第一節 ― 罵倒の碑
黒冠街道は、海の匂いを少しずつ失っていった。
馬車の幌の隙間から見える空は、ヴァル=クレイアの上にあったものよりも高く、乾いていた。灰色の雲はまだ薄く残っているが、潮を含んだ重さはない。代わりに、黒い土と、風に削られた石の匂いがする。
道の両側には、背の低い黒草が揺れていた。
草の葉は、緑ではなく、墨を薄めたような灰黒だった。風が吹くたび、葉の裏に銀色の筋が走る。遠くには、黒晶を含んだ岩肌がところどころ露出し、陽の光を受けて鈍く光っていた。
ノアは馬車の端に座り、肩に掛けられた布を握っていた。
馬車は揺れる。
そのたび、昨夜打ちつけられた肩が痛む。
けれど、痛みはむしろありがたかった。痛みがある限り、自分の身体がまだここにあると分かる。
箱の中ではない。
札を下げられた荷ではない。
まだ、自分の足で降りることができる。
そう思いながらも、ノアは懐の仮登録札から手を離せなかった。
ノア=リント。
削られた名前。
けれど、昨夜の甲板でゼブに札を奪われた瞬間、ノアは初めて理解してしまった。
この札は、自分を縛るものではある。
だが同時に、箱に詰められ、商品名を貼られることから守るものでもある。
それが腹立たしかった。
守られていると認めれば、自分が弱いと認めるようだった。
だが、守られなければ、自分は昨夜どうなっていたか分からない。
馬車の向かい側では、《白腹鴉》号から救出された若い男が毛布を被って座っていた。
彼は時折、自分の首元に手をやる。
もう札は外されている。けれど、紐が擦れた赤い跡は残っている。
身元不明。
名欠け。
外界返し対象。
ノアはその札を思い出し、胸の奥が重くなる。
自分も、ああなっていたかもしれない。
隣ではリィゼが、幌の隙間から前方を見ていた。
灰紫の髪が風で少し乱れている。黒晶灯は腰に下げられ、灯は落とされていた。
「もうすぐだ」
リィゼが言った。
ノアは顔を上げる。
「アシュ=ロアか」
「そう。受け入れの門」
「門っていうくらいだから、壁でもあるのか」
「ある」
短い答えだった。
「どんな場所だ」
「見れば分かる」
「またそれか」
「説明しても、たぶん腹を立てる」
「それは、見ても腹を立てるってことじゃない」
リィゼは否定しなかった。
馬車が坂を上がる。
車輪が石を踏み、重い音を立てた。
やがて、幌の向こうに巨大な影が見えた。
最初、それは断崖かと思った。
黒く、幅広く、空を切るようにそびえている。だが近づくにつれ、それが自然の岩ではなく、人の手で積み上げられた壁だと分かった。
黒い石で作られた城壁。
その中央に、巨大な門が開いている。
門扉はない。
閉ざすための門ではなく、通る者を一度止めるための門。そんな印象だった。左右の壁は高く、上部には黒冠を思わせる鋭い装飾が連なっている。威圧的ではあるが、王城のような華美さはない。
何より、壁面だった。
壁全体に、文字が刻まれていた。
無数の文字。
大小も、向きも、深さも違う。
古いものは石に沈み、近いものはまだ傷口のように鋭い。外界語、メギド=ノクスの文字、ノアの知らない言語、祈祷文に似た記号、処分印のような刻印。
ノアは最初、それを入国記録か、古い碑文だと思った。
この門を通った者たちの名前。
あるいは、この国を作った者たちの誓い。
だが、馬車がさらに近づき、刻まれた文字が読める距離になると、その考えは崩れた。
半魔。
異形児。
血統不適。
神殿引渡し。
母体不明。
帰還拒否。
記録外。
焼却済。
ノアは息を呑んだ。
文字は、名ではなかった。
碑文でもなかった。
そこに刻まれていたのは、誰かを拒むための言葉だった。
門の壁に、無数の罵倒が刻まれている。
ただの悪口ではない。
処分記録。拒絶理由。分類名。誰かが誰かを、人として扱わないために使った言葉。
魔族。
危険種。
祈祷不適合。
登録不可。
混血汚染。
母系不明。
父系抹消。
外界返却。
処分済。
ノアは、喉が乾くのを感じた。
言葉が、石に残っている。
声で言われただけなら、時間とともに消えたかもしれない。
紙に書かれただけなら、燃やすこともできたかもしれない。
だが、この壁には、それらが彫られている。
逃げられないほど硬く、忘れることを許さないほど深く。
「何、これは」
ノアは低く言った。
リィゼは前を見たまま答える。
「外側の碑」
「碑?」
「外界が、あたしたちを何と呼んだか。何を理由に追い出したか。どう処分したか。その写し」
「写しって……これを、わざわざ刻んだのか」
「そう」
ノアは言葉を失った。
馬車が門前の広場に止まる。
救出者たちが、ひとりずつ降ろされていく。港番が手を貸し、アシュ=ロア側の職員らしき者たちが毛布や水を配っていた。
その中で、片腕に鱗の浮いた老女が、壁の一角を見たまま動かなくなった。
彼女の顔色が変わる。
ノアは、その視線の先を追った。
そこには、こう刻まれていた。
鱗化病疑い。
人型保持不可。
親族受取拒否。
海上返却。
老女の唇が震えた。
「……同じだ」
かすれた声だった。
「言われたのと、同じ……」
付き添いの職員が支えようとしたが、老女は膝から崩れた。
毛布が石畳に落ちる。
ノアは反射的に一歩踏み出した。
老女は泣いてはいなかった。
泣くより前に、身体が過去へ戻ってしまったようだった。
目は壁の文字を見ているのに、そこにはない別の場所を見ている。
誰かが彼女に、その言葉を投げた場所を。
ノアの腹の奥が熱くなった。
「こんなもの」
声が出た。
「こんなもの、消せばいいでしょ」
リィゼがノアを見た。
ノアは壁を睨んだ。
「受け入れの門なんでしょう。なんで、こんな言葉を入口に残してるの。ここに来た人間に、また読ませるの?」
声が大きくなった。
周囲の職員がちらりとこちらを見る。
だが、誰も止めなかった。
「こんなもの、削ればいい。塗りつぶせばいい。こんな壁を通らせるなんて――」
「消したら」
リィゼが言った。
静かな声だった。
「言った側が楽になる」
ノアは言葉を止めた。
リィゼは壁を見上げる。
「なかったことにできる。そんなことは言っていない。そんなふうに追い出していない。そんな記録は残っていない。そうやって、言った奴らが楽になる」
「でも、読まされる側はどうなる」
「だから、内側では塗ってある」
「内側?」
リィゼは門の奥を指した。
「外側には残す。外から来た者が、自分だけじゃなかったと知るため。外界が何をしたか、消さないため。門が何を受け入れてきたか、忘れないため」
彼女は少しだけ声を落とした。
「でも、内側では黒く塗る。受け入れた者に、毎日それを読ませないためだ」
ノアは黙った。
風が吹き、壁に刻まれた文字の影が揺れる。
消せばいい。
そう思った気持ちは、まだ消えていない。
だが、リィゼの言葉もまた、簡単には否定できなかった。
消せば、言った側が楽になる。
その言葉が、妙に重く残った。
ノアはもう一度、壁を見た。
魔族。
その文字がある。
外界で誰かが投げた呼び名。
恐れ、拒み、遠ざけるための言葉。
ノア自身も、昨日まで似たような感覚で言っていなかったか。
自分は、メギド=ノクスの人間じゃない。
その言葉は、ノアにとってはただの事実だった。
ここに属していない。ここにいるべきではない。帰る場所がある。
けれど、聞く側にはどう響いていたのだろう。
ここにいる者ではない。
お前たちとは違う。
自分は、ここに落ちる者ではない。
そこまで考えて、ノアは顔をしかめた。
違う。
自分はそんなつもりで言ったわけではない。
だが、この壁の前では、つもりという言葉はひどく軽かった。
言葉は、言われた側に残る。
石に刻まれた傷のように。
「……あんたが言ったんだ」
リィゼが、ふいに言った。
ノアは彼女を見る。
「何を」
「自分はメギド=ノクスの人間じゃないって」
ノアは喉を詰まらせた。
「それは、事実だ」
「そうだな」
リィゼは頷いた。
「でも、ここには、最初からメギド=ノクスの人間だった奴なんて、そんなに多くない」
ノアは何も言えなかった。
馬車から降りた救出者たちが、門の前で並ぶ。
誰もが壁を見上げているわけではない。見ないようにしている者もいる。視線を逸らし、うつむき、ただ職員の指示に従っている者もいる。
それでも、この壁はそこにある。
読まなくても、ある。
ノアの中で、何かがきしんだ。
まだ受け入れたわけではない。
まだ、自分がここに属するとは思っていない。
まだ、帰りたいという願いは消えていない。
けれど、ここにいる者たちが、ただ奇妙な大陸の住人ではないことだけは分かった。
彼らは、何かを言われてここへ来た。
何かを刻まれて、ここへ来た。
ノアが昨夜、荷札をかけられかけたように。
そのとき、門の奥から一人の女性が歩いてきた。
黒い長衣に、灰銀の縁取り。
胸元には、門を象った小さな徽章。
年齢は三十代ほどに見えるが、目元にはもっと長い時間を見てきたような落ち着きがあった。
角はない。
尾もない。
だが、彼女の右頬には、薄い文字のような痣が浮かんでいる。光の角度によって、それは一瞬だけ門の刻印のように見えた。
彼女は一行の前で立ち止まり、まず救出者たちへ目を向けた。
その視線は冷たくはなかった。
だが、優しさを見せびらかすものでもなかった。
「ヴァル=クレイアからの移送者ですね」
バルドが一歩前へ出る。
「港番長バルド=グレイム。密輸船《白腹鴉》号事件の救出者、および参考人を連れてきた」
「記録は受け取っています」
女性は頷いた。
「アシュ=ロア門審査官、サリア=モルドです」
サリア=モルド。
彼女は名乗ったあと、すぐにはノアの名を聞かなかった。
ノアはそれに気づいた。
これまで、どこへ行ってもまず名前を聞かれた。
港番にも、ミミルにも、ゼブにも。
名前を聞かれ、答え、途中で欠ける。
その繰り返しだった。
だがサリアは、ノアを見ても、名前を問わなかった。
代わりに、門の外側の壁を背にして言った。
「アシュ=ロアへようこそ」
その声は、風に乱されず、静かに届いた。
「ここでは、あなたが何者かを最初には問いません」
ノアは眉をひそめる。
「名前も聞かないのか」
「必要になれば聞きます。記録も取ります。ですが、最初に問うものではありません」
「じゃあ、何を聞く」
サリアは、ノアの目をまっすぐに見た。
まるで、ノアが昨夜から握りしめているものも、失いかけているものも、すでに分かっているかのような目だった。
「まず問うのは、ひとつだけです」
門の外側で、罵倒の碑が沈黙している。
風が黒い壁を撫で、刻まれた文字の影をわずかに動かした。
サリアは静かに続けた。
「あなたは、どこへ戻れませんか」




