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京都で見つけた千年前の恋文――それを書いたのは、これから私が恋をする関白さまでした  作者: EMo


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もう一人の御方

翌朝になっても、雅継からの返事は届かなかった。


「別に、いいんだけど」


紗良は紙の上へ筆を置いた。


今日は『か』を習っている。


昨日の『あ』と同じく、見本によって形が違う。


一つ覚えるたびに、新しい形が二つも三つも現れる。


「こちらを、もう一度お書きくださいませ」


小夜が手本を指す。


紗良は筆を動かした。


線の形を写すだけなら難しくない。


むしろ、筆を持っている間は心が静かになった。


墨の匂い。


紙の上を毛先が滑る感触。


余分な力を抜き、呼吸を整える。


昔、近所の書道教室で何度も繰り返した動作だった。


稽古が終われば、お菓子がもらえた。


九年間も通い続けた理由としては、あまり立派ではない。


けれど、墨の前に座る時間を嫌いではなかった。


「お美しいです」


千代が感心したように言う。


「意味は分かってないけどね」


「形から覚えることも大切にございます」


「これを百回書けば、覚えられるかな」


「では、百回お書きになりますか」


「今のは例え」


小夜が本当に紙を用意しようとしたので、紗良は慌てて止めた。


廊を誰かが通る。


紗良は無意識に顔を上げた。


歩いていたのは、食事を運ぶ女房だった。


「昨日から、廊ばかり気になさっておりますね」


千代が言う。


「人の出入りを見てるだけ」


「雅継さまからのお返事を、お待ちなのではございませんか」


「待ってない」


「そうでございますか」


千代の口元が僅かに緩む。


「何、その顔」


「何でもございません」


「笑ってるでしょう」


「笑っておりません」


この時代の女房は、御簾の陰から人の気配を読むことに慣れている。


紗良が誤魔化したところで、きっと通用しないのだろう。


「そもそも、返事が来ると思ってないから」


「では、なぜ何度も廊をご覧になるのですか」


「そろそろ姫さまのところへ行こうかなと思って」


「先ほど、お休みになったばかりでございます」


「では、萩のところへ」


「萩は昨夜もお休みになれたそうです」


「清景は?」


「陰陽寮へお戻りになりました」


行く場所がない。


紗良は諦めて、再び手本へ目を落とした。


「『か』を百回書きます」


「例えではなかったのですか」


「今、決めたの」


五十回を過ぎた頃、邸の空気が慌ただしくなった。


外から牛車が到着したらしい。


人の声と、荷を運ぶ音が聞こえる。


「何か届いたの?」


紗良が尋ねると、小夜が立ち上がった。


「入内のためのお品でございましょう」


「また?」


先日も、衣や文箱、香の器がいくつも運び込まれたばかりだ。


「必要なものが、そんなにあるの?」


「姫さまの一生を左右する大切な入内にございます。どれほど整えても、整えすぎるということはございません」


宮中へ引っ越す程度に考えてはいけないらしい。


紗良は筆を置き、小夜たちと共に姫の部屋へ向かった。


廊には、いくつかの箱が並べられていた。


先日届いた華やかな品々とは、少し様子が違う。


丈夫そうな文箱。


何本もの筆。


紙を押さえるための小さな重し。


香を移すための器。


衣を整える時に使うらしい紐や、小さな道具。


目を奪うような豪華さはない。


けれど、どれも実際に使うことを考えて選ばれているように見えた。


姫の前には、一通の文が置かれていた。


「父上からですか?」


紗良が尋ねると、姫は首を振った。


「いいえ。三条の御方からです」


「三条の御方?」


初めて聞く呼び名だった。


小夜と千代が、僅かに姿勢を正す。


「どなたですか」


紗良が小声で尋ねると、小夜はすぐには答えなかった。


姫が文へ目を落としたまま口を開く。


「父上が、今も時折お通いになる御方です」


紗良は意味をつかみかねた。


「通う?」


「別のお邸にお暮らしで、雅継さまとの間にお子もいらっしゃいます」


小夜が補う。


そこで、ようやく分かった。


「雅継さまの……奥さま?」


小夜は困ったように眉を寄せた。


「おくさま、という言葉の意味は存じませんが、北の方さまと同じではございません」


「北の方?」


「姫さまの母上であられた御方です」


姫が静かに続ける。


「母上は、高い御家柄の姫君でした。父上の北の方として、この邸におられましたが、五年前に亡くなられました」


紗良は姫を見た。


母親が亡くなったのは、姫が十二、三歳の頃になる。


入内を控えた今、相談したいことも多いだろう。


「三条の御方は、もとはある公家の姫君に仕えていた女房です」


小夜が声を落として説明する。


「宮中へ上がったこともあり、宮仕えのことをよくご存じです。その後、雅継さまがお通いになるようになり、お子をもうけられました」


「では、今も雅継さまは、そのお邸へ?」


「時折は」


小夜の答えは短かった。


紗良は、もう一度届いた品々へ目を向けた。


雅継が今も通う女性。


その女性との間には子どももいる。


現代の言葉で何と呼べばよいのか、紗良には分からなかった。


妻。


恋人。


もう一つの家族。


どの言葉も、少しずつ違う気がする。


「三条の御方は、姫さまと仲がいいんですか」


「紗良」


姫の声が少し硬くなった。


「ごめんなさい。聞き方が悪かったです」


姫と三条の御方の関係を、仲がよいか悪いかだけで測ることはできないのだろう。


亡くなった母とは別の女性。


父親が今も通う相手。


その女性との間には、別の子どももいる。


単純な気持ちではいられないはずだ。


「三条の御方は、折々に宮中のことを知らせてくださいます」


姫が答えた。


「母上が亡くなられてからは、こうして必要な品を送ってくださることもあります」


「この品も、その方が選んだんですか」


「かつてご自分が宮仕えをなさった折、役に立ったものだそうです」


姫は文を開き、ゆっくり読んでいく。


「何て書いてあるんですか」


「華やかな品は、すでに多くお持ちでしょうから、自分が使って便利だったものをお送りした、と」


紗良は、もう一度箱の中を覗いた。


文箱には、持ち運びやすいよう細い紐がついている。


紙を押さえる重しも、大きすぎず、女房が扱いやすそうだった。


香の器には、中身が分かるよう印がつけられている。


見せるための品ではない。


使う人が困らないように選ばれたものだ。


「ずいぶん実用的な方なんですね」


姫は僅かに頷いた。


「母上とは、異なる御方です」


その言葉には、褒める響きも、貶す響きもなかった。


ただ、違う。


姫はその違いを、長い間見てきたのだろう。


「文の最後に、こうあります」


姫が続ける。


「わたくしごときの経験ではございますが、お役に立つものが一つでもございましたなら、嬉しく存じます、と」


紗良は文の文字を見た。


まだ読むことはできない。


それでも、昨日見た雅継の筆跡とは違うことは分かる。


文字は小さく、華やかな崩しも少ない。


一つずつがほぼ同じ大きさに揃い、用件がどこに書かれているのか分かりやすそうだった。


美しさを見せるためというより、相手に読んでもらうための文字。


「読みやすそうな字」


「はい。三条の御方の御文は、分かりやすいのです」


千代が言った。


「お歌は?」


紗良が尋ねると、小夜が僅かに視線を伏せた。


「宮中には、三条の御方さまよりお歌に優れた方も、大勢おられたと聞いております」


何でもできる女性というわけではないらしい。


けれど、宮中で自分が何を求められ、どこまでできるのかを知っていた。


だから、華やかな品ではなく、役に立つものを選んだのかもしれない。


「父上がお通いになる御方だからといって、北の方と同じように振る舞えるわけではありません」


姫が文を畳みながら言った。


「三条の御方は、ご自分の立場をよくご存じです」


部屋の中には、大勢の女房がいる。


姫の言葉は、それ以上続かなかった。


誰が聞いているか分からない場所で、話せることには限りがあるのだろう。


紗良も尋ねるのをやめた。


雅継が通わなくなれば、三条の御方と子どもはどうなるのか。


別邸で、彼女は雅継の訪れをどのように待っているのか。


聞きたいことはいくつも浮かんだ。


しかし、それを今ここで口にするのは違う気がした。


紗良は、雅継から届いた昨日の文を思い出した。


月影をたどり、誰を道案内にして夜を歩いたのか。


あの歌に、紗良は返事を書いた。


返事が来るかどうか、廊を通る人の気配を一日中気にしていた。


ほんの一日待っただけで、落ち着かなかった。


三条の御方は、どれほど待ってきたのだろう。


それとも、待つことにも慣れてしまったのだろうか。


「どうして私、そんなことを考えてるんだろう」


紗良は小さく呟いた。


「何かおっしゃいましたか」


千代が尋ねる。


「ううん。何でもない」


雅継は、この邸の主人。


自分を置いてくれた人。


姫の父親。


月の下で道を教えてくれた人。


それだけだ。


文が一通届いたからといって、特別な意味があるわけではない。


そして雅継には、今も通う女性がいる。


その女性との間には、子どももいる。


知らなかったことを知っただけだ。


そう思おうとするほど、胸のどこかが落ち着かなかった。


紗良は意識を切り替え、届いた品を整理する女房たちを手伝うことにした。


「これは、どこへ置けばいい?」


「紗良さま、その箱はわたくしどもが」


「持つくらいできるから」


箱を持ち上げた途端、長い袖が取っ手へ引っかかった。


中の小さな器が傾き、女房たちが一斉に声を上げる。


「あっ、待って、落としてない!」


千代が慌てて器を押さえる。


小夜は深いため息をついた。


「紗良さまは、どうか静かにお座りくださいませ」


「手伝おうとしただけなのに」


「お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」


とうとう、手伝うことまで禁止された。


紗良は姫のそばへ戻り、おとなしく座った。


夕方近くになり、最後の箱を閉じた頃。


一人の使いが、廊の向こうへ現れた。


紗良の胸が、思いがけず大きく鳴った。


使いの手には、折り畳まれた紙がある。


小夜が受け取り、表を確かめる。


それから、紗良へ視線を向けた。


「紗良さまへ、雅継さまより」


待っていないつもりだった。


なのに、身体の方が先に反応した。


紗良は立ち上がりかけ、自分の裾を踏んだ。


「危ない!」


千代に支えられ、どうにか転ばずに済む。


「どうして、こういう時に限って……」


姫が声を上げて笑う。


紗良は何事もなかったような顔を作り、文を受け取った。


昨日より短い。


香も、ごく僅かだった。


「読んで」


自分で読む努力もせず、小夜へ渡す。


小夜は文を開き、しばらく黙った。


「何て?」


「ひとりならずとも、夜歩きは許さぬ」


「それだけ?」


「その下に、もう一言ございます」


小夜の口元が僅かに動いた。


「歌は――」


「歌は?」


「数だけは合っている、と」


部屋の中に、短い沈黙が落ちた。


次の瞬間、姫が笑い出した。


千代も口元を袖で隠している。


小夜まで、目を伏せたまま肩を震わせていた。


「やっぱり、そこ?」


半刻もかけて作った。


文字は美しく書いた。


自分なりに、気持ちも込めたつもりだった。


それなのに、褒められたのは、数だけ。


「雅継さま、性格悪くない?」


「紗良さま」


小夜が慌てて周囲を見る。


「声が大きゅうございます」


「本人に聞こえる距離じゃないでしょう」


「どこで、どなたが聞いているか分かりません」


紗良は文を取り返した。


流れるような文字は短く、紙の余白ばかりが目立つ。


それでも、返事は来た。


雅継は紗良の歌を読んだ。


そして、その内容へ答えた。


胸にあった落ち着かないものが、少しだけ軽くなる。


「別に、嬉しくないけど」


誰も何も言っていないのに、紗良は呟いた。


姫が意味ありげに目を細める。


「何ですか、その顔」


「何でもありません」


昨日の千代と、まったく同じ返事だった。


紗良は雅継の文を折り畳んだ。


三条の御方から姫へ届いた文と、雅継から自分へ届いた文。


二つの文を、同じ日に目にした。


一方は、長い経験から選ばれた品に添えられた、控えめな言葉。


もう一方は、紗良をからかうような、わずか数行の返事。


紗良は、自分の手の中の文を見つめた。


嬉しくないわけではない。


だが、素直に喜んでよいのかも分からなかった。


雅継には、今も通う女性がいる。


その人は別の邸で、雅継との間に生まれた子どもと暮らしている。


三条の御方が、どのような気持ちで雅継を待っているのか、紗良は知らない。


何も知らないまま、自分の気持ちだけを進めてはいけない。


そう思った。


けれど、雅継の文を手放すこともできなかった。


紗良はそれを、バッグではなく、こちらの世界で与えられた文箱の中へしまった。


蓋を閉める。


それでも、紙に残った静かな香りは、しばらく指先から消えなかった。

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