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すれ違う日常

路地を抜けると、いつもの朝が待っていた。


車が道路を走り、歩道ではスーツ姿の男が片手に鞄を提げて駅の方へ急いでいる。青に変わった信号を、自転車に乗った学生が勢いよく横切っていった。


数分前まで、すぐ後ろで世界の一部が消えかけていた。


そう考えると、目の前の光景が少し変に見える。


「ほんとに誰も気づいてないんだな」


立ち止まって空を見上げる。


青空には、ガラスに傷を入れたような亀裂が今も残っていた。


誰も見ていない。

空を気にする人すらいない。


「先ほど申し上げた通りです。見えていないというより、認識できていないのでしょう」


「これだけ派手に割れてんのに?」


「本来、空は割れませんから」


「だから脳が勝手に無視してるってこと?」


「簡単に言えば、そうなります」


「便利なのか不便なのか分かんないな、人間って」


言ってから歩き出す。


隣を歩くシエルへ目を向けると、ちょうど通り過ぎた男が振り返っていた。


まあ、そりゃ見るよな。


腰より長い白髪に、白いワンピース。

朝日の下では髪の輪郭まで白く光って見える。


「やっぱ目立つな」


「亀裂がですか?」


「お前が」


シエルが自分を指差した。


「私?」


「その髪で、その服だからな」


言われて初めて気づいたように、シエルは自分の髪をひと房つまんだ。


「変でしょうか?」


「変っていうか、珍しい」


「レイ様は黒いですね」


「日本だとこっちが普通なの」


「なるほど」


納得したらしい。


つまんでいた髪を離したシエルが、今度は道路の向こうへ顔を向ける。


「レイ様」


「ん?」


「あれは何でしょうか」


指差した先にあったのは、自動販売機だった。


「自販機」


「じはん、き?」


「知らないの?」


「まぁ、正式名称は自動販売機だけど」


「知識としては存じています」


「じゃあなんで聞いたんだよ」


「実物を見るのは初めてですので」


シエルは自販機の前まで行くと、ガラス越しに並んだ飲み物を上から下まで眺め始めた。


「この中に飲み物が入っているのですね」


「そう」


「こちらを押すと?」


「出てくる」


「すごいですね」


「世界の法則とか語ってた奴が自販機に感動すんなよ」


「それとこれとは別です」


真顔で返された

どうやら本気らしい。


昨日までの俺なら、白髪の女が自販機を眺めている横を何も考えず通り過ぎていただろう。


今日はなぜか、その様子を見ている。


「なんか飲む?」


シエルがこちらを向いた。


「よろしいのですか?」


「百五十円くらいなら」


「ひゃくごじゅうえん…」


俺の手元にある財布を見てから、自分のワンピースへ視線を落とす。


左右を確認するように手を動かしたあと、シエルは静かに顔を上げた。


「金、持ってない?」


「必要ありませんでしたので」


「だと思った」


「申し訳ございません」


「だから謝らなくていいって」


小銭を入れる。


「好きなの選んで」


「では」


シエルが商品を眺める。

一向に押さない。


「そんな悩む?」


「種類が多いので」


「適当でいいだろ」


「では、こちらにします」


細い指がブラックコーヒーを指した。


「それ苦いぞ」


「問題ありません」


「ほんとに?」


「はい」


ボタンを押す

ガコン、と取り出し口から音が鳴った。


シエルの肩が跳ねる。


「びっくりした?」


「しておりません」


「したじゃん」


「しておりません」


「肩めっちゃ動いてたぞ」


「気のせいです」


意外と認めない


取り出した缶を渡す。


「熱いから気をつけて」


「ありがとうございます」


シエルは両手で缶を持った。

プルタブを開け、一口飲む。


そのまま缶を口元から離し、飲み口をじっと見つめた。


「どう?」


「美味しいです」


「嘘つけ」


「嘘ではありません」


「もう一口飲んでみ」


缶を見る


俺を見る


また缶を見る。


「苦いんだろ」


「……少々」


「やっぱり」


笑うと、シエルの眉間に小さく皺が寄った。


「笑わなくてもよろしいのでは?」


「問題ないって言ってたから」


「想定より少しだけ苦かっただけです」


「それを苦いって言うんだよ」


手を差し出す。


「貸して」


「ですが、レイ様に買っていただいたものです」


「だから俺が飲む」


「それは私が口を、」


缶を受け取り、そのまま一口飲んだ。

普通のブラックコーヒーだった。


「うん。普通」


シエルに目を戻す。

なぜか俺ではなく、缶を見ていた。


「何?」


「いえ」


「まだ飲みたい?」


「違います」


「じゃあ何?」


シエルは少しだけ顔を横へ向けた。


「何でもありません」


「変なの」


缶を持ったまま歩き出す。

数歩進んだところで、また後ろから声がした。


「レイ様」


「今度は何?」


「あちらは?」


振り返る。

シエルが見ていたのはコンビニだった。


「コンビニ」


「入っても?」


「俺、学校行く途中なんだけど」


「まだ時間はあるのでしょう?」


スマホを見る。


六時二十四分


始業まではかなりある。


「五分だけな」


「はい」


返事がさっきより早かった。


自動ドアが開く。

俺が店内へ入って数歩進んでも、シエルがついてこない。


振り返ると、入口に立ったままドアを見ていた。


「何してんの?」


「開きました」


「そりゃ開くよ」


「触れていません」


「自動だからな」


「なるほど」


シエルが一歩外へ出る。


ドアが開く


また入る


閉じかけたドアが開く


「何してんの?」


「確認を」


「楽しい?」


シエルはドアを一度見てから、こっちを向いた。


「少し」


「迷惑だから早く入って」


世界を見守っていたとかいう少女が、自動ドアで遊んでいる。


昨日の俺に話しても絶対に信じないだろう。


ようやく店内へ入ってきたシエルだったが、今度は弁当の棚で止まった。


次はお菓子


雑誌


アイス


数歩進むたびに足が止まる。


「レイ様」


「買わないぞ」


「まだ何も言っておりません」


「顔が買ってほしそうだった」


「どのような顔でしょうか」


「今の顔」


シエルは納得していないようだったが、視線だけはお菓子の棚から動かない。


「何欲しいの?」


いくつかの商品を見比べたあと、シエルが指を伸ばした。


いちご味の棒付きキャンディ。


「これを」


「子供か」


「綺麗でしたので」


「味じゃないんだ」


一つ取ってレジへ向かう。


途中、制服姿の男子高校生二人とすれ違う。


一人がシエルを見て、隣の友達の肩を叩く。


小声で何か話しながら、もう一度こちらを振り返った。


まあ、見るよな

俺だって知らない奴なら見る。


「レイ様?」


「ん?」


「どうされました?」


「別に」


会計を済ませ、外へ出る。

シエルにキャンディを渡すと、両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「百円くらいでそんな丁寧に言わなくていいよ」


「金額は関係ありません」


袋を開け、キャンディを口に入れる。

目が少し大きくなった。


「うまい?」


「はい」


返事が早い。


「コーヒーのときと全然違うじゃん」


「何がでしょう?」


「顔」


「同じです」


「いや、違う」


「同じです」


そう言いながら、口元はさっきより明らかに緩んでいる。


見ているうちに、なんとなく笑えてきた。


「何がおかしいのでしょうか」


「いや」


最初に会ったときは、もっと近寄りがたい奴だと思っていた。


俺を見るなり泣いて、


神様と呼んで、


世界が壊れているなんて話をして、


俺の知らない過去を知っていて、


何歳なのかも分からない。


そもそも人間なのかすら分からない…


なのに今は、百円のキャンディ一本で嬉しそうにしている。


「シエル」


「はい?」


「お前ってさ」


「はい」


「思ってたより普通なんだな」


シエルの足が止まった。

まずかったかと思ったが、怒った様子はない。


キャンディを持ったまま俺を見て、やがて目元の力を抜いた。


「普通、ですか」


「うん」


「それは、嬉しい言葉ですね」


「そう?」


「はい」


「なんで?」


シエルは再び歩き出した。


「秘密です」


「また秘密?」


「はい」


「お前、秘密多すぎない?」


「女性には秘密が多いものだと聞きました」


「絶対使い方違うだろ」


少し前を歩く白い髪が、朝の風に揺れる。

さっきまで俺は、こいつを落としたくなくて必死だった。


助かったと思ったら、たった一言に腹を立てた。


昔の俺を知っていると言われれば気になって、今はキャンディを食べている姿を見て笑っている。


数時間どころか、まだ出会ってから大して経っていない。


なのに胸の中では、次から次へと何かが動いている。


「レイ様?」


「何?」


「今、ため息をつかれました?」


「気のせい」


「そうでしょうか」


「そういうことにしといて」


理由を説明しろと言われても、俺にも分からない。だからそのまま歩いた。


学校が近づくにつれ、同じ制服を着た生徒が増えてきた。


当然、こちらを見る人間も増える。


「レイ様」


「何?」


「先ほどから、皆様がこちらを見ています」


「だろうな」


「なぜでしょう」


「お前が目立つから」


「先ほども言われました」


「あとさ」


周りに同じ学校の生徒がいるのを確認して、少し声を落とす。


「学校で俺のことレイ様って呼ぶのやめて」


「なぜですか?」


「面倒なことになるから」


「では、何とお呼びすれば?」


「普通にレイでいい」


シエルの歩く速度がわずかに落ちた。

何か言おうとして唇を開くが、すぐには声が出てこない。


「そんな嫌?」


「いえ。そうではありません」


「じゃあレイで」


シエルは俺の顔を見つめた。

それから、確かめるようにゆっくり口を開く。


「……レイ」


「何?」


たった二文字なのに、ずいぶん慎重だった。

シエルは一度目を伏せる。


「不思議ですね」


「名前呼んだだけだろ」


「はい」


顔を上げたシエルの口元が、ほんの少し緩んだ。


「とても、不思議です」


意味は分からなかった。

ただ、また歩き始めたシエルとの距離が、さっきより少し近い。


一歩離れていたのが、半歩になった。


それだけだった。

なのに妙に気になって、俺は少しだけ歩く速度を上げた。


「レイ?」


「何でもない」


後ろからシエルの足音が追いついてくる。

結局、距離はすぐ元に戻った。


「着いたぞ」


校門の前で立ち止まる。

シエルは俺の横から校舎を見上げた。


「ここが、学校」


「これが学校…」


何の変哲もない県立高校だ。

毎日通っている俺には、特別なものなんて何もない。


それでもシエルは校舎をじっと眺めている。


「そんな珍しい?」


「レイは、ここで過ごしているのですね」


「まあ」


「友達と話して、授業を受けて、昼食を食べて」


「寝ることもある」


シエルがこちらを見る。


「授業中にですか?」


「そこは流して」


「よくありません」


「急にまともなこと言うじゃん」


シエルが小さく笑った。


「おい、レイ」


後ろから声が飛んできた。

振り返ると、同じクラスの男子が立っていた。


「おはよ」


「お、おはよ」


挨拶を返した直後、そいつの視線が俺の横へ移る。


シエルを見る。


俺を見る。


もう一度シエルを見る。


眉がゆっくり上がっていく


「誰?」


「ほら来た」


「何が?」


「こっちの話」


「お前、朝から何してんの?」


「俺も説明してほしい」


「レイ?」


シエルが横から顔を覗き込んでくる

友人の目が少し大きくなった。


「レイ?」


「違う」


「何が違うんだよ」


「知らん」


「お前、彼女いたの?」


「いない」


即答すると、シエルが首を傾げた。


「では、私は何なのでしょう?」


「シエルは今考えなくていい」


「ですが」


「俺もまだ分かってないから」


友人が俺とシエルを交互に見る。


「余計気になるんだけど」


「俺の方が気になってる」


「どういう関係?」


「だから俺が知りたいって」


シエルが口を開く。


「レイ様とは、長い間…」


「待って」


反射的に止める。


「まずレイ様に戻ってる」


「あっ」


「あと今、『長い間』って言った?」


「はい」


「お前ら今日会ったんじゃないの?」


友人が食いついてくる。


「説明すると長い」


「めちゃくちゃ気になる」


「安心しろ。俺もだ」


嘘じゃない。

シエルがどれほどの時間、俺を探していたのか。


数年なのか、数十年なのか、もっと長いのか

俺はまだ知らない。


「とにかく、俺は学校あるから」


「はい」


返事をしたシエルを見て、そこで一つ問題に気づいた。


連れてきたはいい。

こいつ、どうするんだ。


「シエルは?」


「こちらでお待ちします」


「ここで?」


「はい」


「学校終わるまで?」


「そのつもりです」


「何時間あると思ってんだよ」


「問題ありません」


「あるだろ」


シエルは本当に何でもないことのように答えた。


「以前は、もっと長く待っておりましたので」


その言葉に引っかかった。


「もっと長く?」


シエルの目がわずかに伏せられる。


「今のは忘れてください」


「無理だろ。自分からめちゃくちゃ気になること言ったじゃん」


「いずれ、お話しします」


「いずれっていつ?」


「その時が来れば」


「一番信用できないやつ」


シエルは困ったように笑うだけだった。

また俺の知らない時間だ

シエルだけが覚えている、俺との時間。


さっき聞いた。


『私は覚えていますから』


その「覚えている」の中には、一体どれくらいの俺がいるんだろう。


聞いてみようとした。

けれど、その前にシエルの表情が変わった。


笑みが消えた。


「シエル?」


呼んでもこちらを見ない。

淡い青色の瞳は、俺の肩越しに校舎を捉えている。


キャンディを持つ手も止まっていた。


「どうした?」


視線を追うと三階窓際に一人の女子生徒が立っていた。


黒い髪

うちの制服

顔に見覚えはない。


それだけなら、どこにでもいる生徒だった。

なのに、なぜか目を逸らせない。


女子生徒はこちらを見ている。


いや、少し違う。

視線の先にいるのは、俺じゃない。


「シエルを見てる……?」


隣から返事はない。

女子生徒の唇がゆっくり動いた。


距離がある

声なんて届くはずがない。


それでも、何と言ったのかだけは分かった。


『――見つけた』


背中に冷たいものが走った。


「え?」


瞬きをする


ほんの一瞬だった。


もう一度三階を見る。


誰もいない。


窓の向こうには教室が見え、カーテンだけが朝の風を受けて揺れている。


「消えた?」


隣を見る。

シエルはまだ、誰もいない窓を見つめていた。


「今の奴、誰?」


シエルの指が白いワンピースの裾を掴む。

少しずつ力が入り、生地に細かな皺が寄っていく。


「分かりません」


「でも、今の反応…」


「本当に分からないのです」


シエルが俺を見る。


初めて会ったとき


俺を神様と呼んだとき


欠損に落ちかけたとき


どのときとも違う顔だった。


「ですが、レイ」


「何?」


「あの方には、近づかないでください」


「なんで?」


シエルは答えない。

代わりに、もう一度三階へ視線を戻した。


俺も窓を見る、いつもと変わらない校舎。


生徒の話し声


自転車のブレーキ音


校門の前で交わされる朝の挨拶


見慣れた景色のはずなのに、三階の窓だけが妙に気になった。


空の亀裂


存在しなかった路地


世界から消えかけた空間。


それだけでも十分意味が分からないのに、今度は俺が毎日通っている学校に、シエルを知っているかもしれない奴がいる。


しかもシエル自身は、そいつを知らないと言った。


「なあ、シエル」


「はい」


「あいつさ」


誰もいない窓から目を離す。


「俺じゃなくて、お前を見てたよな」


シエルの指が、裾を掴んだまま止まった。


「……はい」


小さな返事だった

それ以上は聞かなかった。

聞いたところで、今のシエルにも答えはない。


ただ一つだけ分かる。

世界がおかしくなっているのは、もう空の上でも、知らない路地の奥でもない。

俺が毎日歩いていた場所まで来ている。


いつも通りだったはずの日常が、少しずつ形を変え始めていた。

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