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終節 ― 帰れるという嘘

 最初に動いたのは、ゼブ=カランだった。


 彼は短剣を抜いた船員たちを制するように、片手を軽く上げた。

 その仕草は、あまりにも落ち着いていた。


 まるで、こうなることも最初から想定していたかのように。


「余計なことをしないほうがいい」


 ゼブの声は、もう優しくなかった。


 夜の甲板に、黒い潮の匂いが濃く漂っている。

 船腹を叩く波の音。

 濡れた縄が軋む音。

 誰かが箱の中で息を殺す音。


 ノアは、木箱の前に立ったままゼブを見た。


 船員たちが、ノアを囲んでいる。


 顔の下半分を布で覆った男たち。

 手には短剣。

 鉤のついた棒。

 縄。


 そのどれもが、海の仕事道具にも見えた。

 そして同時に、人を黙らせるための道具にも見えた。


「あなたも、向こう側へ戻りたいんでしょう?」


 ゼブはゆっくりと近づいてくる。


「なら、見なくていいものまで見る必要はありません」


 ノアの背後で、箱の中の誰かが小さく呻いた。


 その声に、ノアの指が留め具を強く掴む。


「この箱の中は何だ」


「荷です」


「人だ」


「荷です」


 ゼブは、はっきりと言った。


 迷いも、罪悪感もない声だった。


 ノアの背筋が冷える。


 その一言で、今いる場所の意味が変わった。


 船。

 帰り道。

 外界行き。

 乗船符。

 契約片。


 すべてが、別の形に見え始める。


「この船は外界行きなんだろ」


「ええ。外界へ戻れますよ」


「どこへ」


 ゼブは微笑んだ。


「それは、受け取る側が決めることです」


 ノアの手から、握り潰された契約片が落ちた。


 油紙は甲板に落ち、濡れた板の上で歪む。

 そこに書かれた細かな文字が、黒晶灯の薄い光を受けて不気味に光った。


 保護放棄。

 身元不定。

 引渡し。


 さっきまで読めていたはずの言葉が、いまは鎖のように見える。


「帰還船じゃない」


「外界へ戻れることに違いはありません」


 ゼブの声は静かだった。


「どこへ戻されるかまでは、約束していませんが」


 箱の中から、すすり泣く声がした。


 ノアは振り返り、留め具に手をかける。


 その瞬間、船員のひとりが飛びかかった。


 ノアは身を引いた。

 だが、甲板は濡れていた。


 靴底が滑る。


 肩を強く掴まれ、身体が横へ崩れた。


 次の瞬間、背中が板に打ちつけられる。


 肺の奥に残っていた痛みが、ぶり返した。

 息が詰まり、視界の端が白く揺れる。


「放せ……!」


 腕を振りほどこうとするが、別の船員が膝で胸を押さえつけてくる。

 呼吸が浅くなる。

 冷たい甲板の湿り気が、外套越しに背中へ染み込んだ。


 ゼブがしゃがみ込んだ。


「外界人は威勢がいいですね」


 彼はノアの外套の内側へ手を入れる。


 ノアは抵抗しようとしたが、腕をねじられて動けない。


 ゼブの指が、黒晶札を抜き取った。


 港内仮登録札。


 ノア=リント。


 ゼブはそれを月明かりにかざした。


「ノア=リントさん」


「リントベルだ!」


 ノアは叫んだ。


 喉が裂けるように痛む。


 ゼブは笑った。


「その証明は?」


 その問いは、短剣よりも冷たかった。


「壊れた身分証。読めない家名。港の帳に残らない名前。あなたが外界へ戻ったとして、誰があなたをノア=リントベルだと認めるのでしょう」


「家に戻れば――」


「家があなたを覚えていれば、ですね」


 その一言が、刃のように入った。


 ノアの身体から、一瞬、力が抜ける。


 家。


 門。

 時計。

 呼び慣れた声。

 自分の名を、疑いもなく呼んでくれるはずの誰か。


 それらが、頭の中で遠く滲む。


 そんなはずはない。


 そう思う。


 けれど、出身地の名をうまく言えなかった。

 船の名も、最後まで思い出せなかった。

 帳には、ベルが残らなかった。


 もし。


 もし、戻った先でも同じだったら。


 ゼブは、ノアの動揺を見て取ったように、声を低くした。


「今のあなたは、身元の壊れた魔大陸帰りです。外界では危険ですよ」


「黙れ」


「偽造身分。魔族接触。構文汚染。失名疑い。神殿に渡されるか、記録院に閉じ込められるか、研究者に買われるか」


「黙れ!」


「こちらへ来る途中で、あなたはもう商品になりかけている」


 商品。


 ノアの耳に、その言葉が残った。


 自分が。


 ノア=リントベルである自分が。


 誰かの帳面に。

 誰かの値札に。

 誰かの荷札に。


 載せられる。


 ゼブは立ち上がった。


「積め」


 船員たちが動く。


「外界語が読める。顔も悪くない。名前の欠け方も珍しい。買い手はつく」


 ノアは暴れた。


 片腕が少し自由になる。

 爪が甲板を掻く。

 肩に激痛が走る。


 だが、二人がかりで押さえつけられ、また身動きが取れなくなった。


 箱の中から、かすれた声がする。


「やだ……もう、やだ……」


 ノアは歯を食いしばった。


 自分が間違えた。


 リィゼは正しかった。


 けれど、それを認める暇もない。


 このままでは、自分も箱に入れられる。


 そのときだった。


 闇の向こうで、警笛が鳴った。


 鋭く、短く、三度。


 船員たちの動きが止まる。


 続いて、入江の岩場に黒晶灯の光が走った。


 紫がかった光が、黒い岩を照らし、濡れた海面に割れて散る。


「港番だ!」


 誰かが叫んだ。


 ゼブの顔から、初めて余裕が消えた。


 小舟が岩礁の間を割って近づいてくる。


 船首に立っていたのは、リィゼだった。


 灰紫の髪を潮風になびかせ、片手に黒晶灯。

 もう片方の手には、短い鉤縄。


 小さな灰黒の角が、灯の中で濡れて光っている。


「だから言っただろ」


 リィゼの声が、夜の海を裂いた。


「夜の南入江には近づくなって」


 ノアは船員に押さえつけられたまま、彼女を見た。


「……助けに来たのか」


「拾ったものを、勝手に売られるのは腹が立つ」


「私は物じゃない」


「なら、自分を安売りするな」


 リィゼは鉤縄を投げた。


 縄が船縁に絡む。


 次の瞬間、彼女は小舟の縁を蹴り、甲板へ飛び移った。


 着地と同時に、ノアを押さえていた船員の手首を蹴り上げる。

 短剣が跳ね、甲板を滑って海へ落ちた。


 リィゼは身体を沈め、もう一人の膝裏を払う。


 船員が倒れる。


 ノアの腕が自由になった。


「立てるか!」


「立てる!」


「昨日からそればっかりだな!」


 リィゼはノアの襟を掴み、乱暴に引き起こした。


 痛む肩に力が入り、ノアは呻いた。

 それでも、立った。


 立たなければ、また荷にされる。


 別方向から、港番の小舟が二隻、入江へ滑り込んでくる。


 バルド=グレイムの声が響いた。


「ヴァル=クレイア港番だ! 《白腹鴉》号、密輸および漂着者売買の疑いで船を止めろ!」


 黒晶灯がいくつも掲げられる。


 甲板の影が、急に暴かれた。


 船員たちは一斉に動いた。


 ある者は逃げようとし、ある者は箱を海へ落とそうとする。

 港番たちが渡し板を掛け、船へ乗り込む。


 怒号。

 警笛。

 木箱の倒れる音。

 短剣と短杖がぶつかる硬い音。


 リィゼはノアの前に立ちながら、箱を海へ押し出そうとした船員へ鉤縄を投げた。

 縄が男の足に絡む。


 彼女は一気に引いた。


 男が転倒し、箱の手前で止まった。


「それ落としたら、あんたも沈める!」


「脅しが雑だぞ、リィゼ!」


 バルドが叫ぶ。


「分かりやすいだろ!」


 ノアは息を整えようとした。


 だが、視界の端でゼブが動くのが見えた。


 ゼブ=カランは混乱の中心には入らなかった。

 彼は、最初から逃げ道を知っていた。


 船尾へ走る。


 黒い布で覆われていた小型の逃走艇へ飛び移る。


「逃がすな!」


 リィゼが叫んだ。


 港番のひとりが追おうとする。


 だが、その手前で別の船員が箱を倒し、通路を塞いだ。


 ゼブは船尾の縄を切る。


 逃走艇が、黒い水面へ滑り出す。


 バルドが舌打ちした。


「追うな! 荷を先に押さえろ!」


「バルド!」


「生きてる奴が先だ!」


 その判断に、リィゼは一瞬だけ悔しそうに歯を食いしばった。


 だが、すぐに頷いた。


 ゼブの逃走艇は、岩礁の影へ消えていく。


 その最後の一瞬、彼は振り返った。


 灯に照らされた顔には、もう笑みが戻っていた。


 ノアは、その顔を忘れないと思った。


 甲板の混乱が、少しずつ収まっていく。


 港番たちが船員を拘束し、船倉を開ける。

 木箱が一つずつ確認される。


 人がいた。


 一人ではなかった。


 痩せた若い男。

 言葉を失った少女。

 片腕に鱗のある老女。

 外界製の服を着たまま、首から名札を下げられた少年。


 誰もが、箱や檻や布包みの中に押し込められていた。


 ノアは最初の箱へ駆け寄った。


 さっきの声がした箱だ。


 今度は誰も止めなかった。


 留め具に手をかける。

 指が震える。

 錆びた金具は固かったが、リィゼが横から短剣を差し込み、こじ開けた。


 蓋が開く。


 中には、若い男が一人、膝を抱えるように押し込められていた。


 顔色は悪く、唇は乾き、目は焦点を結んでいない。

 首には札がかけられている。


 身元不明。

 名欠け。

 外界返し対象。


 ノアは、その札を見て手が震えた。


「外界へ……帰れるって……」


 男は、ノアを見上げた。


 同じ言葉を繰り返す。


「言われたのに……」


 ノアは何も言えなかった。


 謝ることも。

 助かったと言うことも。

 自分もそう信じたと言うことも。


 言葉が、喉の奥で詰まった。


 リィゼが毛布を男に掛ける。


「もう大丈夫、とは言わない」


 彼女は静かに言った。


「でも、今は箱から出るぞ」


 男の目から、涙がこぼれた。


 夜明け前。


 南入江の岩場には、救出された者たちが並べられていた。


 港番たちは手早く毛布を配り、薬湯を飲ませ、名前を確認していく。


 泣く者。

 怒鳴る者。

 何も言わない者。

 自分の名を何度も繰り返す者。

 名を聞かれて、ただ首を振る者。


 黒い海の向こうでは、《白腹鴉》号が港番の管理下に置かれている。

 船体の白い腹は、夜明けの薄明かりの中で、ますます不気味に見えた。


 ノアは岩場に座り込んでいた。


 身体は冷えている。

 肩には打ち身の痛みがある。

 膝も擦りむいている。


 だが、それよりも胸の奥が重かった。


 リィゼが隣に来る。


 何も言わず、毛布を投げてよこした。


 ノアはそれを受け取り、しばらく見つめる。


「……怒らないのか」


 小さく訊いた。


「怒ってる」


「そうは見えない」


「見せるほど暇じゃない」


 リィゼは岩に腰を下ろし、海を見た。


 ゼブの逃走艇は、もう見えない。

 闇と潮の向こうに溶けてしまった。


 しばらく、ふたりの間には波音だけがあった。


 やがて、リィゼが言う。


「帰りたい奴ほど、帰れるって言葉に弱い」


 声は静かだった。


「だから、港にはそういう嘘が集まるんだよ」


 ノアは俯いた。


 その言葉は、責めるものではなかった。


 だからこそ、痛かった。


「私は……外界に戻れば、何とかなると思ってた」


「戻った先が、あんたをあんたとして扱うならな」


 ノアは顔を上げられなかった。


 外界へ戻る。


 それは、昨日まで確かな道だった。


 帰れば、自分を知る者がいる。

 帰れば、家がある。

 帰れば、身分証が壊れていても、名前が少し滲んでいても、何とかなる。


 けれど今は、その道の先が見えない。


 もし戻った先で、ノア=リントベルだと証明できなかったら。

 もし壊れた身分証を偽造だと言われたら。

 もしメギド=ノクスに流れ着いたというだけで、危険な存在として扱われたら。


 帰るとは、どこへ戻ることなのか。


 その問いが、初めてノアの中に生まれた。


 港番たちが、《白腹鴉》号の荷を調べている。


 ミミル=ハンドも呼ばれていた。

 三本の手で札を仕分け、記録を取り、救出者の首から外した荷札を一枚ずつ布の上に並べていく。


 身元不明。

 名欠け。

 外界返し対象。

 研究引渡し可。

 変異疑い。

 帰還希望。


 その文字の並びに、ノアは吐き気を覚えた。


 帰還希望。


 それすら、ここでは商品分類にされていた。


「バルドさん」


 ミミルの声が、少し硬くなった。


 バルドとリィゼがそちらを見る。


 ミミルは、一枚の古い漂着者札を持っていた。

 潮に削られ、角が欠け、黒い染みがこびりついている。


 黒い潮染み。


 ノアの胸が、嫌な音を立てた。


 札には、途中まで名前が残っていた。


 エリオ=カラン――。


 その後ろは、白く抜けている。


 消えたのではない。


 最初から、そこだけ世界が受け取らなかったように。


 ノアは息を止めた。


 自分の帳面と同じだった。


 名が、途中で切れている。


「これも……私と同じなのか」


 ノアが訊いた。


 声が掠れていた。


 リィゼは札を見つめたまま、すぐには答えなかった。


 バルドが札を受け取り、黒晶灯にかざす。

 ミミルが隣で記録をめくる。


「古い札です」


 ミミルが言う。


「少なくとも半年以上前。正規の漂着者札ではありません。密輸側の管理札です」


「名前の欠け方は?」


 バルドが訊く。


「自然な破損ではありません。ノアさんの記録反応に似ています。ただし、完全に同一かは、ここでは判断できません」


 ノアは自分の胸元に手を当てた。


 仮登録札がある。


 ノア=リント。


 ここにも、同じような札がある。


 エリオ=カラン――。


 あんただけじゃない。


 その言葉が、来る前から分かった。


 リィゼが、低く言った。


「同じかは分からない」


 そして、ノアを見る。


「でも、あんただけじゃない」


 ノアは何も言えなかった。


 あんただけじゃない。


 それは慰めではなかった。


 むしろ、恐怖だった。


 自分に起きていることが、偶然でも、海水でも、ただの事故でもないかもしれないということだった。


 バルドは険しい顔で札を見つめていた。


「灰角の港だけで扱う案件じゃないな」


「アシュ=ロア?」


 リィゼが訊く。


 バルドは頷く。


「正式審査に回す。密輸船の件も、名欠け札も、まとめてだ」


 ミミルが記録を閉じる。


「ノアさんも、ですか」


「ノア=リントもだ」


 ノアは反射的に言い返そうとした。


 リントベルだ、と。


 だが、その言葉は喉の奥で止まった。


 違う。


 自分は、ノア=リントベルだ。


 それは変わらない。


 けれど今、ここで叫んでも、帳面は応えない。

 海も応えない。

 外界へ戻れるという船も、ただの嘘だった。


 ノアは黙って海を見た。


 黒い潮の向こうには、もう帰れる船の灯りはない。


 ただ、夜明け前の冷たい海が広がっているだけだった。


 その海の向こうに、外界がある。


 帰りたい場所がある。


 けれど、そこへ続く道は、思っていたよりずっと暗く、ずっと細く、そして誰かの嘘に簡単に似てしまうものなのだと、ノアは初めて知った。


 第2話 ― 帰れる船は夜に来る 了。

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