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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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三条の御方

「本日、三条の御方さまがお越しになります」


朝、小夜から告げられた瞬間、紗良の筆が止まった。


紙の上には、同じ文字が二十ほど並んでいる。


ようやく、見本を見なくても書けるようになってきたところだった。


「姫さまがお招きになったの?」


「はい。昨日のお品へのお礼と、入内についてお尋ねになりたいことがおありなのでしょう」


三条の御方。


雅継が今も時折通う女性。


もとは公家の姫君に仕える女房で、宮中へ上がった経験がある。


雅継との間には、子どももいる。


昨日届いた実用的な品々と、小さく読みやすい文字を思い出す。


「私も、その場にいるの?」


「姫さまは、そのおつもりです」


「分かりました」


紗良はそれ以上尋ねず、筆を置いた。


立ち上がろうとすると、小夜に止められる。


「お待ちくださいませ」


「何?」


「お召し物を整えます」


「これでは駄目?」


紗良は自分の衣を見る。


淡い青に白を重ねた、気に入っている組み合わせだった。


「御衣ではなく、座り方と御髪にございます」


「髪は今日一日では伸びないからね」


「承知しております」


「では、座り方?」


「言葉遣いも、お気をつけくださいませ」


小夜の声には、いつも以上の真剣さがあった。


「はい。今日は、聞かれたことだけ答えます」


「ぜひ、そのようになさってください」


すぐに返された。


やはり自分は、それほど信用されていないらしい。


昼前、三条の御方を乗せた牛車が邸へ到着した。


大勢の従者を伴った、華やかな訪れではなかった。


牛車を降りた三条の御方は、数人の女房に付き添われ、静かに姫の部屋へ入ってきた。


紗良が想像していたより、小柄な女性だった。


年齢は、紗良より幾つか上だろうか。


衣は落ち着いた藤色で、重ね方も控えめだった。


華やかではない。


けれど、衣の端まで乱れがなく、身につけるものをよく選んでいることは、平安の装いに疎い紗良にも分かった。


三条の御方は、姫に対して深く頭を下げた。


「このたびは御快復、心よりお喜び申し上げます」


声は小さく、柔らかかった。


「お品をありがとうございました」


姫が答える。


「どれも、わたくしたちには思いつかぬものばかりでした」


「古い経験にございます。姫さまのお役に立つものが、一つでもございましたなら」


三条の御方は、それ以上言葉を重ねなかった。


姫の前に座っても、自分から話題を広げることはない。


尋ねられたことへ、短く答える。


笑う時も、僅かに目元を緩めるだけだった。


紗良は少し離れたところへ座り、二人の会話を聞いていた。


昨日の品々から、もっと活発で、何でも自分で決める女性を想像していた。


しかし目の前にいる三条の御方は、自分の知識や経験を見せようとはしない。


「この文箱について、伺ってもよろしいですか」


姫が尋ねた。


「なぜ、紐がついているのです?」


「宮中では、お部屋を移ることもございますので」


三条の御方が答える。


「女房が、すぐにお持ちできる方がよろしいかと存じました」


「香の器に印があるのは?」


「夜、取り違えませぬように」


一つひとつは、小さな工夫だった。


宮中で実際に困った経験がなければ、思いつかないものばかりだ。


三条の御方は、それを自慢する様子もなく説明していく。


「宮中の夜は、暗いのでしょうか」


姫が尋ねる。


「灯りはございます。けれど、風の強い夜には消えることもございます」


「冬は?」


「渡殿が、ことのほか冷えます。御衣は多めにお持ちになられた方がよろしいでしょう」


華やかな宮中の話ではなかった。


暗さ。


寒さ。


物を運ぶこと。


必要なものを取り違えないこと。


かつて女房だった三条の御方が見ているのは、外からは分からない暮らしの細部だった。


「宮中では、どのような女房をそばに置けばよいのでしょう」


姫が尋ねた。


三条の御方は少し考えた。


「姫さまが、よくご存じの方を」


「歌や楽に優れた女房も必要ですか」


「おられた方が、よろしいかと存じます」


「ほかには?」


僅かな沈黙のあと、三条の御方は答えた。


「口の堅い方を」


その時だけ、声が少し低くなった。


「宮中では、些細な言葉が、思わぬ形で広がることがございます」


姫の顔に、僅かな緊張が浮かぶ。


「女房が申したことも、わたくしの言葉になるのでしょうか」


「そのように受け取られることもございます」


三条の御方は、それ以上怖がらせるようなことを言わなかった。


ただ、膝の上で重ねた指先が、僅かに強く結ばれていた。


この人も、言葉によって何かを失ったことがあるのかもしれない。


そう思ったが、紗良は尋ねなかった。


やがて姫が、紗良を三条の御方へ紹介した。


「こちらは、紗良です。病に伏した折、わたくしのそばにいてくれました」


「水城紗良です」


紗良は教えられたとおり、ゆっくり頭を下げた。


袖も踏まず、裾も乱さなかった。


「遠いところから、こちらへ参りました。まだ分からないことばかりですが、姫さまのおそばに置いていただいております」


三条の御方の視線が、紗良の短い髪へ移る。


驚いたようだった。


けれど、それについて尋ねることはなかった。


「こちらの御方が」


小さく呟き、三条の御方も頭を下げた。


姫が続ける。


「入内の折には、紗良にも共に参ってほしいと思っています」


三条の御方の顔に、初めてはっきりとした戸惑いが現れた。


「こちらの御方も、宮中へ」


「はい」


「さようでございますか」


反対も賛成もしなかった。


ただ、紗良をもう一度見た。


その視線には、値踏みするような強さはない。


どう言えばよいのか迷っているように見えた。


しばらくして、三条の御方が静かに口を開いた。


「宮中では……お言葉を、今より少しお慎みになられた方がよろしいかと存じます」


小夜が僅かに俯く。


おそらく、三条の御方へ何か伝わっているのだ。


雅継を道案内の人と呼んだこと。


清景と言い争っていること。


夜の邸を歩き、東の倉まで行ったこと。


思い当たることが多すぎた。


「はい」


紗良は素直に答えた。


「私も、そう思っています」


三条の御方は、少し意外そうな顔をした。


反論されると思っていたのかもしれない。


「以前、思うままを口にして、宮中を下がった女房がおりました」


それだけを、小さな声で言った。


誰のことなのか。


何を口にしたのか。


三条の御方は語らない。


紗良も聞かなかった。


「覚えておきます」


「出すぎたことを申しました」


三条の御方が頭を下げる。


「いいえ。教えていただいて、ありがとうございます」


二人の会話は、それで終わった。


三条の御方は、紗良へ文字や作法を教えようとはしなかった。


宮中へ行くべきとも、行くべきではないとも言わない。


自分の知っていることを、必要な分だけ置いていく。


それが、この女性の身につけた振る舞いなのだろう。


一通り話を終えると、姫は改めて礼を言った。


「入内の前に、またお話を聞かせてください」


「わたくしでお役に立つことがございましたなら」


「三条の御方も、共に宮中へ来てくださればよいのに」


姫がそう言うと、三条の御方は僅かに微笑んだ。


「わたくしは、こちらより、姫さまの御幸せをお祈りしております」


来られないのか。


来たくないのか。


その言葉だけでは分からなかった。


三条の御方が帰る支度を始めた頃、雅継の使いが訪れた。


部屋の空気が僅かに変わる。


使いは三条の御方の前で頭を下げた。


「雅継さまより、本日のお品への御礼を申し上げるようにとの仰せにございます」


三条の御方も、深く頭を下げる。


「もったいなき御言葉にございます」


「本日は政務のため、お目にはかかれぬとのことです」


ほんの一瞬。


三条の御方の指が、衣の端をつまんだ。


「承知いたしました」


声は変わらなかった。


残念だとも、会いたかったとも言わない。


すぐに手を離し、何事もなかったように立ち上がる。


紗良は黙って、その仕草を見ていた。


三条の御方は、姫へ入内の品を届けるために来た。


雅継に会うためではない。


少なくとも、口にした目的はそうだった。


それでも、使いの言葉を聞いた一瞬だけ動いた指先が、紗良の目に残った。


牛車まで見送るため、紗良も廊へ出た。


三条の御方は、最後まで静かだった。


女房たちに手を借り、牛車へ乗る。


紗良は少し離れたところから、頭を下げた。


「本日は、ありがとうございました」


三条の御方がこちらを見る。


「姫さまを、よろしくお願いいたします」


「はい」


それ以上、言葉は交わさなかった。


御簾が下ろされる。


牛車がゆっくりと動き始めた。


三条の御方は、雅継がいるはずの邸の奥を、一度も振り返らなかった。


車輪の音が遠ざかる。


紗良は、その姿が見えなくなるまで立っていた。


昨夜、雅継からの返事が届くまで、自分は何度も廊を見た。


たった一日だった。


返事を待っているとも認められないまま、それでも人の足音がするたび、胸が動いた。


三条の御方は、いつ訪れるか分からない雅継を、別の邸で待つ。


会えなくても、自分から会いたいとは言わない。


言えないのかもしれない。


けれど、それを紗良が勝手に哀れむことも違う気がした。


三条の御方は、与えられた立場の中で、自分と子どもの暮らしを守っている。


目立たない品を選び、言葉を控え、必要なことだけを伝える。


弱い女性には見えなかった。


ただ、その強さは、姫や紗良とは違う形をしていた。


「紗良さま」


小夜に呼ばれ、紗良は振り返った。


「姫さまがお呼びです」


「今、行きます」


廊を戻りながら、紗良は雅継から届いた文を思い出した。


それは部屋の文箱にしまってある。


嬉しかった気持ちは消えていない。


けれど、文の向こうにいるのは、自分だけを待つ男ではない。


雅継には、積み重ねてきた時間がある。


守るべき家も、人も、子どももいる。


紗良はまだ、その世界のほんの一部しか知らない。


秋の近い風が、誰もいなくなった車宿の前を静かに吹き抜けていった。

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