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日常に潜む影

少女が消えた。そう思った。

ほんの一瞬、目を離しただけだった。


校舎の三階。

窓際に立っていた黒髪の少女は、もうどこにもいない。


「……何だったんだ?」


俺は窓を見上げたまま呟いた

隣では、シエルが黙っていた。

さっきまでの柔らかい表情が消えている。


白い指が、服の裾を強く握っていた。


「シエル?」


「……はい」


「知ってるんだろ、あの女」


「……」


返事がない。

視線も合わせようとしない。


「おい」


もう一度呼ぶ。

シエルがゆっくり顔を上げた。


「すみません」


「何が?」


「今は、何も聞かないでください」


「は?」


「お願いします」


いつものシエルなら、何を聞かれても何かしら答える。


分からないことは「分かりません」と言う。

知らないことなら、そう言う。

でも今は違った。


明らかに何かを知っている。

それなのに、頑なに言おうとしない。


「……あいつ、誰なんだよ」


「分かりません」


「嘘だろ」


思わず声が強くなった。

シエルの肩が小さく揺れる。


「分かりません」


同じ言葉だった

けれど今度は、さっきとは違った。

何かを隠すために吐き出した言葉に聞こえた。


「じゃあ、なんでそんな顔してんだよ」


「……」


「俺には何も分からないんだぞ」


世界が止まった事も、欠損が起きた事も、

自分が神だった事も、お前の事も。

全部、俺だけが何も知らない。


それなのに、目の前にいるシエルだけは何かを知っている。その状況が、妙に腹立たしかった。


「俺に言えないことがあるなら、そう言えよ」


「……言えません」


「なんで」


「言ってはいけないからです」


「誰に?」


シエルは答えなかった。

代わりに、俺の手を取った。


「レイ様」


「……何だよ」


「学校へ行ってください」


「は?」


「今日は、普通に過ごしてください」


「お前は?」


「ここにいます」


シエルは校門の外を指した。


「レイ様が戻られるまで、ここで待っています」


「いや、そうじゃなくて」


俺はシエルを見る。


「さっきの女が何なのか聞いてる」


「……」


「シエル」


名前を呼ぶと、彼女の目が揺れた。


「私は」


少しだけ間を置いて。


「レイ様を、あの人に会わせたくありません」


初めてだった。

シエルが、はっきりと誰かを拒んだのは。


「理由は?」


「今は言えません」


「またそれかよ」


「すみません」


シエルは俯いた。

その姿を見ていると、それ以上責める気にはなれなかった。


「……分かった」


俺は校門へ向き直る。


「でも、帰ってきたら全部聞くからな」


「はい」


「絶対だぞ」


「……はい」


歩き出す。数歩進んでから振り返った。

シエルはまだそこにいた。


俺を見ている。

その顔は、昨日までとは違っていた。


心配している。それだけじゃない。

何かを恐れている。


俺はその理由を知らない。

だからこそ、気になった。


校舎へ入る。


いつもの廊下。


いつもの教室。


いつもの朝。


なのに、今日は何もかもが落ち着かなかった。

あの少女のことが頭から離れなかった。


黒い髪、冷静な目。

そして、シエルを見た瞬間の表情…


あいつはシエルを知っている。

たぶん、俺よりずっと前から。

それだけは何となく分かる。


「天城」


「……はい」


「ここ、答えてみろ」


教師の声で我に返る。

黒板を見る。数学の問題だ


「……分かりません」


「珍しいな。お前なら分かると思ったんだけど」


教室から小さな笑いが起きる。

俺も適当に笑った。けれど、頭の中では別のことを考えていた。


シエルは、俺に会ったとき泣いた。

あの少女は、シエルを見て消えた。

そしてシエルは、あの少女を見た瞬間からおかしくなった。


何がある?

俺の知らない所で何が繋がっている?


そのとき。

窓の外に、白いものが見えた。

校門の外、シエルが立っている。

ずっと動かない。ただ、校舎を見上げていた。


俺と目が合う

シエルが小さく手を振った。


俺も手を上げる。それだけなのに。

胸の奥が、少しだけ軽くなった。


理由は分からなかった。


ただ。

あそこにいると分かるだけで、安心した。

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