残されたもの
シエルの手が、俺の手を強く握り返していた。
音の消えた路地では、風に飛ばされていた紙切れが宙に浮き、大通りを走っていた車も交差点の途中で止まっている。
俺とシエルだけを残して、世界のすべてが静止していた。
「シエル・アウレリア……」
もう一度、その名前を口にする。
初めて聞いたはずの名前なのに、不思議と口に馴染む。頭の中には、さっき見えた景色が残っていた。
暗闇に浮かぶ青い星と、その隣に立つ白い髪の少女。
今より少し幼く見えた気もするが、あの顔は間違いなくシエルだった。
「レイ様……本当に、思い出されたのですか?」
「分からない」
「ですが、私の名を……」
「勝手に出てきたんだよ。なんで知ってるのか、俺にも分かんない」
思い出そうとすると、頭の奥に鈍い痛みが走る。
何かがある。
そこまでは分かるのに、手を伸ばそうとすると遠ざかってしまう。
シエルを支えている右腕にかかる重みが増した。
「っ……!」
シエルの身体がわずかに沈む。
掴んでいた手首が滑りかけ、反射的に握り直した。
「とりあえず、この話は後だ」
「ですが、」
「まずお前を上げる」
地面に左肘を押しつけ、身体を少し後ろへずらす。
「もう片方の手、出せる?」
「……はい」
シエルが左手を伸ばす。
その手を掴んだところで、彼女が小さく息を漏らした。
「どうした?」
「いえ……」
「何」
「名前を思い出してくださったことも、嬉しいのですが」
「うん」
「先ほどから一度も、私の手を離されないので」
「…………」
そう言われ、自分の右手を見る
指先が白くなるほど、シエルの手首を掴んでいた。
腕はとっくに痛い。
少し力を抜くだけでも楽になるはずなのに、そんな考えは一度も浮かばなかった。
「落ちるだろ」
「はい」
「だったら離すわけないじゃん」
シエルが黙った。
「……何?」
「いいえ」
目元にはまだ涙が残っている
なのに、また口元が少し上がった。
「だから、なんで笑うんだよ」
「嬉しいからです」
「今まだ落ちてんだけど?」
「はい」
「……ほんと変なの」
「よく言われました」
「誰に?」
シエルは俺を見上げた。
「レイ様に」
「…………」
胸の奥が、わずかに引っかかった。
何かを思い出しそうになったわけじゃない。
ただ、その言葉を聞いた瞬間だけ、妙な感覚が残った。
「……その話も後」
「はい」
「引っ張るぞ」
「はい!」
最後に思いきり引く。
「きゃっっ」
「うわ!」
勢い余ってシエルの身体が俺の上へ倒れ込んできた。後頭部が地面にぶつかる。
「いってぇ……」
「レイ様!」
「大丈夫……たぶん」
「申し訳ございません!」
「だから毎回すぐ謝るなって」
「ですが、私がレイ様の上に……」
「じゃあとりあえず退いて」
「あっ……はい!」
シエルが慌てて身体を起こす
俺も上半身を起こし、後頭部を擦った。
普通に痛い…
神様だったと言われても、頭を打てば痛いらしい。少なくとも今の俺は、ちゃんと人間っぽい。
シエルの様子を見る
怪我はなさそうだった。
白いワンピースには少し汚れがついているが、腕にも脚にも傷は見当たらない。
「怪我してない?」
「はい。大丈夫です」
「ならいいけど」
「…………」
「何?」
「いえ」
「またそれかよ」
シエルは何も答えず、少しだけ笑った。
さっきまで落ちかけていた人間の顔には見えない。
「怖くなかったの?」
「怖い?」
「落ちたらどうなるか分からなかっただろ、」
シエルは黒い空間へ目を向けた。
「おそらく、存在を維持できなかったと思います」
「……死ぬってこと?」
「人間の死と同じかは分かりません。ただ、今の私が消滅すれば、再びここへ戻ることは難しいでしょう」
「それで『私は構いません』とか言ってたの?」
「はい」
「なんで?」
少し沈黙があった後シエルは答えた。
「レイ様を失うよりは、その方が良いと判断しました」
「…………」
意味が分からない。
「自分が消えるんだぞ?」
「はい」
「俺なんて放っとけばよかったじゃん」
「できません」
「なんで?」
シエルが俺を見る。
さっきまでとは違って、今度は迷わなかった。
「あなたが大切だからです」
「…………」
大切…
聞き慣れた言葉のはずなのに、妙に引っかかった。昨日、母さんも似たようなことを言っていた。
『失いたくないって思えるくらい、大切な人ができたら』
あのときは分からなかった。
今も分からない。自分が消えても構わないと思えるほど、誰かを大切にする理由なんて。
「自分より?」
「はい」
「俺の方が大事?」
「はい」
「……変なの」
思ったまま口にすると、シエルが少し笑った。
「そうかもしれません」
「否定しないんだ」
「レイ様には、まだ分からないでしょうから」
「…………」
その言い方が少しだけ気に障った。
「なんだよ、それ」
「え?」
「俺には分からないって決めつけんなよ」
声が少し強くなった。
シエルが驚いた顔をする
俺も、自分がなぜ腹を立てたのか分からなかった。
別に馬鹿にされたわけじゃない。
シエルだって、そんなつもりで言ったわけじゃないだろう。
なのに胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚が残る。
「……悪い」
「いえ」
「なんか今の言い方、嫌だった」
「申し訳ございません」
「だから謝らなくていいって」
「では、今後気をつけます」
「それでいい」
自分でも面倒くさいと思う。
さっきまで命の危険があったのに、今はたった一言で腹を立てている。
人間ってこんなに忙しいのか…
そんなことを考えながら立ち上がろうとした瞬間、頭の奥に強い痛みが走った。
「っ――!」
視界が大きく揺れる
膝から力が抜け、地面に手をついた。
「レイ様!」
シエルが身体を支える。
「大丈夫ですか?」
「頭……痛い」
「まさか……」
「何?」
シエルが周囲を確認する。
「時間停止です」
「時間停止?」
「長すぎます」
言われて気づいた。
世界はまだ止まっている。
さっきから俺たちは普通に話していたが、大通りの人々は一歩も動いていない。
「どれくらい経った?」
「正確には分かりませんが、一分以上は」
「朝は三秒だったぞ」
「今朝の停止と、今の停止は別物です」
「どう違うの?」
「朝の現象については、まだ私にも分かりません。しかし今は、レイ様ご自身が時間を停止させています」
また頭が痛む。
「っ……」
「早く解除してください」
「解除って、どうやって?」
「……分からないのですか?」
「分かると思う?」
「以前は呼吸をするより簡単に行っておられましたので」
「その以前の俺を基準にすんなよ!」
頭を押さえながら立ち上がる。
「止まれって言ったから……逆を言えばいいのか?」
「私にも分かりません。」
「以前の俺がどうしてたか分からないのか?」
「申し訳ございません」
目を閉じる。
止めたときは、シエルを助けることしか考えていなかった。
別に方法を知っていたわけじゃない。
ただ、止まってほしいと思った。
だったら今は…
もう止まらなくていい。
「動け」
何も起こらない。
「…………」
目を開ける。
車も人も止まったままだ。
「シエル」
「はい」
「今の忘れて」
「難しいかと」
「忘れて」
「努力します」
もう一度目を閉じた
動け、じゃない。
止めた時間を元へ戻す。
時計の針が進む。
人が歩く
車が走る
風が吹く
頭の中に、動き出す世界を思い浮かべる。
「……進め」
カチッ――
どこかで時計の針が動いた。
直後、音が一気に戻ってくる。
車のエンジン
信号機の電子音
遠くで笑う学生の声
止まっていた風が路地を抜け、宙に浮かんでいた紙切れが俺の足元を転がっていった。
「戻った……」
頭痛が少しずつ引いていく。
俺は壁に手をつき、大きく息を吐いた。
「やはり今のレイ様には負担が大きいようですね」
「負担?」
「神としての権限を、人間の身体で行使した影響だと思います」
「権限って、能力とは違うの?」
「はい」
シエルは頷いた。
「例えば時間を操る力を持つ者がいたとして、その者は時間という法則の中で力を使います」
「うん」
「ですがレイ様は違います」
シエルが空を見上げた。
「時間という法則そのものに、命令できるのです」
「…………」
「先ほど時間が止まったのも、レイ様が時間を操ったからではありません。世界があなたの命令に従ったからです」
背中に冷たい感覚が走った
自分がやったことなのに、急に怖くなった。
「そんなこと、俺がやってたの?」
「はい」
「昔から?」
「必要があれば」
「……神様、仕事重くない?」
「以前のレイ様もよく同じことを仰っていました」
「え?」
「『なんで私が全部やらなければならないんだ』と」
ちょっとだけ親近感が湧いた
「神様って愚痴るんだな」
「かなり」
「威厳ないな、昔の俺」
「私は好きでしたよ」
「…………」
さらっと言われた。
「何が?」
「そういうところが」
「ふーん」
なぜか目を合わせづらくなって、黒い領域へ視線を逃がす。
「…………あれ?」
欠損が広がっていない
時間はもう動いているのに、さっきまで地面を飲み込んでいた黒い領域は静止していた。
「シエル」
「はい?」
「あれ、止まってない?」
シエルも振り返る。
「……本当ですね」
「時間戻したのに?」
シエルが慎重に近づき、黒い領域の手前でしゃがみ込む。
「危なくない?」
「活動は停止しています」
「さっき落ちた人の『大丈夫』は信用できないけど」
「……否定できません」
しばらく観察していたシエルが、小さく息を呑んだ。
「レイ様」
「今度は何?」
「見てください」
黒い領域の端が変化していた
消えていた地面が、少しずつ戻っている。
コンクリートの細かな凹凸まで元通りになり、その範囲がゆっくりと奥へ広がっていく。
壁も戻った。
途中で消えていた配管が繋がり、半分しか残っていなかった室外機も元の形を取り戻していく。
「直ってる……」
「はい」
「誰がやってんの?」
シエルが俺を見る。
「レイ様かと」
「俺、何もしてないけど」
「先ほどの命令が原因だと思われます。異常の進行を止めたことで、世界が本来の状態へ戻ろうとしているのでしょう」
「世界って勝手に直るの?」
「本来は」
シエルの表情から笑みが消えた。
「小さな異常であれば、世界は自ら修復します。多少の歪みが生じたとしても、通常ならここまで大きな欠損にはなりません」
「じゃあ、なんで今回は……」
言いながら、途中で気づいた。
「神様がいないから?」
「…………はい」
短い返事だった
俺が神様だった
その俺がいなくなった
だから世界が壊れ始めた
もしシエルの話が全部本当なら…
「……俺のせいなのか?」
口にした瞬間、シエルがこちらを向いた。
「違います」
思った以上に強い声だった。
「……何が?」
「レイ様が人として生きることを選ばれた理由を、私は知りません」
シエルの手が、白いワンピースの裾を握る。
「ですが、あなたが何の理由もなく世界を捨てる方ではないことだけは知っています」
「以前の俺が何を考えてたなんてシエルには分からないだろ」
「そうですね、ですが今起きていることをレイ様のせいだとは、私は思いません」
言い切った。
何も覚えていない俺より、シエルは昔の俺を信じている。
妙な感じだった。
「……シエル」
「はい」
「俺って、どんな奴だった?」
シエルの目が少し大きくなる。
「神だったとか、世界を管理してたとかじゃなくて」
自分から昔のことを聞いたのは、これが初めてだった。
「お前から見て、俺ってどんな奴だった?」
シエルは何かを思い出すように目を伏せ、やがて小さく笑う。
「とても、不器用な方でした」
「神様の感想で最初にそれ出る?」
「事実ですので」
「もっとなんかあるだろ。威厳があるとか、優しいとか」
「威厳は……」
「なんで考えるんだよ」
「優しくは、ありました」
「そこも即答じゃないんだ」
「ですが」
シエルが一歩、俺へ近づく。
「誰かを助けるときだけは、昔から一度も迷われませんでした」
自分の右手を見る。
さっきまでシエルを掴んでいた手。
指先には、まだ力を込めすぎた感覚が残っている。
「……覚えてないけど」
「はい」
「全然」
「それでも構いません」
シエルは笑った
今度は、泣いていなかった。
「私は覚えていますから」
胸の奥で、何かが小さく動いた。
痛いわけじゃない
苦しいわけでもない
シエルが落ちかけたときに感じたものとも少し違う。
何なのか分からない…
分からないから、そのままにしておいた。
やがて黒い欠損は完全に消えた。
古びたコンクリートの壁
錆びた配管
室外機
何も起きていなかったような路地が戻っている。空に残る亀裂だけを除いて…
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
「ん?」
取り出して画面を見る。
母さんからだった
『ちゃんと起きてる? 学校遅れるよ』
「…………」
何気なく、画面上部の時計へ目を向ける。
六時十六分
「……え?」
もう一度見る。
やっぱり六時十六分。
「シエル」
「はい?」
「俺たち、結構喋ってたよな?」
「はい」
「どれくらい?」
「正確には分かりませんが……私たちの感覚では数分ほどでしょうか」
「なのに」
スマホを見せる。
「まだ六時十六分なんだけど」
シエルもスマホの画面を見る。
「時間が止まっておりましたので」
「……そりゃそうなんだけど」
頭では分かる。
世界そのものが止まっていたのなら、その間に時計が進むはずもない。
俺たちにとって確かに存在した数分間が、世界のどこにも残っていない。
スマホの時計にも
街の時計にも
たぶん、俺とシエル以外の誰の記憶にも…
「変な感じ」
「そうでしょうか?」
「俺たちは喋ってたのに、世界からしたら何もなかったってことだろ?」
「そうなりますね」
「…………」
もう一度スマホを見る。
六時十六分
さっきまでの出来事が嘘だったような数字だ。
ポケットへスマホを戻す。
「……まあいいや」
時間があるなら、急ぐ必要もない。
「学校行かないと」
「学校……」
シエルがその言葉を繰り返した。
「何?」
「いえ。レイ様はこれから学校へ行かれるのですね」
「そりゃ学生だし、平日だからな」
「なるほど……」
妙に興味深そうな顔をしている。
「…………」
「どうされました?」
改めてシエルを見る。
腰まで伸びた白い髪
白いワンピース
淡い青色の瞳
どう考えても、登校途中の高校生の横にいていい見た目じゃない。
「そういや、お前」
「はい」
「これからどうすんの?」
「レイ様について参ります」
「…ん?」
「何か?」
「学校まで?」
「はい」
即答だった。
「いやいや」
「問題がありますか?」
「あるだろ」
「どのような?」
「どのようなって……」
言葉に詰まる
シエルは首を傾げている。
本気で分かっていないらしい。
「とりあえずさ」
「はい」
「その格好で学校来たら、めちゃくちゃ目立つぞ」
シエルは自分の服を見下ろした。
「この服は、おかしいでしょうか?」
「おかしいっていうか……白いし」
「はい」
「髪も白いし」
「はい」
「なんか全部白いし」
「はい」
「……目立つ」
「なるほど」
本当に分かってるのか?
「まあ、学校までならいいけど」
「では、参りましょう」
「待って」
「はい?」
「お前、道知ってんの?」
「知りません」
「だと思った」
思わずため息が出る。
シエルは気にした様子もなく、俺の隣に並んだ。
「レイ様」
「何?」
「学校という場所を、一度見てみたかったのです」
「学校を?」
「はい」
シエルが路地の出口へ目を向ける。
その横顔は、さっき世界が壊れかけていたときより、ほんの少し楽しそうに見えた。
「……別に面白いところじゃないぞ」
「それは、見てから決めます」
「そうですか」
「はい」
俺たちは並んで、路地の出口へ歩き始める。
外から聞こえてくるのは、いつもの街の音だった。
車が走る音
自転車のベル
遠くで鳴く鳥
何も知らない人たちの話し声
数分前まで、この場所から世界そのものが消えかけていたなんて、誰も知らない。
俺だって昨日までなら信じなかった。
神様
止まった時間
崩れる世界
失った記憶
それから――。
隣を歩く白い髪の少女を見る。
「レイ様?」
「いや」
「なんでもない」
今日一日だけで、知らないことが増えすぎた。
けれど、なぜか今は、それをもう少し知りたいと思っていた。




