間の中で、その記憶と共に生きることを覚えたのだろう。


「今夜も、朝は来ます」


姫が言った。


「はい」


「わたくしは、参ります」


紗良は頷いた。


「私も、一緒に行きます」


姫が僅かに笑う。


「今は、それだけで心強うございます」


風が御簾を揺らした。


月の光が、細い線になって部屋へ差し込む。


その光が、部屋の隅に置かれた水の器へ落ちた。


水面が白く光る。


紗良は、何となくそちらへ目を向けた。


風は止んでいる。


それなのに、水面が揺れていた。


小さな波紋が、器の中央から何度も広がっていく。


「姫さま」


紗良は声を落とした。


「何でしょう」


「そこから、動かないでください」


立ち上がろうとした姫が、その場で止まる。


紗良は水の器へ近づかなかった。


雅継との約束を思い出した。


物の怪の気配を感じても、一人で追わない。


「小夜」


廊の外へ向けて呼ぶ。


返事はない。


小夜も千代も、荷の確認へ行っているのだろう。


「誰かいませんか」


少し大きな声を出す。


その間にも、水面の揺れは強くなっていった。


月が映っていたはずの水に、別の景色が浮かび上がる。


夕暮れの空。


深い霧。


流れる川。


宇治川だった。


紗良は息を呑んだ。


水面の中に、一人の女が立っている。


長い髪が濡れ、顔の半分を覆っていた。


忘れられるはずのない女だった。


女の腕は、胸の前でゆっくりと動いている。


何かを抱いているような形だった。


けれど、腕の中には何もない。


空っぽだった。


見えない何かをあやすように、身体を僅かに揺らしている。


どこからか、細い歌声が聞こえた。


言葉は分からない。


同じ短い節を、何度も繰り返している。


子どもを眠らせる時の歌のように聞こえた。


「紗良」


姫の声が震える。


「見えるんですか」


「女の方が……」


今度は姫にも見えている。


紗良は水の器から目を離さず、廊へ向かって再び声を上げた。


「誰か、清景を呼んで!」


遠くで、女房の返事が聞こえた。


人が走り出す気配がする。


紗良は姫のそばへ戻った。


追わない。


触れない。


何があっても、今は姫から離れない。


水面の女が、ゆっくり顔を上げる。


濡れた髪の隙間から、二つの目が紗良を見た。


「――返して」


低い声が、部屋へ響く。


女の両腕が強く閉じられる。


何もない空間を、決して奪われまいと抱き締めるように。


「何を……」


尋ねかけて、紗良は言葉を止めた。


女は答えない。


空の腕を抱いたまま、もう一度呟く。


「返して」


水面が大きく波打った。


器から水が溢れ、床へ落ちる。


灯りの炎が細く揺れた。


その時、廊の向こうから足音が近づいてきた。


「紗良!」


清景の声だった。


「ここ!」


清景が部屋へ入る。


小夜と千代、その後ろには陰陽寮の者たちもいる。


清景は水の器を見ると、すぐに懐から札を取り出した。


「姫を、部屋の奥へ」


小夜と千代が姫のそばへ寄る。


紗良も一緒に下がった。


「清景、宇治川が見える」


「見えている」


清景は短く答えた。


水面に映る女が、空の腕を揺らし続けている。


細い子守歌が、部屋の中を満たしていく。


「清景」


紗良が呼ぶ。


「今は話しかけるな」


清景の声が鋭くなる。


彼は水の器を囲むように、四方へ札を置いた。


陰陽寮の者たちも、それぞれ決められた場所へ座る。


清景が低い声で呪を唱え始めた。


その場の空気が変わった。


風が止まり、虫の声まで聞こえなくなる。


水面の女が顔を上げた。


「返して」


先ほどより強い声だった。


水が器の中で渦を巻く。


「ここに、そなたの求めるものはない」


清景が言った。


女の顔が歪む。


「返して!」


叫びと共に、灯りが一斉に消えた。


姫が息を呑み、紗良の袖をつかむ。


暗闇の中で、清景の声だけが続いている。


床に置かれた札が、一枚ずつ淡く光り始めた。


四つの光が水の器を囲む。


水面に映る宇治川が、大きく揺れた。


女の姿が伸び、清景へ手を伸ばす。


清景は動かなかった。


「そなたが来た道は、この水ではない」


清景の声が、さらに低くなる。


「川へ戻れ」


女が首を振る。


濡れた髪が広がり、水面を覆っていく。


「返して」


「今宵、ここで求めても戻らぬ」


「返して!」


水が柱のように立ち上がった。


小夜と千代が姫を庇う。


紗良も身体を強張らせたが、その場から動かなかった。


清景が札を一枚、水面へ放つ。


札は水へ触れることなく、青白い火に包まれた。


火は女の姿へ移り、濡れた髪の輪郭を淡く照らす。


女は、空の腕を胸へ抱き締めた。


怒りに歪んでいた顔が、一瞬だけ変わる。


深い悲しみ。


何かを失ったまま、長い間探し続けている顔だった。


細い子守歌が、再び聞こえた。


今度は叫びではない。


誰かを眠らせるような、静かな声だった。


清景が最後の呪を唱える。


「来た道へ帰れ」


青白い火が、水面へ沈んだ。


女の姿が崩れる。


夕暮れの宇治川も、深い霧も、波紋の中へ吸い込まれていく。


女は最後まで、何もない腕を抱いていた。


「――返して」


その声を残し、水面は元の静けさへ戻った。


部屋の灯りが、一つずつ再びともされる。


清景は水の器の前へ座ったまま、しばらく動かなかった。


額に汗が浮かんでいる。


「清景」


紗良が声をかける。


「もう大丈夫なの?」


清景は大きく息を吐いた。


「この邸へ通じた道は閉じた」


「祓ったの?」


「いや」


清景は静かな水面を見つめる。


「宇治へ押し戻しただけだ」


姫の顔に不安が浮かぶ。


「宮中へ、ついてくることはありませんか」


「今宵と同じ道は使えぬ。荷にも、姫にも、物の怪の気配はない」


清景は立ち上がった。


僅かによろめいたが、すぐに姿勢を戻す。


「入内の品は、夜明けまでにもう一度すべて清める。宮中へ持ち込ませはせぬ」


声には、いつもの迷いがなかった。


陰陽寮の者たちが荷の置かれた部屋へ向かう。


清景も続こうとする。


「待って」


紗良は呼び止めた。


「何だ」


「さっきは、ありがとう」


清景が紗良を見る。


「物の怪を祓うのは、陰陽師の役目だ」


「でも、頑張ったでしょう」


「子ども扱いするな」


「褒めてるのに」


「不要だ」


清景は不機嫌そうに背を向けた。


それでも、歩き出す前に一度だけ姫を振り返る。


「今宵は、もう水の器を置くな。夜が明けるまでは、誰かを必ずそばにつけよ」


「分かりました」


紗良が答えると、清景は廊の向こうへ去っていった。


その後、夜が明けるまで異変は起きなかった。


清景と陰陽寮の者たちは、宮中へ運ぶすべての荷を清めた。


どの箱からも、物の怪の気配は見つからなかった。


やがて東の空が白み始める。


入内の朝が来た。


姫は新しい衣をまとい、女房たちに囲まれて部屋を出る。


紗良も、小夜と千代のあとへ続いた。


廊の先では、清景が柱にもたれて立っていた。


一睡もしていないはずだ。


「清景」


紗良が呼ぶと、彼は目だけをこちらへ向けた。


「もう、宮中へ行って大丈夫なんだよね」


「ああ」


「本当に?」


「疑うなら、そなた一人ここへ残れ」


「それは嫌」


清景は小さく息を吐いた。


「宮中には、私も出入りする。何かあれば、勝手に動く前に知らせろ」


「分かってる」


「そなたの『分かっている』は信用ならぬ」


いつもの清景だった。


紗良は少し笑った。


姫の牛車が動き始める。


藤原邸の門が開く。


物の怪は、宇治へ押し戻された。


清景が、宮中へ続く道を守ってくれた。


それでも紗良の耳には、あの子守歌が残っていた。


空の腕で、女は何を抱こうとしていたのか。


何を、返してほしいのか。


まだ誰にも分からない。


紗良は一度だけ、遠い宇治の方角を振り返った。


それから、姫と共に宮中へ向かった。

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