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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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14/35

入内の日が決まりました

朝から、邸の中が騒がしかった。


廊を何人もの女房が行き交い、いつもは閉じられている文箱が次々に運び出されている。


男たちの低い声も、遠くから聞こえてきた。


「何かあったの?」


紗良が尋ねても、小夜は足を止めなかった。


「ただいま、宮中より使いの方がお越しになっております」


「宮中から?」


「姫さまの入内についてのお知らせにございます」


小夜の表情が硬い。


千代も、いつもの笑顔を見せなかった。


紗良はそれ以上尋ねず、二人のあとを追った。


姫の部屋へ入ると、すでに何人もの女房が控えていた。


姫は御簾の内側で、一通の文を手にしている。


姿勢はいつもと変わらない。


けれど、紙の端を持つ指先が、僅かに震えていた。


紗良は気づいたが、声をかけなかった。


周りには大勢の人がいる。


今ここで「大丈夫ですか」と聞けば、姫は大丈夫だと答えるしかないだろう。


紗良は少し離れた場所へ座った。


やがて、年嵩の女房が文を読み上げた。


姫の入内は、ひと月ほど先に決まったという。


日取りが告げられた瞬間、部屋の空気が大きく動いた。


女房たちは互いに顔を見合わせ、すぐに準備の話を始める。


衣の仕立て。


宮中へ運ぶ調度品。


同行する女房。


牛車。


文や香。


誰に何を任せるのか。


予定だったものが、突然、動かせない現実になった。


「ひと月……」


紗良の隣で、千代が小さく呟いた。


「そんなに急なの?」


「入内のお話は、以前より進められておりました」


小夜が答える。


「日取りが正式に決まったのでございます」


姫は何も言わない。


読み終えた文を膝の上へ置き、女房たちの話を聞いている。


少し前まで熱を出して寝込んでいた少女が、ひと月後には帝の住む宮中へ入る。


それが、父親である雅継の望みでもある。


姫自身も、逃げたくはないと言っていた。


けれど、覚悟を決めたからといって、怖さまで消えるわけではない。


紗良は黙って姫を見ていた。


しばらくすると、廊の向こうから声が聞こえた。


女房たちが一斉に姿勢を正す。


雅継が来たのだ。


紗良も小夜に倣い、頭を下げた。


雅継は姫のいる御簾の外側へ座った。


その後ろには、数人の男たちが控えている。


月夜に一人で立っていた時とも、紗良へ短い文を送ってきた時とも違う。


今の雅継は、この家と国の行く先を決める男だった。


「日取りは、先ほど伝えられたとおりだ」


雅継の声が部屋へ響く。


「残された時は多くない。滞りのないよう整えよ」


女房たちが頭を下げる。


雅継は、衣を仕立てる者、品々を運ぶ者、宮中との連絡を担う者を次々に決めていく。


迷いはない。


誰が何をできるのか、すべて把握しているようだった。


姫の入内が、少しずつ大きな政治の動きへ変わっていく。


「姫に伴う女房については、これまで仕えてきた者を中心とする」


雅継が言った。


幾人かの女房の名が挙げられる。


小夜の名もあった。


小夜は深く頭を下げた。


千代の名も呼ばれる。


千代の肩が僅かに揺れたが、同じように頭を下げる。


紗良の名は呼ばれなかった。


予想はしていた。


文字も読めず、宮中の作法も知らない。


どこから来たかも説明できない。


そんな人間を、帝のいる場所へ連れていけるはずがない。


姫が御簾の内側で顔を上げた。


「父上」


雅継が言葉を止める。


「何だ」


「紗良も、お連れしたく存じます」


女房たちの間に、微かな緊張が走った。


雅継はすぐには答えなかった。


御簾越しに、姫の姿を見ているのだろう。


「許さぬ」


短い言葉だった。


姫の指が、膝の上で強く結ばれる。


「なぜにございますか」


「素性の明らかでない者を、宮中へ入れることはできぬ」


「紗良は、わたくしを助けてくれました」


「それと、宮中へ上げることは別だ」


雅継の声は変わらない。


冷たいように聞こえる。


だが、理由は分かった。


紗良が怪しいのは事実だ。


見慣れない衣をまとい、川のそばで倒れていた。


この時代の文字を読めず、誰も知らない言葉を使う。


しかも清景から、「この世の者ではない」とまで言われている。


最高権力者の娘と共に宮中へ入れるには、危険が多すぎる。


紗良は口を挟まなかった。


以前の自分なら、すぐに反論していたかもしれない。


姫が望んでいる。


自分は危険な人間ではない。


宮中へ連れていってほしい。


そう訴えただろう。


けれど、これは姫の入内だ。


紗良が自分の必要性を訴える場面ではない。


「父上」


姫はもう一度呼んだ。


先ほどより、声がはっきりしている。


「紗良を連れていくことは、わたくしが望んだことです」


「望むものを、すべて宮中へ持ち込めるわけではない」


「分かっております」


「ならば」


「それでも、紗良にそばにいてほしいのです」


姫の言葉に、部屋が静まった。


女房たちは誰も顔を上げない。


紗良だけが、御簾の向こうにいる姫を見ていた。


怖くても、自分の役目からは逃げない。


そう言った少女が今、自分の望みを父親へ伝えている。


大きな声ではない。


雅継へ逆らおうとしているわけでもない。


それでも、姫は引かなかった。


「理由を申せ」


雅継が言った。


姫は少し黙った。


「紗良は、わたくしを姫としてではなく、一人の人として見てくれます」


その言葉が、紗良の胸へ落ちた。


「宮中へ上がれば、皆がわたくしの後ろに父上を見るでしょう。藤原家の娘として、帝のもとへ参る者として接するでしょう」


姫の声は僅かに震えていた。


「その中で、わたくしが苦しい時に、苦しいと言える相手を一人、そばに置きたいのです」


雅継から、すぐに返事はなかった。


廊の外から、風が木々を揺らす音が聞こえる。


長い沈黙のあと、雅継が紗良を呼んだ。


「紗良」


「はい」


紗良は頭を下げたまま答えた。


「そなたは、どう考えている」


「まだ、宮中がどのような場所かも分かりません」


正直に言った。


「姫さまを必ず守るとも、何があっても助けるとも言えません」


御簾の内側で、姫が僅かに動く。


「それでも、姫がそなたを望むならば、ついていくのか」


紗良は少し考えた。


姫に求められたから。


この邸にほかの居場所がないから。


雅継の近くにいられるから。


どの理由も、今は決め手にしてはいけないと思った。


「姫さまご自身が、私を必要だと思ってくださるなら」


紗良は答えた。


「そのお気持ちには、応えたいです」


雅継は黙っている。


「でも、分からないことを分からないままにはしたくありません。入内までに、私にできるだけのことは学びます」


立派な約束ではない。


一か月で、平安の文字や作法をすべて身につけることなど不可能だ。


それでも、何も知らないまま姫のそばに立つよりはよい。


「今日は、随分と静かだな」


雅継が言った。


紗良は僅かに顔を上げた。


御簾や几帳に隔てられ、雅継の表情は見えない。


「言わない方がいいこともあると、少し分かってきました」


「誰に教わった」


一瞬、三条の御方の姿が浮かんだ。


必要なことだけを語り、雅継に会えなくても何も望まずに帰っていった女性。


「いろいろな人を見て、です」


紗良は答えた。


雅継は、それ以上尋ねなかった。


「入内までに、最低限の文字と作法を覚えよ」


「はい」


「宮中では、姫の許しなく勝手に動くな」


「はい」


「物の怪の気配を感じても、一人で追うな」


「一人ではなくても、ですか」


口にした瞬間、小夜が紗良の袖を引いた。


しまった。


雅継の声が少し低くなる。


「一人でなくとも、だ」


「……はい」


完全に黙っていることは、まだ難しかった。


「清景にも、姫の入内に合わせて宮中へ出入りするよう命じる」


紗良は少し安心した。


清景がいれば、怪異が起きても一人で向き合わずに済む。


口は悪いが、今の紗良がこの時代で最も頼れる相手の一人だった。


「条件を守れるのであれば、姫に伴うことを許す」


姫が小さく息を吐いた。


小夜と千代の表情も和らぐ。


「ありがとうございます、父上」


姫が頭を下げる。


紗良も続いた。


「ありがとうございます」


雅継はそれ以上何も言わず、次の指示へ移った。


同行する女房。


運び込む品。


宮中で姫に仕える者たち。


話は淡々と進んでいく。


けれど紗良の中では、何かが大きく変わっていた。


自分も、宮中へ行く。


物語の中でしか知らなかった場所へ。


姫と共に。


雅継の娘を支える女房として。


雅継が部屋を出たあと、小夜と千代が紗良のそばへ寄ってきた。


「よろしゅうございました」


千代が嬉しそうに言う。


「まだ、行ってないけどね」


「これからお支度ができます」


小夜も、いつもより柔らかな顔をしている。


「明日より、手習いのお時間を増やしましょう」


「増やすの?」


「ひと月しかございません」


「朝夕二回でも多いと思ってたんだけど」


「昼にも行いましょう」


「勤務時間内に研修を入れてください」


「きんむじかん?」


また最初から説明しなければならない。


姫が御簾の内側で笑っている。


紗良もつられて笑った。


それでも、胸の奥には小さな不安が残っていた。


その夜。


紗良は部屋で一人、バッグからスマートフォンを取り出した。


電源は入れなかった。


黒い画面に、自分の顔が薄く映っている。


この中には、現代の暮らしが残っている。


家族。


友人。


仕事。


帰るはずだった家。


紗良は今も、現代へ戻りたいと思っている。


その気持ちは変わっていない。


けれど、この時代にも、紗良を待つ人ができ始めていた。


姫。


小夜と千代。


萩。


口の悪い清景。


そして、月の下で出会った雅継。


宮中へ行けば、さらに遠くへ進むことになる。


宇治川へ戻る道も、現代へ帰る方法も分からないまま。


紗良は、電源を切ったままのスマートフォンを両手で包んだ。


「私、このまま宮中まで行って、本当に帰れるのだろうか」


答えはない。


黒い画面の向こうで、現代が少しずつ遠ざかっていくように思えた。

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