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序節 ― 灰角を発つ

 夜が明けても、ヴァル=クレイアの南入江から潮の匂いは消えなかった。


 灰角の港は、いつもどおり朝を迎えているように見えた。

 黒晶灯の芯を替える者。濡れた網を広げる者。夜のうちに打ち上げられた漂着物を拾い集める者。船腹にこびりついた塩を削る者。朝市の支度をする露店商。


 港は動いている。


 昨日と同じように。

 何もなかったかのように。


 けれど、漂着者詰所の前だけは違っていた。


 毛布を肩にかけた者たちが、並んで座らされている。


 痩せた若い男。

 片腕に鱗の浮いた老女。

 外界製の上着を着たまま、名札を首から下げた少年。

 箱の中で声を殺していた少女。

 自分の名を何度も呟いている者。

 名を訊かれて、ただ首を振る者。


 彼らは《白腹鴉》号から救い出された者たちだった。


 救い出された。


 そう言えば、たぶん正しい。


 けれどノアには、その言葉がひどく軽く聞こえた。


 箱から出された身体は、すぐには人に戻らない。

 檻を開けられても、肩は縮こまったままだ。

 毛布を渡されても、手は震えている。

 薬湯を飲めと言われても、喉がそれを信じない。


 帰れると言われた者たちは、朝の光の中でもまだ、帰り道を失った顔をしていた。


 ノアは詰所の壁にもたれ、黙ってそれを見ていた。


 肩が痛む。


 昨夜、甲板に押しつけられたときの打ち身だった。息を深く吸うと、肺の奥も少し痛む。まだ海水を飲んだ身体が、完全には戻っていないのだろう。


 だが、身体の痛みよりも、胸の奥に残っているもののほうが重かった。


 ゼブ=カランの声。


 ――家があなたを覚えていれば、ですね。


 その一言が、何度も頭の中で鳴った。


 そんなはずはない。


 そう思う。


 家が、自分を忘れるはずがない。

 自分の名を呼ぶ者が、いなくなるはずがない。

 外界へ戻れば、すべて証明できるはずだ。


 けれど、帳面には残らなかった。


 黒晶札にも、石にも、契約片にも。


 ノア=リント――。


 ベル、という音だけが、世界のどこかで受け取られずに落ちていく。


 ノアは胸元に手をやった。


 そこにはまだ、仮登録札がある。


 ノア=リント。


 削られた名。


 そう思っていた。


 だが昨夜、あの札がなければ、自分が何者として扱われていたのか、ノアにはもう分からなかった。


「立っていられるか」


 低い声がした。


 バルド=グレイムだった。


 港番長の外套は、昨夜から乾く暇もなかったらしい。裾にはまだ潮の白い跡が残っている。目の下には疲労の影があったが、声は相変わらず硬かった。


 ノアは壁から背を離した。


「立てる」


「昨日からそればかりだな」


 近くでリィゼが言った。


 彼女は黒晶灯を腰に下げ、片手に漂着者帳の写しを抱えていた。灰紫の髪は後ろで雑に結ばれ、目元には眠っていない者の疲れがある。


 だが、動きに鈍さはない。


 ノアは少しだけ視線を逸らした。


「……迷惑をかけた」


 言ってから、自分でも意外だった。


 謝るつもりはなかった。

 少なくとも、こんなに素直に口から出るとは思っていなかった。


 リィゼは一瞬だけ目を丸くしたあと、肩をすくめる。


「迷惑はかけたな」


「そこは否定しないのか」


「事実だからな」


 リィゼの言い方は容赦がなかった。


 けれど、昨夜のように刺さる言葉ではなかった。


 ノアは何か言い返そうとして、やめた。


 バルドが二人を見比べ、短く咳払いをする。


「話を進めるぞ」


 彼は手にしていた黒晶板をノアへ向けた。


「《白腹鴉》号は押さえた。船員の一部は拘束済み。船倉から出た者たちは、これから順に身元確認と救護に回す」


「ゼブは」


 ノアが訊くと、バルドの顔が険しくなった。


「逃げた」


 短い答えだった。


 リィゼが舌打ちする。


「逃走艇の痕跡は?」


「南東の岩礁までは追えた。そこから先は潮が荒れている。あの男、入江の抜け道を知っていた」


「最初から逃げるつもりだったってことか」


「そういうことだ」


 バルドは黒晶板を閉じた。


「だが、名前は残った。ゼブ=カラン。帰船屋を名乗る密輸仲介人。過去にも同じ手口で漂着者を誘った可能性がある。アシュ=ロアにも照会をかける」


 アシュ=ロア。


 ノアはその名を初めて聞くわけではなかった。


 港の詰所の壁にあった札。


 アシュ=ロア審査待ち。


 失名疑い。

 外界亡命希望。

 身元確認不能。

 保護院送致。

 ナハト=リム紹介待ち。


 その中にあった言葉だ。


「アシュ=ロアって、何?」


 ノアが訊くと、リィゼが答えた。


「受け入れの門」


「門?」


「メギド=ノクスに正式に入る者を、一度止める場所だ。港に流れ着いた奴、国境を越えてきた奴、外界から逃げてきた奴、帰る先が壊れてる奴。そういう連中を、まずそこで見る」


「私は入国したいわけじゃない」


「知ってる」


 リィゼは即答した。


「だから、そのまま言えばいい」


 ノアは眉を寄せる。


「誰に」


「門に」


 答えになっているようで、なっていなかった。


 バルドが口を挟む。


「ノア=リント」


 その呼び方に、ノアは反射的に言い返しかけた。


 リントベルだ。


 だが、声にはならなかった。


 昨夜、同じように叫んだ。

 ゼブに向かって。

 短剣を持った船員に押さえつけられながら。


 その証明は?


 あの声が、まだ喉の奥に残っている。


 バルドは、ノアが言い返さなかったことに気づいたようだったが、何も言わなかった。


「密輸船事件の参考人として、お前をアシュ=ロアへ送る」


「参考人?」


「お前は犯罪者ではない。だから縄はかけていない」


 バルドは淡々と言った。


「だが、事件に巻き込まれた当事者だ。ゼブ=カランと直接話し、契約片を見て、船倉の箱も確認している。証言がいる」


「私は、ここを出られないの?」


「出る。アシュ=ロアへな」


「それは、自由に出るとは言わない」


「今のお前を一人で外へ出すほど、こちらも暇ではない」


 ノアは言い返そうとした。


 だが、詰所の前に座る救出者たちが視界に入った。


 箱の中で泣いていた若い男が、毛布を握りしめている。

 首から外された札が、ミミルの机の上に置かれていた。


 身元不明。

 名欠け。

 外界返し対象。


 もし昨夜、リィゼが来なかったら。


 自分も、あの札を下げられていたかもしれない。


 その事実が、ノアの反論を鈍らせた。


「……私だけじゃないんだ」


 ノアは低く言った。


 バルドが頷く。


「救出者の一部もアシュ=ロアへ送る。救護が優先の者は港に残すが、名欠けや身元不明の者は門で確認する必要がある」


 そのとき、詰所の中からミミル=ハンドが出てきた。


 三本の手のうち一本には記録板。一本には布袋。もう一本には、古びた漂着者札を持っている。


 潮に削られ、角が欠け、黒い染みがこびりついた札。


 ノアは、それを見た瞬間、息を止めた。


 エリオ=カラン――。


 名が途中で切れた札。


 ミミルはそれを丁寧に布で包んだ。


「こちらも、アシュ=ロアへ送ります」


 バルドが受け取る。


「黒晶写しは取ったな」


「はい。ヴァル=クレイア側の漂着者帳反応、ノアさんの仮名紙、黒晶札の記録、契約片の写しもまとめています」


「ゼブの契約片は?」


「押収分に同じ文面が複数ありました。『帰還希望』『保護放棄』『引渡し』の分類が共通しています」


 帰還希望。


 ノアの胸が鈍く痛んだ。


 帰りたいという言葉が、あの船では分類名になっていた。


 願いではなく、商品を仕分けるための印。


 ミミルはノアを見た。


「ノアさんの証言も、門で必要になると思います」


「私は、何を話せばいいの」


「見たものを」


 ミミルは静かに答えた。


「聞いた言葉を。書けなかった名前を。信じたかった理由を」


 ノアは何も言えなかった。


 信じたかった理由。


 そんなものまで、記録されるのか。


 けれど、あの船に乗った者たちは、みな何かを信じたのだろう。


 外界へ戻れる。

 名前が欠けていても大丈夫。

 家族が思い出す。

 書類が直る。

 帰れば、全部元に戻る。


 ノアが信じかけたものと同じ言葉を。


「リィゼ」


 バルドが彼女の名を呼んだ。


「お前が付き添え」


「分かってる」


「途中で逃がすな」


「逃げるなら、今度は最初から襟を掴む」


 リィゼが答えると、ノアは思わず顔を上げた。


「私は逃げない」


「昨夜、似たようなこと考えて南へ行った奴を知ってる」


「……あれは」


「何よ」


「確かめに行っただけだ」


「罠は、そう思って来る奴のために作るんだって言ったろ」


 ノアは黙った。


 その沈黙を、リィゼは責めなかった。


 ただ、ノアの肩に視線を落とす。


「痛むのか」


「少し」


「少しって顔じゃない」


「立てる」


「またそれか」


 リィゼはため息をつき、腰の小袋から薄い布を取り出した。


「移動中、肩を冷やすな。馬車が揺れる」


「馬車?」


「黒晶牽引車が出払ってる。今回は馬車だ」


 ノアは港の外へ視線を向けた。


 そこには、灰色の幌をかけた馬車が二台、用意されていた。

 一台には救出された者たち。もう一台には押収記録と付き添いの港番が乗るらしい。


 馬は普通の馬ではなかった。

 黒い毛並みに、額だけ灰色の角質が盛り上がっている。潮風に強いメギド=ノクスの荷馬だと、近くの港番が説明していた。


 その馬車が、ノアを港から連れ出す。


 また、自分の意思と関係なくどこかへ運ばれる。


 そう思いかけて、ノアは唇を引き結んだ。


 違う。


 今回は箱ではない。

 契約片に騙されて積まれるのではない。

 縄もない。


 それでも、行き先を自分で選んだわけではなかった。


 その曖昧さが、ノアを苛立たせた。


 港番たちが救出者を馬車へ案内し始める。


 若い男は、歩こうとして足をもつれさせた。

 ノアは反射的に手を伸ばす。


 男はびくりと肩を震わせた。


 ノアは手を止めた。


「……悪い」


 男は少しだけ顔を上げた。


 昨夜、箱の中で「帰れるって言われたのに」と繰り返していた男だった。


 彼の首にはもう札はない。

 けれど、札の紐が擦れた赤い跡が残っている。


「あなたも」


 男が掠れた声で言った。


「乗るつもりだったんですか」


 ノアは息を呑んだ。


 嘘はつけなかった。


「ああ」


 男は泣きそうな顔で笑った。


「じゃあ、同じですね」


 同じ。


 その言葉は、慰めではなかった。

 けれど、責めでもなかった。


 ノアは、どう返せばいいか分からなかった。


 リィゼが横から男の肘を支え、馬車へ誘導する。


「今は座れ。話すのは門に着いてからでいい」


 男は小さく頷いた。


 ノアはその背を見送った。


 自分だけではない。


 そう思うたび、安心よりも先に恐怖が来る。


 自分の身に起きていることが、偶然ではないかもしれない。

 名前が欠けることも。

 帰れるという言葉に引き寄せられたことも。

 この大陸に流れ着いたことも。


 港の向こうで、朝の潮が満ち始めていた。


 南入江へ続く岩道は、もう見えない。

 夜だけ現れた道は、黒い水の下へ沈んでいた。


 あそこに、本当に帰り道があったのか。


 いや、なかった。


 あったのは、帰り道の形をした穴だった。


 ノアは馬車に乗る前に、一度だけ振り返った。


 ヴァル=クレイアの港。


 灰色の断崖。

 黒晶灯の紫。

 最初に流れ着いた浜。

 拾名屋の黒晶灯。

 漂着者帳。

 白く抜けた名前。

 南入江の黒い水。


 たった二日しかいない。


 それなのに、この港はもう、ノアの中に傷のように残っていた。


 リィゼが隣に立つ。


「次は、門だ」


「私は入国しに行くんじゃない」


 ノアは言った。


「帰る方法を探しに行くんだ」


 リィゼは否定しなかった。


「なら、門にもそう言え」


 ノアは彼女を見る。


「それで通じるのか」


「通じるかは知らない」


「無責任だな」


「でも、嘘よりはましだろ」


 ノアは何も言えなかった。


 馬車の車輪が軋む。


 バルドが御者に合図を出した。


 ミミルが布包みの札を記録箱へ納める。

 その中には、エリオ=カラン――の名がある。


 ゼブ=カランは逃げた。

 エリオ=カランの札は残った。

 ノア=リントベルの名は、まだ最後まで記録されない。


 馬車が動き出す。


 灰角の港が、少しずつ後ろへ下がっていく。


 ノアは幌の隙間から外を見ていた。


 黒い海が遠ざかる。

 南入江はもう見えない。

 だが、昨夜の船の白い腹だけは、目を閉じても消えなかった。


 帰れる船は、夜に来る。


 けれど、朝になれば分かる。


 それが本当に帰り道だったのか。

 それとも、帰りたい者を呑み込む口だったのか。


 ノアは胸元の仮登録札を握った。


 ノア=リント。


 違う。


 そう思う気持ちは、まだ消えていない。


 けれどその名札を、今は捨てられなかった。


 馬車は黒冠街道へ入る。


 ヴァル=クレイアの潮騒が遠ざかり、代わりに、乾いた風が幌を叩いた。


 アシュ=ロア。


 受け入れの門。


 そこが何を問う場所なのか、ノアはまだ知らなかった。

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