崩れ始めた世界
最初に変化したのは、壁に走っていた細いひびだった。一本だった線が左右へ伸び、途中でいくつにも枝分かれしていく。
古い建物だ。ひびくらい入っていても不思議じゃない。けれど崩れた破片は一つも落ちてこなかった。
ひびの隙間から黒いものが広がっている。
「……なんだ、あれ」
目を凝らしても奥が見えない。暗くて見えないというより、壁の向こう側ごと消えているように見えた。
黒い部分がじわじわと広がり、壁に貼られていた古い広告へ届く。端に触れた途端、紙の一部が音もなく消えた。
破れたわけじゃない。
燃えたわけでもない。
最初からそこになかったように、跡すら残っていなかった。
キィィィィン――
「っ……!」
鋭い音が耳の奥に響き、思わず顔をしかめる。
次に消え始めたのは足元だった。コンクリートの地面に黒い染みが浮かび、少しずつこちらへ広がってくる。
「レイ様、こちらへ!」
シエルが俺の腕を掴んだ。
「お、おい!」
「走ってください!」
強く引かれ、路地の出口へ走り出す
後ろからまた甲高い音が響いた。
「シエル! あれ何なんだよ!」
「欠損です!」
「欠損?」
「世界の一部が消えています!」
「世界の一部って、壁が消えてるだけじゃないのか?」
「壁だけではありません。あの黒い領域に触れた場所は、空間ごと失われています!」
聞かなきゃよかった、足を速める。
昨日まで存在しなかったとはいえ、この路地自体はそれほど長くない。入ってきたときの感覚なら、出口まで二十メートルほどだったはずだ。
大通りも見えている。
制服姿の学生、駅へ向かう会社員、道路を走る車。
あと少し…
そう思ってから、何秒経った?
「……待って」
走りながら前を見る
出口は見えている
なのに近づかない…
「シエル!」
「分かっています!」
「いや絶対おかしいだろ! さっきからずっと走ってるぞ!」
シエルが足を止め、俺も急ブレーキをかけた。
息を整えながら振り返ると、路地の奥にあった黒い領域はさっきより大きくなっていた。
壁に取り付けられていた室外機が半分ほど消えている。配管も途中で途切れ、その先には何もない。
「空間座標まで崩れ始めています」
「……何それ」
「この道の長さや、入口と出口の位置が正常に保たれていません」
「もうちょい分かりやすく」
「今の私たちは、どれだけ走っても出口に辿り着けない可能性があります」
「…………」
分かりやすくなったせいで、余計に怖くなった。
「じゃあどうすんの?」
「確認します」
シエルは黒い領域へ身体を向け、右手を胸の高さまで上げた。
細い指が宙をなぞる。
何か文字でも書いているのかと思ったが、俺には何も見えない。
「シエル?」
「…………」
返事がない
数秒後、シエルの眉が僅かに寄った。
「……そんな」
「その反応やめれる? めっちゃ怖いから」
「この路地だけではありません」
「え?」
シエルが空を見上げた
俺も顔を上げる。
「……嘘だろ」
空の亀裂が増えていた…
最初に見たときは、青空を横切る一本の黒い線だった。それが今ではいくつにも枝分かれし、建物の屋根を越えた先まで伸びている。
ピシッッ――
また新しい亀裂が生まれた。
その真下では、何も知らない人たちがいつも通り歩いている。
「世界の各地で異常が発生しています」
「各地って……日本中?」
「分かりません」
「海外も?」
「今の私には確認できません。以前なら、、」
シエルがそこで言葉を止めた。
「以前なら?」
「……いえ」
「気になるだろ」
「申し訳ございません」
謝られても気になって仕方ない
でも、今はそれどころじゃない。
背後から甲高い音が聞こえるたび、黒い領域が少しずつ広がっている。
「とにかく、あれ止められないの?」
「修復することはできます」
「できるの?」
シエルが黙った。
「……その沈黙なに?」
「私にはできません」
「できないんかい」
「正確には、権限がありません」
「権限?」
また聞き慣れない言葉が出てきた。
「この世界の状態を確認することはできます。しかし、異常が発生した場所を書き換えることは許されていません」
「誰に?」
「レイ様に」
「…………俺?」
「はい」
シエルは当然のことを話している顔だった。
「以前の私は、レイ様の許可なく世界へ干渉することを禁じられていました。今もその制限は残っています」
「じゃあ、誰なら直せるんだよ」
聞いてから後悔した
シエルが真っ直ぐ俺を見ている。
答えなんて一つしかない…
「レイ様です」
「……無理」
「まだ何も説明しておりません」
「聞かなくても分かる。俺が神様だからできるとか言うんだろ?」
「はい」
「ほら」
「ですが、レイ様なら――」
「俺は神様じゃない」
思っていたより強い声が出た
シエルの言葉が止まる。
「俺は天城レイだ。普通に学校行って、家帰ったらゲームして、母さんに部屋片づけろって怒られる。ただの高校生だよ…」
「レイ様……」
「世界を管理してた記憶なんてない。生命だの時間だの因果だの、いきなり言われても分かんないし、世界を直せって言われても何をすればいいかすら知らない」
口に出しているうちに、朝から溜まっていたものまで一緒に出てきた。
「今日だけで何個おかしなこと起きてると思ってんだよ。世界が止まって、知らない道が出てきて、空が割れて……会ったこともない女の子には神様って呼ばれるし」
「会ったことはあります」
「今そこ訂正する?」
「……申し訳ございません」
こんな状況なのに、少しだけ力が抜けた。
「とにかく、俺には無理だよ」
シエルは何も言わなかった。
俺が何を言っても「あなたは神様です」と返してくると思っていたのに、彼女は静かに目を伏せた。
「……そうですね」
「え?」
「今のあなたは、天城レイ様です」
予想していなかった返事だった、
シエルはゆっくり顔を上げる。
「記憶を失い、人として生きてこられたあなたに、以前と同じ役目を求めることが正しいとは思いません」
「だったらっ、」
「無理に思い出していただくつもりもありません」
そこで一度言葉を切り、シエルは空を見た
黒い亀裂は今も増え続けている。
「ですが、レイ様が神であった事実まで消えるわけではありません」
淡い青の瞳が俺へ戻る。
「この世界は今も、あなたを必要としています」
「…………」
胸の奥がざわついた
神だった。
世界を管理していた。
シエルと一緒に世界を見ていた。
俺には何一つ覚えがない…
それでも、夢の中で聞いた声だけは妙に鮮明だった。
生命循環―
因果律―
時間軸―
全部、シエルの話と繋がっている。
「俺はっ……」
ピシッ――――
足元から乾いた音が聞こえた。
「え?」
「レイ様!」
胸を強く押される
「うわっ!」
身体が後ろへ倒れ、背中を地面に打ちつけた。
「いってぇ……何すっ」
文句を言いながら身体を起こす
そこで声が止まった。
「…………シエル?」
さっきまで彼女が立っていた場所に、地面がない、黒い領域が大きく口を開けていた。
シエルの右足が宙に浮く
身体がゆっくり後ろへ傾いていく。
伸ばされた手が、何もない空間を掴んだ。
「レイ、様――」
青い瞳と目が合った。




