第三節 ― 夜だけ来る船
二つ目の鐘が鳴るころ、ヴァル=クレイアの港は、昼の顔をほとんど失っていた。
正規の桟橋には、まだ黒晶灯が並んでいる。
港番の巡回灯も動いている。
酒場の明かりも、夜市の声も、完全に消えたわけではない。
けれど、それらはすべて、港の中心に残された光だった。
そこから南へ外れるにつれ、灯は減っていく。
人の声も、荷車の音も、鎖の鳴る音も、ひとつずつ背後へ遠ざかっていく。
やがて聞こえるのは、波が岩を噛む音と、風が断崖の隙間を抜ける音だけになった。
ノアは、薄い外套の襟を押さえながら、南へ歩いていた。
灯りは持っていない。
ゼブ=カランに言われた通りだった。
灯りを持たず、二つ目の鐘のあと、黒い岩柱が三本並ぶ場所を越える。
その言葉を、ノアは何度も頭の中で繰り返した。
足元は悪い。
港の石畳は途中で途切れ、そこから先は、潮に削られた黒い岩場に変わっていた。岩と岩の間には海水が残り、苔のようなぬめりが靴底を滑らせる。
少しでも足を踏み外せば、岩の隙間へ落ちる。
それでも、ノアは進んだ。
背後で、かすかに港番の警笛が聞こえた気がした。
ノアは反射的に振り返る。
遠く、港のほうで黒晶灯の光が動いている。
巡回かもしれない。
リィゼかもしれない。
あるいは、自分を連れ戻しに来る誰かかもしれない。
胸の中で、仮登録札が揺れた。
ノア=リント。
違う。
ノアは前を向いた。
自分は悪いことをしているわけではない。
帰るための道を探しているだけだ。
誰かの許可を待っていたら、いつまでもここに縛られる。
そう思おうとした。
けれど、足音を殺している自分に気づくたび、胸の奥が冷たくなる。
まるで逃げているようだった。
まるで、自分が本当に漂着者で、保護対象で、名の欠けた危うい者であると認めてしまっているようだった。
ノアは唇を噛んだ。
違う。
確かめるだけだ。
南入江に船があるのか。
その船が本当に外界へ向かうのか。
自分はまだ帰れるのか。
それを、自分の目で確かめるだけだ。
黒い岩柱が見えた。
三本。
断崖から突き出すように並んだそれは、遠目には巨大な獣の爪のようだった。
月明かりは薄く、空は雲に覆われている。それでも、岩柱の輪郭だけは闇より黒く、はっきりと見えた。
その先に、岩道があった。
潮が引いたときだけ現れる道。
ヴァル=クレイアの南の海が、細く裂けたように開き、濡れた岩肌を夜の中へ差し出している。潮溜まりには黒い水が残り、小さな泡が弾けては消えていく。
ノアは足を踏み入れた。
すぐに靴底が滑った。
片手を岩壁につき、身体を支える。
掌に冷たい水とざらついた貝殻の感触が残った。
潮の音が近い。
右手も左手も黒い水だ。
岩道は、人ひとりが通るのがやっとの幅しかない。
戻れる。
今なら、まだ戻れる。
その考えが一瞬、頭をよぎった。
詰所に戻れば、ミミルが驚いた顔をするかもしれない。
バルドは眉をひそめるかもしれない。
リィゼは、何も言わずに粥を押しつけてくるかもしれない。
それは、ひどく腹立たしくて、ひどく安全な想像だった。
ノアは奥歯を噛みしめる。
安全だからこそ、戻れない。
そこに戻れば、自分はまたノア=リントとして朝を迎える。
それを受け入れることになる。
ノアは先へ進んだ。
岩道の先で、海が少し開けた。
そこが南入江だった。
断崖が海へ崩れ落ちた隙間に、潮が入り込んでいる。
外からはほとんど見えない小さな入り江。
空は狭く、月は雲の向こうで白く滲んでいた。
そして、その中央に船がいた。
小型の船だった。
船体は黒い。
けれど、波に揺れるたび、船腹だけが白く浮かび上がる。
清潔な白ではない。
月に照らされた魚の腹のような、どこか生々しい白。
船首には、翼を畳んだ鴉の飾りがある。
その腹もまた、白く塗られていた。
《白腹鴉》号。
ノアは息を呑んだ。
本当にあった。
噂ではなかった。
ゼブは嘘をついていなかった。
その事実に、胸の奥で小さな希望が灯る。
だが、すぐに別の感覚がそれを覆った。
船は静かすぎた。
客を乗せる船なら、もっと灯りがあるはずだった。
出航前なら、船員の声や、荷を積む音や、誰かが急ぐ足音があってもいい。
だが、《白腹鴉》号は、まるで息を殺しているようだった。
船縁に立つ者たちは、皆、顔の下半分を布で覆っている。
船員なのか、番人なのかも分からない。
ノアが岩場の端で足を止めると、背後から声がした。
「ノア=リントさん」
ノアは振り返らずに答えた。
「リントベルだ」
「ええ、もちろん。ノア=リントベルさん」
ゼブ=カランが、岩陰から姿を現した。
夕方に見たときと同じ、整った髪。
外界風の襟高い上着。
薄い革手袋。
人当たりのよい笑み。
だが、夜の岩場に立つその姿は、昼間よりもずっと不自然だった。
潮風の中でも乱れない髪。
濡れた岩場でも汚れない裾。
この場所にいるのに、この場所の湿り気をまとっていない。
ノアは、ゼブの笑みを見ながら、初めてそれを気味悪く思った。
「時間通りですね。賢明です」
「……本当に出るんだな」
「もちろん。潮は待ってくれませんから」
ゼブは入江の船へ目を向けた。
「こちらへ。小舟を寄せています」
岩場の下に、小舟が一艘つけられていた。
黒く塗られた底の浅い舟で、船員がひとり、無言で櫂を持っている。
ノアは乗り込む前に、ふと入江の奥を見た。
黒い岩に、古い荷札がいくつも引っかかっている。
潮に削られ、紐は毛羽立ち、文字はほとんど読めない。
だが、そのうち一枚に、黒い染みが残っていた。
木札の端から中心へ、濡れたインクのように滲んだ染み。
ノアはなぜか、それを見て胸騒ぎを覚えた。
漂着者帳。
黒い潮染み。
消えたはずの名。
そんな言葉が脳裏をかすめる。
「どうしました」
ゼブが声をかけた。
「……いや」
ノアは首を振った。
古い荷札ひとつに怯えている場合ではない。
小舟は音を殺して《白腹鴉》号へ向かった。
海は近かった。
黒い水が舟べりのすぐ下で揺れ、櫂が水を掻くたび、重い匂いが立ち上がる。
塩。
油。
古い木。
それから、長く閉じ込められていたものの匂い。
ノアは眉を寄せた。
「この匂いは」
「古い船ですから」
ゼブはあっさり答える。
「正規航路の船ほど、よい香油は使えません」
小舟が船腹についた。
上から濡れた板が下ろされる。
桟橋ではない。
岩場から船へ渡すためだけの、ただの板だった。
ノアが足を乗せると、低く軋んだ。
船員は手を貸さない。
客として迎えられているのではない。
その感覚が、足元からゆっくりと上がってくる。
甲板へ上がると、潮と油と、古い木箱の匂いが濃くなった。
積み荷が多すぎる。
ノアはすぐにそう思った。
小型船の甲板に、箱が積まれすぎている。
縄で縛られた木箱。
布をかぶせられた籠。
油紙に包まれた細長い荷。
外界語とメギド=ノクス語が混じった荷札。
そのどれもが、客船の荷には見えなかった。
中には、空気穴のような小さな隙間が開いた箱もある。
その前には、わざと見えないように布が掛けられていた。
ノアは眉をひそめる。
「乗客は、私だけですか」
「今夜は少ないですね」
ゼブは涼しい顔で答えた。
「それに、先に乗っている方もいます」
「どこに」
「船倉に。酔いやすい方には、下のほうが楽な場合もありますから」
言い方は自然だった。
だが、ノアの中で違和感が消えない。
先に乗っている。
船倉に。
人を、荷と同じ場所へ?
ゼブは懐から折りたたまれた契約片を取り出した。
「では、出航前にこちらへ署名をお願いします」
「契約書か」
「乗船同意です。表の航路ではありませんから、こちらも最低限の確認が必要でして」
ノアは契約片を受け取った。
紙は薄いが、潮に強い油紙だった。細かな文字がびっしりと書き込まれている。
外界語が中心だ。ところどころ、メギド=ノクスの文字が混ざっている。
船灯りは暗く、文字は小さい。
それでも、ノアは読み始めた。
乗船。
移送。
同意。
身元不定。
保護放棄。
引渡し。
指が止まる。
引渡し。
ノアは顔を上げた。
「これは、帰還の契約じゃない」
ゼブは笑った。
「外界へ移送するための書式です。言葉が少し硬いだけですよ」
「引渡しと書いてある」
「外界側の担当者へ、です」
「担当者?」
「あなたの身分を回復するには、確認する者が必要でしょう。港へ着いた途端、どうぞご自由に、というわけにはいきません」
もっともらしい説明だった。
けれど、ノアは契約片から目を離せない。
保護放棄。
その文字も引っかかった。
「保護放棄とは何だ」
「港番の保護を離れて、自分の意思で乗船するという意味です」
「それを書いたら、私は――」
「自由になります」
ゼブは言った。
あまりにも滑らかに。
「港番の帳からも、仮呼びからも、いったん外れる。あなたは自分の意思で外界へ戻るのです」
仮呼びから外れる。
その言葉に、ノアは揺れた。
ノア=リント。
あの名から外れる。
それは、いまノアが一番望んでいることだった。
けれど、リィゼの言葉も同時に浮かぶ。
――仮呼びは檻じゃない。沈まないための浮き板だ。
もし、これに署名したら。
自分は浮き板を手放すことになるのか。
ノアは唾を飲み込んだ。
「名前は、どこに」
ゼブは契約片の下部を指した。
「ここです。名前が不安定な方は、港内仮登録名でも構いません」
「私の名前は不安定じゃない」
「もちろん」
ゼブは微笑んだ。
「お好きな名で」
ノアはペンを受け取った。
油紙の上に、名前を書く欄がある。
氏名。
仮名可。
身元不定者は、乗船符番号で代替可。
身元不定者。
その言葉に、腹の奥が熱くなる。
違う。
自分は身元不定者ではない。
ノア=リントベルだ。
ここに書いてやればいい。
はっきりと。
消えないように。
ノアはペンを走らせた。
ノア=リントベル。
確かに書いた。
だが、ベルの部分でペン先がひどく重くなった。
油紙の上でインクが弾かれる。
文字の線が途中で途切れ、黒ではなく、灰色の擦れた跡になる。
ノアは息を止めた。
紙が悪い。
そう思おうとした。
油紙だからだ。
船灯りが揺れているからだ。
手が冷えているからだ。
だが、ゼブはその手元をじっと見ていた。
笑みを浮かべたまま。
「ノア=リント、で十分ですよ」
「リントベルだ」
ノアはもう一度、ベルの部分をなぞろうとした。
そのときだった。
甲板の下から、小さな音がした。
こつん。
木の内側を叩くような音。
ノアは顔を上げる。
「今のは」
「波です」
ゼブはすぐに答えた。
「船は揺れますから」
こつん。
また。
今度は、もっと近い。
ノアは布を掛けられた箱のほうを見る。
「……あの箱は」
「荷です」
ゼブの声が、少しだけ低くなった。
「お客様が見るものではありません」
お客様。
その言葉だけが、妙に白々しく響いた。
ノアは契約片を握ったまま、箱へ一歩近づく。
船員のひとりが、すっと前に立ちはだかった。
顔の下半分を覆った布の奥で、目だけがノアを見ている。
感情のない目だった。
「どいてください」
ノアは言った。
船員は動かない。
ゼブが静かに告げる。
「ノア=リントベルさん。余計なことを見れば、帰れなくなりますよ」
その瞬間、ノアの背筋に冷たいものが走った。
帰れなくなる。
それは助言ではなかった。
脅しだ。
甲板の空気が変わった。
さっきまで遠慮深く見えた船員たちが、いつの間にかノアの周囲に位置を取っている。
船縁へ戻る道。
渡し板へ向かう道。
船倉への階段。
すべて、塞がれている。
ノアは、自分がすでに船の上で孤立していることに気づいた。
そのとき、船倉の奥から声がした。
「……帰れるって、言われたのに」
かすれた声だった。
年齢も性別も、すぐには分からない。
だが、人の声だった。
ノアの手が止まる。
ゼブの笑みが消えた。
船員の一人が、素早く船倉のほうへ動く。
「今のは何だ」
「鼠でしょう」
「人の声だった」
「このあたりの鼠は、よく喋る」
ゼブはまだ笑おうとした。
だが、その笑みは薄く、張りついたものになっていた。
ノアは契約片を握りつぶした。
「どけ」
船員は動かない。
「どけ!」
ノアは船員の腕を押しのけた。
相手は一瞬だけよろめく。
その隙に、ノアは布の掛けられた箱へ駆け寄った。
「やめなさい」
ゼブの声が、初めて鋭くなる。
ノアは止まらなかった。
布を掴み、引き剥がす。
現れたのは、粗末な木箱だった。
荷箱にしては大きく、蓋は外から金具で留められている。
板の隙間には、内側から引っかいた跡があった。
何度も、何度も。
爪が折れても、なお掻いたような細い傷。
その隙間から、指が出ていた。
細い指。
汚れた爪。
震えている。
ノアは息を呑んだ。
「誰か、いるのか」
箱の中から、かすかな息遣いが聞こえる。
「外界へ……帰れるって……」
声は震えていた。
「言われたのに……」
ノアの中で、何かが音を立てて切れた。
ノアは箱の留め具に手をかける。
金具は固い。潮で錆びている。
それでも、力任せに引けば外せそうだった。
「開けるな」
ゼブが言った。
もう、優しい帰船屋の声ではなかった。
ノアは振り返らない。
「これは荷じゃない」
「荷です」
「人だ」
「この船では、荷です」
その言葉が、夜の甲板に落ちた。
静かに。
決定的に。
ノアは振り返った。
ゼブは笑っていなかった。
船員たちが、一斉に短剣を抜く。
金属が鞘を擦る音が、黒い海の上に細く響いた。
刃は長くない。
だが、狭い甲板では十分だった。
ノアは箱の前に立ったまま、動けなかった。
背後には、閉じ込められた誰かの息遣い。
前には、短剣を持った船員たち。
横には、黒い海。
遠くの港灯りは、岩礁に遮られて見えない。
ここは、帰り道ではなかった。
ノアはようやく、そのことを理解した。
理解してしまった。
それでもノアは、箱の留め具から手を離さなかった。




