表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/15

第三節 ― 夜だけ来る船

 二つ目の鐘が鳴るころ、ヴァル=クレイアの港は、昼の顔をほとんど失っていた。


 正規の桟橋には、まだ黒晶灯が並んでいる。

 港番の巡回灯も動いている。

 酒場の明かりも、夜市の声も、完全に消えたわけではない。


 けれど、それらはすべて、港の中心に残された光だった。


 そこから南へ外れるにつれ、灯は減っていく。


 人の声も、荷車の音も、鎖の鳴る音も、ひとつずつ背後へ遠ざかっていく。

 やがて聞こえるのは、波が岩を噛む音と、風が断崖の隙間を抜ける音だけになった。


 ノアは、薄い外套の襟を押さえながら、南へ歩いていた。


 灯りは持っていない。


 ゼブ=カランに言われた通りだった。


 灯りを持たず、二つ目の鐘のあと、黒い岩柱が三本並ぶ場所を越える。


 その言葉を、ノアは何度も頭の中で繰り返した。


 足元は悪い。


 港の石畳は途中で途切れ、そこから先は、潮に削られた黒い岩場に変わっていた。岩と岩の間には海水が残り、苔のようなぬめりが靴底を滑らせる。


 少しでも足を踏み外せば、岩の隙間へ落ちる。


 それでも、ノアは進んだ。


 背後で、かすかに港番の警笛が聞こえた気がした。


 ノアは反射的に振り返る。


 遠く、港のほうで黒晶灯の光が動いている。

 巡回かもしれない。

 リィゼかもしれない。

 あるいは、自分を連れ戻しに来る誰かかもしれない。


 胸の中で、仮登録札が揺れた。


 ノア=リント。


 違う。


 ノアは前を向いた。


 自分は悪いことをしているわけではない。

 帰るための道を探しているだけだ。

 誰かの許可を待っていたら、いつまでもここに縛られる。


 そう思おうとした。


 けれど、足音を殺している自分に気づくたび、胸の奥が冷たくなる。


 まるで逃げているようだった。


 まるで、自分が本当に漂着者で、保護対象で、名の欠けた危うい者であると認めてしまっているようだった。


 ノアは唇を噛んだ。


 違う。


 確かめるだけだ。


 南入江に船があるのか。

 その船が本当に外界へ向かうのか。

 自分はまだ帰れるのか。


 それを、自分の目で確かめるだけだ。


 黒い岩柱が見えた。


 三本。


 断崖から突き出すように並んだそれは、遠目には巨大な獣の爪のようだった。

 月明かりは薄く、空は雲に覆われている。それでも、岩柱の輪郭だけは闇より黒く、はっきりと見えた。


 その先に、岩道があった。


 潮が引いたときだけ現れる道。


 ヴァル=クレイアの南の海が、細く裂けたように開き、濡れた岩肌を夜の中へ差し出している。潮溜まりには黒い水が残り、小さな泡が弾けては消えていく。


 ノアは足を踏み入れた。


 すぐに靴底が滑った。


 片手を岩壁につき、身体を支える。

 掌に冷たい水とざらついた貝殻の感触が残った。


 潮の音が近い。


 右手も左手も黒い水だ。

 岩道は、人ひとりが通るのがやっとの幅しかない。


 戻れる。


 今なら、まだ戻れる。


 その考えが一瞬、頭をよぎった。


 詰所に戻れば、ミミルが驚いた顔をするかもしれない。

 バルドは眉をひそめるかもしれない。

 リィゼは、何も言わずに粥を押しつけてくるかもしれない。


 それは、ひどく腹立たしくて、ひどく安全な想像だった。


 ノアは奥歯を噛みしめる。


 安全だからこそ、戻れない。


 そこに戻れば、自分はまたノア=リントとして朝を迎える。

 それを受け入れることになる。


 ノアは先へ進んだ。


 岩道の先で、海が少し開けた。


 そこが南入江だった。


 断崖が海へ崩れ落ちた隙間に、潮が入り込んでいる。

 外からはほとんど見えない小さな入り江。

 空は狭く、月は雲の向こうで白く滲んでいた。


 そして、その中央に船がいた。


 小型の船だった。


 船体は黒い。


 けれど、波に揺れるたび、船腹だけが白く浮かび上がる。

 清潔な白ではない。

 月に照らされた魚の腹のような、どこか生々しい白。


 船首には、翼を畳んだ鴉の飾りがある。

 その腹もまた、白く塗られていた。


 《白腹鴉》号。


 ノアは息を呑んだ。


 本当にあった。


 噂ではなかった。

 ゼブは嘘をついていなかった。


 その事実に、胸の奥で小さな希望が灯る。


 だが、すぐに別の感覚がそれを覆った。


 船は静かすぎた。


 客を乗せる船なら、もっと灯りがあるはずだった。

 出航前なら、船員の声や、荷を積む音や、誰かが急ぐ足音があってもいい。


 だが、《白腹鴉》号は、まるで息を殺しているようだった。


 船縁に立つ者たちは、皆、顔の下半分を布で覆っている。

 船員なのか、番人なのかも分からない。


 ノアが岩場の端で足を止めると、背後から声がした。


「ノア=リントさん」


 ノアは振り返らずに答えた。


「リントベルだ」


「ええ、もちろん。ノア=リントベルさん」


 ゼブ=カランが、岩陰から姿を現した。


 夕方に見たときと同じ、整った髪。

 外界風の襟高い上着。

 薄い革手袋。

 人当たりのよい笑み。


 だが、夜の岩場に立つその姿は、昼間よりもずっと不自然だった。


 潮風の中でも乱れない髪。

 濡れた岩場でも汚れない裾。

 この場所にいるのに、この場所の湿り気をまとっていない。


 ノアは、ゼブの笑みを見ながら、初めてそれを気味悪く思った。


「時間通りですね。賢明です」


「……本当に出るんだな」


「もちろん。潮は待ってくれませんから」


 ゼブは入江の船へ目を向けた。


「こちらへ。小舟を寄せています」


 岩場の下に、小舟が一艘つけられていた。

 黒く塗られた底の浅い舟で、船員がひとり、無言で櫂を持っている。


 ノアは乗り込む前に、ふと入江の奥を見た。


 黒い岩に、古い荷札がいくつも引っかかっている。


 潮に削られ、紐は毛羽立ち、文字はほとんど読めない。

 だが、そのうち一枚に、黒い染みが残っていた。


 木札の端から中心へ、濡れたインクのように滲んだ染み。


 ノアはなぜか、それを見て胸騒ぎを覚えた。


 漂着者帳。

 黒い潮染み。

 消えたはずの名。


 そんな言葉が脳裏をかすめる。


「どうしました」


 ゼブが声をかけた。


「……いや」


 ノアは首を振った。


 古い荷札ひとつに怯えている場合ではない。


 小舟は音を殺して《白腹鴉》号へ向かった。


 海は近かった。


 黒い水が舟べりのすぐ下で揺れ、櫂が水を掻くたび、重い匂いが立ち上がる。


 塩。

 油。

 古い木。

 それから、長く閉じ込められていたものの匂い。


 ノアは眉を寄せた。


「この匂いは」


「古い船ですから」


 ゼブはあっさり答える。


「正規航路の船ほど、よい香油は使えません」


 小舟が船腹についた。


 上から濡れた板が下ろされる。

 桟橋ではない。

 岩場から船へ渡すためだけの、ただの板だった。


 ノアが足を乗せると、低く軋んだ。


 船員は手を貸さない。


 客として迎えられているのではない。


 その感覚が、足元からゆっくりと上がってくる。


 甲板へ上がると、潮と油と、古い木箱の匂いが濃くなった。


 積み荷が多すぎる。


 ノアはすぐにそう思った。


 小型船の甲板に、箱が積まれすぎている。

 縄で縛られた木箱。

 布をかぶせられた籠。

 油紙に包まれた細長い荷。

 外界語とメギド=ノクス語が混じった荷札。


 そのどれもが、客船の荷には見えなかった。


 中には、空気穴のような小さな隙間が開いた箱もある。

 その前には、わざと見えないように布が掛けられていた。


 ノアは眉をひそめる。


「乗客は、私だけですか」


「今夜は少ないですね」


 ゼブは涼しい顔で答えた。


「それに、先に乗っている方もいます」


「どこに」


「船倉に。酔いやすい方には、下のほうが楽な場合もありますから」


 言い方は自然だった。


 だが、ノアの中で違和感が消えない。


 先に乗っている。

 船倉に。

 人を、荷と同じ場所へ?


 ゼブは懐から折りたたまれた契約片を取り出した。


「では、出航前にこちらへ署名をお願いします」


「契約書か」


「乗船同意です。表の航路ではありませんから、こちらも最低限の確認が必要でして」


 ノアは契約片を受け取った。


 紙は薄いが、潮に強い油紙だった。細かな文字がびっしりと書き込まれている。

 外界語が中心だ。ところどころ、メギド=ノクスの文字が混ざっている。


 船灯りは暗く、文字は小さい。


 それでも、ノアは読み始めた。


 乗船。

 移送。

 同意。

 身元不定。

 保護放棄。

 引渡し。


 指が止まる。


 引渡し。


 ノアは顔を上げた。


「これは、帰還の契約じゃない」


 ゼブは笑った。


「外界へ移送するための書式です。言葉が少し硬いだけですよ」


「引渡しと書いてある」


「外界側の担当者へ、です」


「担当者?」


「あなたの身分を回復するには、確認する者が必要でしょう。港へ着いた途端、どうぞご自由に、というわけにはいきません」


 もっともらしい説明だった。


 けれど、ノアは契約片から目を離せない。


 保護放棄。


 その文字も引っかかった。


「保護放棄とは何だ」


「港番の保護を離れて、自分の意思で乗船するという意味です」


「それを書いたら、私は――」


「自由になります」


 ゼブは言った。


 あまりにも滑らかに。


「港番の帳からも、仮呼びからも、いったん外れる。あなたは自分の意思で外界へ戻るのです」


 仮呼びから外れる。


 その言葉に、ノアは揺れた。


 ノア=リント。


 あの名から外れる。


 それは、いまノアが一番望んでいることだった。


 けれど、リィゼの言葉も同時に浮かぶ。


 ――仮呼びは檻じゃない。沈まないための浮き板だ。


 もし、これに署名したら。


 自分は浮き板を手放すことになるのか。


 ノアは唾を飲み込んだ。


「名前は、どこに」


 ゼブは契約片の下部を指した。


「ここです。名前が不安定な方は、港内仮登録名でも構いません」


「私の名前は不安定じゃない」


「もちろん」


 ゼブは微笑んだ。


「お好きな名で」


 ノアはペンを受け取った。


 油紙の上に、名前を書く欄がある。


 氏名。

 仮名可。

 身元不定者は、乗船符番号で代替可。


 身元不定者。


 その言葉に、腹の奥が熱くなる。


 違う。


 自分は身元不定者ではない。

 ノア=リントベルだ。


 ここに書いてやればいい。

 はっきりと。

 消えないように。


 ノアはペンを走らせた。


 ノア=リントベル。


 確かに書いた。


 だが、ベルの部分でペン先がひどく重くなった。


 油紙の上でインクが弾かれる。

 文字の線が途中で途切れ、黒ではなく、灰色の擦れた跡になる。


 ノアは息を止めた。


 紙が悪い。


 そう思おうとした。


 油紙だからだ。

 船灯りが揺れているからだ。

 手が冷えているからだ。


 だが、ゼブはその手元をじっと見ていた。


 笑みを浮かべたまま。


「ノア=リント、で十分ですよ」


「リントベルだ」


 ノアはもう一度、ベルの部分をなぞろうとした。


 そのときだった。


 甲板の下から、小さな音がした。


 こつん。


 木の内側を叩くような音。


 ノアは顔を上げる。


「今のは」


「波です」


 ゼブはすぐに答えた。


「船は揺れますから」


 こつん。


 また。


 今度は、もっと近い。


 ノアは布を掛けられた箱のほうを見る。


「……あの箱は」


「荷です」


 ゼブの声が、少しだけ低くなった。


「お客様が見るものではありません」


 お客様。


 その言葉だけが、妙に白々しく響いた。


 ノアは契約片を握ったまま、箱へ一歩近づく。


 船員のひとりが、すっと前に立ちはだかった。

 顔の下半分を覆った布の奥で、目だけがノアを見ている。


 感情のない目だった。


「どいてください」


 ノアは言った。


 船員は動かない。


 ゼブが静かに告げる。


「ノア=リントベルさん。余計なことを見れば、帰れなくなりますよ」


 その瞬間、ノアの背筋に冷たいものが走った。


 帰れなくなる。


 それは助言ではなかった。


 脅しだ。


 甲板の空気が変わった。


 さっきまで遠慮深く見えた船員たちが、いつの間にかノアの周囲に位置を取っている。


 船縁へ戻る道。

 渡し板へ向かう道。

 船倉への階段。


 すべて、塞がれている。


 ノアは、自分がすでに船の上で孤立していることに気づいた。


 そのとき、船倉の奥から声がした。


「……帰れるって、言われたのに」


 かすれた声だった。


 年齢も性別も、すぐには分からない。

 だが、人の声だった。


 ノアの手が止まる。


 ゼブの笑みが消えた。


 船員の一人が、素早く船倉のほうへ動く。


「今のは何だ」


「鼠でしょう」


「人の声だった」


「このあたりの鼠は、よく喋る」


 ゼブはまだ笑おうとした。


 だが、その笑みは薄く、張りついたものになっていた。


 ノアは契約片を握りつぶした。


「どけ」


 船員は動かない。


「どけ!」


 ノアは船員の腕を押しのけた。


 相手は一瞬だけよろめく。

 その隙に、ノアは布の掛けられた箱へ駆け寄った。


「やめなさい」


 ゼブの声が、初めて鋭くなる。


 ノアは止まらなかった。


 布を掴み、引き剥がす。


 現れたのは、粗末な木箱だった。


 荷箱にしては大きく、蓋は外から金具で留められている。


 板の隙間には、内側から引っかいた跡があった。


 何度も、何度も。


 爪が折れても、なお掻いたような細い傷。


 その隙間から、指が出ていた。


 細い指。

 汚れた爪。

 震えている。


 ノアは息を呑んだ。


「誰か、いるのか」


 箱の中から、かすかな息遣いが聞こえる。


「外界へ……帰れるって……」


 声は震えていた。


「言われたのに……」


 ノアの中で、何かが音を立てて切れた。


 ノアは箱の留め具に手をかける。


 金具は固い。潮で錆びている。

 それでも、力任せに引けば外せそうだった。


「開けるな」


 ゼブが言った。


 もう、優しい帰船屋の声ではなかった。


 ノアは振り返らない。


「これは荷じゃない」


「荷です」


「人だ」


「この船では、荷です」


 その言葉が、夜の甲板に落ちた。


 静かに。


 決定的に。


 ノアは振り返った。


 ゼブは笑っていなかった。


 船員たちが、一斉に短剣を抜く。


 金属が鞘を擦る音が、黒い海の上に細く響いた。


 刃は長くない。


 だが、狭い甲板では十分だった。


 ノアは箱の前に立ったまま、動けなかった。


 背後には、閉じ込められた誰かの息遣い。

 前には、短剣を持った船員たち。

 横には、黒い海。


 遠くの港灯りは、岩礁に遮られて見えない。


 ここは、帰り道ではなかった。


 ノアはようやく、そのことを理解した。


 理解してしまった。


 それでもノアは、箱の留め具から手を離さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ