目覚め始めた記憶
シエルの身体が黒い空間へ落ちていく。
「シエル!」
考えるより先に身体が動いた
地面を蹴り、右手を伸ばす。
指先が触れた。
あと少し…
「っ……!」
手首を掴んだ瞬間、腕に強い重さがかかった。
身体ごと引っ張られ、慌てて左手を地面につく。制服越しに腹がコンクリートへ擦れ、右肩には抜けそうなほどの痛みが走った。
「レイ様!」
「重っ……!」
「女性に対して失礼です!」
「今そういうのいいからっ」
腕に力を込める
シエルの足元には何もない。
黒い空間の中を覗いても底は見えず、落ちたらどうなるのか想像すらできなかった。
「手、伸ばせる?」
「はい!」
シエルが左手を伸ばす
俺も掴もうとするが、あと少し届かない。
ズルッ―
身体が前へ滑った。
「っ……!」
左手の爪がコンクリートを擦る
駄目だ…
俺まで引っ張られてる。
「レイ様、離してください!」
「は?」
「このままでは、あなたまで落ちます!」
「だからって離せるか!」
「私は構いません!」
「俺が構う!」
路地に自分の声が響いた
シエルが何も言わなくなる。
「…………」
咄嗟に出た言葉。
俺も一瞬、言葉を失った。
俺が構う…
なんで?
今日会ったばかりだ。
名前を知ったのも、ほんの少し前。
何者なのかも分からない。こいつの話を全部信じたわけでもないし、俺が神様だったなんて今でも信じられない。
だったら、なぜ必死になってる?
「レイ様……」
「なに」
「いえ……」
「言いたいことあるなら早くして。腕ちぎれそう」
シエルは俺を見上げたまま、ほんの少し口元を緩めた。
「変わっておられませんね」
「今それ言う?」
「はい」
「はいじゃないから」
こんな状況で笑うなよ、
そう言おうとしたところで、シエルの目から涙が一滴こぼれた。
頬を伝った雫は顎から離れ、黒い空間へ吸い込まれていく。
「……なんで泣くんだよ」
「分かりません」
「自分の事だろ」
「嬉しいのだと思います」
「落ちかけてんのに?」
「そうですね」
「…意味分かんねぇ」
シエルが目を細める。
「私も、人間ではありませんよ」
「……先に言えよ」
聞きたいことが一つ増えた。
ただ、今はそんな話をしている場合じゃない。
右腕が震え始めている
指先の感覚も薄くなってきた。
ズッ――
また身体が滑った。
顔を上げると、黒い領域がすぐ目の前まで迫っている。
「レイ様、もう限界です!」
「まだ!」
周囲を見回す
何か掴めるものはないか。
ロープ、柵、室外機
使えそうなものは黒い領域に飲み込まれている
路地の出口には人が見えた。
「おい!」
声を張り上げる。
「誰か助けてくれっ!」
誰も振り向かない
学生も会社員も、こちらに気づく様子すらなく歩いていく。
「聞こえてないのかよ……!」
「現在、この空間は外部との接続が不安定になっています!」
「もっと早く教えろ!」
「申し訳ございません!」
完全に詰んでる。
腕の力だけでシエルを引き上げるのは無理だ…
助けも来ない、出口にも辿り着けない、
その間にも欠損は広がり続けている。
どうする…
何かないのか…
考えろ。
頭の中で朝から起きたことを思い出す。
空中を歩いていた男がいた。
存在しなかった路地が現れた。
空の亀裂。
そして、六時十二分。
三秒間、世界が止まった。
「…………」
あの時、車も人も動かなかった、
時計の秒針も止まっていた。
風もなかった、
世界のすべてが三秒間だけ静止していた。
もし…もう一度できたら。
欠損が広がるのを止められるんじゃないか?
でも、どうやって、?
朝は俺が止めたわけじゃない
気づいたら止まっていた。
「レイ様?」
シエルの声が聞こえる
考えろ。
何か方法があるはずだ。
世界を管理していた
因果、
空間、
時間、
シエルはそう言った
もし本当に、本当に俺が神様だったなら。
今だけでいい…
神様でも何でもいいから。
こいつを―
右手に力を込める。
シエルの手首を掴んでいる指が震えていた。
離したくない。その瞬間、昨日の葬式で母さんに言われた言葉が頭をよぎった。
『いつか、分かるよ』
『失いたくないって思えるくらい、大切な人ができたら』
違う。
こいつとは今日会ったばかりだ。
大切な人なんかじゃない
まだ何も知らない
それでも…
この手を離したら、シエルが消える
そう考えただけで、胸の奥が痛んだ。
「…………」
これが何なのか、俺には分からない。
分からなくてもいい、今は一つだけでいい。
黒い領域を見る、広がり続ける欠損。
シエルを落とそうとする世界。
止まれ。
これ以上、何も消すな。
シエルを連れていくな。
頼むから――
「止まれ!!」
音が消えた。
「…………え?」
静かだった。
耳がおかしくなったのかと思ったが、自分の呼吸と心臓の音だけは聞こえている。
顔を上げる、路地の出口で、道路を走っていた車が停止していた。
横断歩道を渡る人も動かない。
風に飛ばされていた小さな紙切れが、地面に落ちず宙に浮かんでいる。
黒い欠損も広がっていない。
「また……止まった」
六時十二分と同じ、世界が止まっている。
けれど、今朝とは一つだけ違った。
「レイ様……」
声がした。俺は下を見る。
「……なんで動ける?」
シエルが瞬きをした。
「レイ様こそ、どうして……」
「俺は朝も動けた」
「朝?」
「六時十二分。三秒間だけ世界が止まった」
シエルの表情が変わった。
「三秒……?」
「何か知ってる?」
「いえ。ですが、今の停止とは違います」
「何が?」
シエルは周囲を見たあと、俺へ視線を戻す。
「今朝の現象については確認が必要です。ですが、今は違います」
「だから何が違うんだよ」
「今、世界を止めたのは――」
シエルの視線が、俺を捉えた。
「レイ様です」
「俺が……?」
そんなわけない、そう言おうとした瞬間だった。
『権限を確認』
「……え?」
声が聞こえた。女性の声
どこから聞こえているのか分からない。
路地の中でも、空からでもない
頭の奥へ直接響いてくる。
『管理個体を照合』
「この声……」
知っている、
夢の中で何度も聞いた声だ。
「レイ様?」
シエルにも聞こえているのか、彼女が周囲を見回す。
『照合完了』
頭の奥が熱くなった。
『――おかえりなさいませ』
「っ……!」
鋭い痛みが走り、視界が歪む。
「レイ様!」
シエルの声が遠ざかる
目の前に、知らない景色が流れ込んできた。
暗闇の中に浮かぶ青い星。
無数の光が地上で生まれ、消えていく。
知らない国
知らない時代
生まれる命
死んでいく命
俺は、そのすべてを遥か上から見ていた。
『時間軸、固定完了しました』
隣から声が聞こえる、誰かがいる。
長い白髪。
淡い青色の瞳。
今より少し幼く見える顔で、俺を見上げていた。
『ご確認をお願いいたします』
知っている。この声を。
この顔を…俺は何度も呼んでいた。
名前があった
シエル。
違う、もっと長い。
思い出せ。
何て呼んでた?
「……シエル」
「はい」
現実へ意識が戻る。
頭が痛いそれでも、名前だけが離れなかった。
「シエル・アウレリア」
彼女の顔から表情が消えた。
「…………」
「え?」
シエルは瞬きすら忘れたように俺を見ている。
「今……」
「何?」
「今、なんと……?」
俺自身、何を口にしたのか分かっていなかった。
「シエル・アウレリア……?」
もう一度、その名前を口にする。
知っている、なぜ知っている?
シエルから聞いたのは「シエル」という名前だけだ。
「どうして……」
彼女の目に涙が溜まる。
「どうして、その名を……」
「いや、俺も分からない」
涙が頬を伝った、シエルは泣いている。
なのに、口元には小さな笑みが浮かんでいた。
「…………」
またその顔だ…
泣いているのに笑っている。
さっきまでなら、意味が分からないと思ったはずなのに。
今は違う。
この顔を知っている
いつ見た?
どこで?
思い出せない。
けれど、シエルが泣くときに少しだけ笑うことを、俺はずっと前から知っていた。
「俺……」
胸の奥がざわつく。
閉じ込められていた何かが、内側から少しずつ扉を押している。
シエル・アウレリア。
世界。
時間。
神様。
夢だと思っていた景色。
全部が少しずつ繋がり始めている。
俺は本当に、シエルのことを知っているのか…
止まった世界の中で、彼女の手だけが俺の手を強く握り返した。




