白と黒
窓の向こうで、シエルが立っていた。
校門から少し離れた場所。白いワンピースの裾が風に揺れ、長い白髪が肩から背中へ流れている。
周囲を行き交う生徒たちが、時折彼女に視線を向けていた。
それでもシエルは気にする様子もなく、校舎を見上げている。
落ち着いているように見えた。
少なくとも、さっき黒髪の少女を見つけたときのような動揺は感じられない。
けれど、俺にはどうしても引っかかっていた。あのときのシエルの顔。少女が現れた瞬間、シエルは明らかに様子を変えた。
声が硬くなり、指先が震え、俺を庇うように前へ出た。 あんなシエルを見たのは初めてだった。
「……何なんだよ、あいつ」
小さく呟き、窓から視線を外す。
黒髪の少女は、もうどこにもいない。
それなのに、最後に向けられた視線だけが、妙にはっきりと頭に残っていた。
『あなたが、どうして人間になったのか』
俺が人間になった理由。そもそも、俺が神様だったという話自体、まだ完全に信じたわけじゃない。
世界の時間を止めたこと。誰も認識できない異常を目にしたこと。初めて会ったはずのシエルの名前を、なぜか知っていたこと。
どれも普通じゃない。普通じゃないからといって、すべてが神様に繋がるとは限らないだろう。そう考えたいのに、あの少女の言葉を思い出すと、どうにも落ち着かなかった。
「天城、さっきから何見てんの?」
「ん?」
隣の席から声をかけられ、俺は振り返った。
「いや、別に」
「校門のとこ、めっちゃ綺麗な子おるけど。知り合い?」
「……まあ、一応」
「彼女?」
「違う」
即答すると、クラスメイトはつまらなそうに肩をすくめた。
「なんや、ちゃうんか」
「なんでそうなるんだよ」
「ずっと見てたやん」
「見てねえよ」
「はいはい」
適当に流され、そいつは友人のところへ戻っていった。
俺はもう一度、窓の外を見る。
シエルは変わらず、校舎の方を見上げていた。ふと、彼女と目が合った。
シエルは一瞬だけ目を丸くし、それから小さく手を振った。
……何してんだ、あいつ。
思わず眉間を押さえる。周囲の生徒がこちらを見ているのに、本人はまったく気にしていないらしい。
俺は小さく手を振り返してから、窓辺を離れた。授業が終わるまで、まだ時間がある。今は余計なことを考えず、目の前のことに集中するべきだ。
そう決めたはずなのに、黒髪の少女の言葉は、何度も頭の中に浮かんできた。
――あなたは、何かを望んだから、人間になったんだよ。
俺は何を望んだ?
何を手に入れるために、何を捨てた?
答えは出ない。
ノートに視線を落としても、文字が頭に入ってこなかった。
◇
放課後。
校門を出ると、シエルは朝とほとんど同じ場所に立っていた。俺の姿を見つけると、すぐにこちらへ歩いてくる。
「レイ様、お疲れさまでした」
「……ずっとそこにいたのか?」
「はい」
「一人でよく何時間も待てたな」
「周囲を観察しておりましたので、退屈ではありませんでした」
「何を観察してたんだよ」
「人間の皆様が、同じ場所に集まって、同じ時間に出てくることを」
「学校だからな」
「不思議な仕組みですね」
「今さらそこに感心するのか……」
いつもの調子だった。丁寧で、少しずれていて、妙なところに興味を持つ。だからこそ、昼間の彼女との違いが際立っていた。
「なあ、シエル」
「はい?」
「昼間のことなんだけど」
彼女の足が止まった。ほんの一瞬。けれど、その反応だけで十分だった。
「黒髪の女の子。お前、あいつを知ってるんだろ?」
シエルはすぐには答えなかった。夕方の風が、彼女の白い髪を揺らす。
「……はい」
やがて、小さな声が返ってきた。
「やっぱりな。どういう関係なんだ?」
「申し訳ありません。今は、お話しできません」
「またそれか」
「はい」
「理由くらい教えてくれてもいいだろ」
シエルは視線を落とした。その手が、服の裾をそっと握る。
「話してはいけないからです」
「誰に?」
「……分かりません」
「分からない?」
「誰かに口止めされている、という意味ではありません。ただ……」
シエルは言葉を探すように、ゆっくりと顔を上げた。
「私が話すことで、レイ様が何かを思い出してしまうかもしれない。それが、怖いのです」
胸の奥が、わずかにざわついた。
「思い出したら、何かまずいことでもあるのか?」
「分かりません」
「お前でも分からないことがあるんだな」
「私にも、分からないことはあります」
シエルは少しだけ困ったように笑った。
「ですが、一つだけ確かなことがあります」
「何?」
「私は、今のレイ様を失いたくありません」
その言葉に、俺は返事をできなかった。失いたくない。以前にも、似たような言葉を聞いた気がする。けれど、それが誰の声だったのか、思い出せない。
「……俺は、どこにも行かないだろ」
「はい。今は、そうですね」
「今はってなんだよ」
「すみません」
シエルは謝ったが、それ以上は何も言わなかった。俺は息を吐き、再び歩き出した。聞きたいことは山ほどある。
それでも、彼女が今にも泣き出しそうな顔をしているのを見ると、無理に問い詰める気にはなれなかった。
……いや。
泣き出しそう、というのは違うかもしれない。シエルは泣いていない。ただ、いつもより少しだけ、俺の顔を見ようとしなかった。
◇
帰り道。
住宅街へ続く歩道を歩いていると、頭上から紙が一枚、ひらりと落ちてきた。
「ん?」
風に流され、俺の足元へ滑ってくる。拾い上げてみると、何かの書類らしかった。白い紙には、見慣れない文字と数字が並んでいる。
その中に、妙に目を引く一文があった。
『管理領域・第七』
続く文字を目で追う。
『管理者不在期間――』
その先は、黒く塗り潰されていた。さらに下には、こう記されていた。
『代行権限保持者――シエル・アウレリア』
「……は?」
俺は隣を振り返った。
「シエル、これ」
彼女は紙を見た途端、表情を変えた。
「レイ様、それをどこで……?」
「今、落ちてきたんだよ。これ、何なんだ?」
「お渡しください」
「説明が先だ」
「お願いです」
いつになく強い声だった。俺は思わず手を止めた。シエルは紙を見つめている。
その目には、昼間の少女を見たときとは別の緊張が浮かんでいた。
「……それは、今の世界に存在するはずのないものです」
「存在しない?」
「はい」
「じゃあ、なんでお前の名前が書いてあるんだよ」
シエルは答えなかった。紙の端が、俺の指の間でかすかに震えた。次の瞬間。
「それ、私のものだよ」
背後から声がした。振り返る。道路の反対側に、黒髪の少女が立っていた。
昼間と同じ制服。風に揺れる黒い髪。こちらを見つめる、静かな瞳。
まるで、ずっと後をつけていたかのように。
「……お前、何なんだよ」
少女は答えず、俺の手元にある紙を指差した。
「返してくれる?」
「これ、お前のなのか?」
「そう。少し困っていたところなんだ」
「じゃあ、先に説明しろ。なんでこんなものを持ってる?」
「それはね…」
少女は一度、言葉を切った。そして、俺ではなく、シエルを見た。
「彼女が、一番よく知っているはずだよ」
「……っ」
シエルの手が、俺の袖を掴んだ。強く。振りほどこうと思えば、簡単にできる程度の力だ。彼女の指先は微かに震えているのが伝わる。
「レイ様。お願いですから、その紙を渡してください」
「シエル……」
「今は、何も知らないままでいてください」
その声は、いつもの彼女からは想像できないほど弱々しかった。
俺は紙とシエルを交互に見た。知らないままでいてほしい。黒髪の少女も、シエルも、俺に何かを隠している。
そして、二人とも俺が何かを思い出すことを恐れている。
なぜだ。俺が思い出したら、何が起こる?
「ん〜、早くそれ返してくれるかな?」
「……悪いけど、それは無理だ」
俺は紙を握り直した。
「俺に関係あることなんだろ。だったら、俺にも知る権利がある」
少女は、少しだけ目を細めた。
「うん。そう言うと思った」
彼女は嬉しそうに笑ったわけでも、困ったように笑ったわけでもなかった。ただ、俺がそう答えることを、最初から知っていたような顔をしていた。
「なら、一つだけ教えてあげる」
少女が口を開く。
「世界が壊れ始めているのは、神様がいなくなったから」
それは、シエルから何度も聞いた話だった。
「でもね。神様がいなくなった理由と、神様が人間になった理由は、別の話なんだよ」
風が止んだ。遠くを走る車の音が、やけに大きく聞こえる。
「あなたが神様だったこと。それだけなら、いつか思い出せば済む話だった」
少女は一歩、こちらへ近づいた。
「でも、あなたが人間になった理由を思い出したら――」
そこで言葉が途切れた。少女の視線が、俺の背後へ向けられる。
つられて振り返ると、夕暮れの空に細い亀裂が走っていた。ガラスに傷が入ったような、見覚えのある光景。
亀裂は音もなく伸び、空の一角を切り取るように広がっていく。
「……またかよ」
俺が呟いた瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。視界が揺れる。今度は、さっきよりも鮮明だった。
青い星。
果てのない暗闇。
そして、俺のすぐ隣に立つ誰か。
その人物の顔は見えない
それでも、声だけははっきりと聞こえた。
『もし、俺がいなくなったら――この世界を頼む』
同じ言葉。
同じ声。
今度は、その言葉を聞いたときの感覚まで、わずかに蘇った。
誰かを頼ったことなんて、あっただろうか、誰かに世界を任せるほど、俺は無責任だったのだろうか。
違う。そう思った瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
これは、無責任に誰かへ押しつけた言葉じゃない。もっと大切な何かを、託した言葉だった。
「レイ様!」
シエルの声で、意識が現実に引き戻される。彼女が俺の腕を支えていた。その顔は、今にも泣き出しそうだった。
「……思い出したんですか?」
「いや……まだ、全部じゃない」
俺は額を押さえたまま答えた。
「でも、少しだけ分かった気がする」
自分が何者だったのか。
何を望んで人間になったのか。
その答えには、まだ届かない。
ただ、かつての俺は世界を捨てたかったわけじゃない。むしろ、世界を大切に思っていた。
だからこそ、誰かに託したのだ。
――誰に?
そこだけが、どうしても思い出せなかった。
「……今は、それでいいよ」
黒髪の少女が言った。
「焦らなくていい。いつかちゃんと思い出すから」
「お前は……何を知ってるんだ?」
「私は、あなたが選んだ結果を知っているだけ」
「選んだ結果?」
「そう」
少女はシエルを見た。
「そして、彼女も」
シエルは何も言わない。ただ、俺の腕を掴む手に、少しだけ力を込めた。
「白が正しいとは限らないし、黒が間違っているとも限らない」
少女は、今度こそ俺を見つめた。
「どちらを信じるかは、あなたが決めて」
夕暮れの空に走った亀裂が、ゆっくりと閉じていく。数秒後には、何事もなかったかのように元の空へ戻っていた。
少女はそれを見届けると、静かに踵を返した。
「待てよ。まだ話は終わってない」
「ごめんね。また今度」
「おい!」
呼び止めたときには、もう少女の姿はなかった。今度も、消える瞬間を見逃した。
俺はしばらく、その場から動けなかった。手元の紙は、いつの間にか真っ白になっていた。
文字も、数字も、シエルの名前も、何一つ残っていない。
「……何だったんだ、今の」
「分かりません」
シエルは静かに答えた。
「嘘つけ」
「……」
「全部は知らなくても、何かは知ってるだろ」
彼女は目を伏せた。
否定しなかった。
それが答えだった。
俺は白紙になった紙を丸め、ポケットにしまった。
「分かった。今すぐ話せないなら、無理には聞かない」
「レイ様……」
「でも、いつか全部話してもらう。お前のことも、あいつのことも、俺自身のことも」
シエルはしばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと頷いた。
「……はい。お約束します」
俺たちは再び歩き出した。夕焼けに染まる道を、二人並んで進んでいく。隣にいる少女は白い髪をしていた。さっきまで目の前にいた少女は、黒い髪をしていた。
白と黒。対照的な二人。けれど、俺にはまだ分からない。どちらが何を守ろうとしているのか。どちらが何を恐れているのか。そして、二人が見つめている俺は、本当は何者なのか。
ただ一つ、確かなことがある。俺の知らないところで、何かが動き始めている。
世界の異常も。
シエルの秘密も。
あの少女の目的も。
すべては、俺が忘れてしまった何かに繋がっている。それでも今はまだ、答えを急ぐ必要はない。
俺は天城レイだ。学校に通い、ゲームをして、母さんに部屋を片づけろと怒られる、ただの高校生だ。
……少なくとも、今の俺はそう思っている。
◇
誰もいなくなった校舎の一室。夕暮れの光が、机の上を赤く染めていた。黒髪の少女は窓辺に立ち、遠ざかる二人の背中を見つめていた。
「……まだ、間に合うかな」
返事をする者はいない。少女は自分の手のひらを見つめた。そこには何もない。けれど、かつて確かに握っていたものの感触だけが、残っているような気がした。
「今度は、間違えないでね」
少女は目を伏せる。白い少女と、黒い少女。二人の願いは、同じではない。それでも、どちらも同じ一人の少年を見つめていた。
そして、その少年はまだ知らない。自分が選んだものが、いつか世界の運命を左右することを。
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