表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/15

第二節 ― どこへ戻れないのか

「あなたは、どこへ戻れませんか」


 サリア=モルドの問いは、門前の風の中に静かに落ちた。


 ノアは一瞬、意味を取り違えたのかと思った。


 どこへ戻れないのか。


 それは、最初に訊かれるべきことではない。

 名前を聞くべきだ。出身地を聞くべきだ。何者か、どこから来たのか、なぜここへ流れ着いたのか、そういう順番のはずだった。


 なのに、この門の審査官は、ノアの名前を聞かなかった。


 帰りたいかどうかさえ、聞かなかった。


 ただ、戻れない場所を問うた。


「戻れない場所なんてない」


 ノアは即座に答えた。


 声が少し荒くなった。


「私は戻れる」


 サリアは否定しなかった。


 眉をひそめることも、笑うこともなかった。

 ただ、小さく頷いた。


「では、戻れる場所を確認しましょう」


 その落ち着いた声が、かえってノアの胸を逆撫でした。


 まるで、ノアの答えも想定内だと言われたようだった。


 門の内側へ案内される。


 ノアは歩きながら、背後を一度だけ振り返った。


 外側の壁には、まだ無数の罵倒が刻まれている。

 半魔。異形児。記録外。帰還拒否。焼却済。


 だが、門をくぐった途端、壁の印象は変わった。


 内側の壁には、文字がなかった。


 いや、正確には、何かがあった跡だけが残っていた。


 黒く塗りつぶされている。


 厚い黒い塗料が、石壁一面を覆っていた。ところどころ、下に刻まれた文字の溝だけが、わずかに凹凸として浮かんでいる。だが、読めない。読ませないために、黒く塗られている。


 ノアは足を止めかけた。


 リィゼが横を歩きながら、短く言う。


「見せたろ。内側は塗ってある」


「……本当に、消してはいないんだな」


「消したら、なかったことになる」


 それ以上、リィゼは言わなかった。


 門内の審査室は、ノアが想像していた役所とは違っていた。


 もちろん、机はある。

 記録用の黒晶板もある。

 壁には整理された名札棚があり、紐の色ごとに分けられた札が何列も吊るされている。


 だが、部屋の隅には救護用の寝台があり、薬湯の瓶や清潔な布、温められた石袋も置かれていた。窓は小さく、外から覗かれない高さにある。扉は厚いが、鍵は内側からも開く造りになっていた。


 尋問室ではない。


 逃げ込んだ者を、もう一度脅す場所ではない。


 それでもノアには、ここが落ち着く場所だとは思えなかった。


 机の向こうにサリアが座る。

 ノアはその前の椅子に座らされた。リィゼは壁際に立ち、バルドは書類を渡すためにサリアの横へ控える。


 救出された者たちは、別室へ案内されていた。

 名前を何度も呟いていた男も、片腕に鱗のある老女も、ここにはいない。


 今、この部屋で問われているのはノアだけだった。


「まず確認します」


 サリアは黒晶板を机の中央へ置いた。


 深い黒の板だった。ヴァル=クレイアの港番詰所で見たものよりも薄く、縁には細かな文字が刻まれている。


「ここで行うのは、入国審査ではありません」


「門なのに?」


「門だからです」


 サリアは静かに言った。


「この門は、入れるためにあります。けれど、どの形で入れるかを間違えれば、その人をもう一度傷つけます」


「私は入るつもりはない」


「はい。あなたの意思は、帰還希望として記録されています」


「希望じゃない。私は帰る」


「では、その帰還が可能か確認します」


 ノアは奥歯を噛んだ。


 サリアは怒らない。

 反論しない。

 ただ、言葉を受け取り、記録に置き換えていく。


 それがノアにはもどかしかった。


 もっと強く否定されたなら、こちらも怒れた。

 もっと冷たく扱われたなら、こんな場所は信用しないと言えた。


 だがサリアは、ノアが帰りたいことを否定しない。


 だからこそ、逃げ場がなかった。


「持ち物を確認しても?」


 ノアは外套の内側へ手を入れた。


 濡れた鞄。

 文字が滲んだ身分証。

 割れた懐中時計。

 鍵束。

 少額の外界貨幣。

 外界製の上着の留め具。

 そして、港内仮登録札。


 机に並べるたび、自分というものが物に分解されていくような気がした。


 これが自分を証明するものだ。


 そう思っていた。


 だが、今見ると、どれも頼りなかった。


 身分証は端が波打ち、文字の一部が白く抜けている。

 懐中時計は止まったまま。裏蓋には家紋らしき刻印があったはずなのに、細部が曇って読みにくい。

 鍵束はある。けれど、それがどこの扉を開ける鍵だったのか、ノアはうまく言葉にできなかった。


「これが身分証ですか」


 サリアが訊いた。


「ああ」


「黒晶板に置きます」


「壊れたりしないでしょうね」


「壊しません。記録反応を見るだけです」


 サリアは身分証を黒晶板の中央に置いた。


 黒い板の表面に、薄い光が走る。


 最初に浮かんだのは、細い外界文字だった。


 ノア=リントベル。


 ノアは息を止めた。


 出た。


 ちゃんと出た。


 ベルまである。


 胸の奥に、熱いものが湧き上がる。


「ほら」


 ノアは思わず言った。


「残ってる。私の名前は――」


 その言葉が終わる前に、光が揺らいだ。


 ベルの部分が薄くなる。


 黒晶板の上で、文字が白く滲み、輪郭を失っていく。


 ノア=リント――。


 まただ。


 ノアは椅子から立ち上がりかけた。


「今、出たでしょう」


「はい」


 サリアは静かに答えた。


「一度、反応しました」


「なら、残せるはずだ」


「残そうとして、抜けています」


「板が悪いんじゃないの?」


「この板は、門の標準審査用です。ヴァル=クレイアの黒晶札、仮名紙、石板の反応とも一致しています」


 ノアは何も言えなかった。


 サリアはさらに身分証を軽く動かし、別の欄を読み取らせる。


 出身地欄が浮かぶ。


 最初は文字があった。


 街の名。

 地区名。

 家の所在を示す短い記録。


 だが、それもすぐに薄れ始めた。


 ノアには読めそうで読めない。


 見慣れていたはずの文字なのに、紙の向こうで水に溶けていくように滲んでいく。


 船名欄も同じだった。


 ノアが乗っていたはずの船。

 事故の前にいたはずの場所。

 そこへつながる記録が、黒晶板の上でゆっくり白くぼやける。


「やめろ」


 ノアは低く言った。


 サリアは手を止めた。


「私が忘れたわけじゃない」


「はい。あなたは覚えている」


 即座に返ってきた言葉に、ノアは逆に詰まった。


「なら、どうして残らない」


「名があなたから消えているのではなく、あなたを受け取るはずの場所との接続が弱っています」


 ノアはサリアを睨んだ。


「意味が分からない」


「今は、それで構いません」


「構うでしょう」


「分からないまま、消えないようにするのが門の仕事です」


 サリアの声は変わらなかった。


 だが、その言葉はノアの胸に深く入った。


 消えないようにする。


 ここは、名前を奪う場所ではないというのか。


 仮呼びも。

 記録も。

 審査も。


 自分を削るためではなく、残すためだというのか。


 そんな都合のいい話があるかと思う。


 けれど、身分証の上でベルが消えた瞬間の恐怖は、まだ手の中に残っていた。

 ノアはそれを否定できなかった。


「質問を続けます」


 サリアは黒晶板の光を落とした。


「戻りたい場所はありますか」


「ある」


「そこに戻れば、あなたは保護されますか」


「される」


 ノアは即答した。


 だが、サリアはそこで少しだけ目を細めた。


「誰に?」


「家に」


「家の誰に?」


 ノアの喉が詰まった。


 誰に。


 名前を出そうとした。


 だが、うまく出てこない。


 顔は浮かぶ気がする。

 声も、どこかにある気がする。

 自分の名を呼ぶ人間がいたことは、確かだと思う。


 なのに、その輪郭が霧のように崩れる。


「……知っている人間がいる」


「名前は」


「いるんだ」


 声が荒くなった。


「私を知っている人間がいる」


「はい」


 サリアは、それも否定しなかった。


「では、その人たちの記録が残っているかを確認する必要があります」


「外界に問い合わせればいい」


「問い合わせ先が安定していれば、可能です」


「だから、私の身分証に――」


「その問い合わせ先が、いま薄れています」


 サリアは黒晶板に残った淡い光を見た。


「戻りたい場所はある。けれど、そこがあなたを受け取れるかが不安定です」


「そんな言い方をするな」


「では、別の言い方をします」


 サリアはノアを見る。


「あなたは、帰りたい場所を持っています。けれど、その場所へ安全に戻れるか、今は判断できません」


 ノアは拳を握った。


「私は亡命者じゃない」


「はい」


「逃げてきたわけじゃない」


「はい」


「メギド=ノクスに入りたいわけでもない」


「それも、記録します」


 淡々とした声。


 だが、そこに侮りはなかった。


 ノアはそれ以上、言葉を続けられなかった。


 リィゼが壁際で腕を組んでいる。


 いつものように口を挟んでこない。

 ただ、黙ってノアのやり取りを見ていた。


 助け船を出す気はないらしい。


 それが少し腹立たしく、同時にありがたくもあった。


 これは、ノア自身が答えなければならない問いなのだ。


 サリアは記録用の細い札を取り出した。

 白ではなく、薄い灰色の札だった。


「一時記録を作成します」


「また仮名か」


「仮名ではありません。現時点の記録反応です」


「同じでしょ」


「違います」


 サリアは初めて、少しだけ強く言った。


「仮名は、便宜のためにつける呼び名です。記録反応は、現在この世界が受け取れている範囲です。あなたの名そのものを決めるものではありません」


「私には名前がある」


「はい」


「ノア=リントベルだ」


「はい」


 サリアは頷いた。


「ですから、こう記します」


 彼女は黒晶板に指を置き、記録を刻む。


 板の上に、細い文字が浮かび上がる。


 氏名。

 ノア=リントベル。

 記録反応上、ノア=リント。


 状態。

 帰還先接続不安定。


 意思。

 帰還希望。


 扱い。

 亡命ではなく、漂着保護。


 要確認。

 名欠け札との関連。


 ノアはその文字を見つめた。


 ノア=リントベル。


 そこには、確かに書かれている。


 だが、その横に、記録反応上はノア=リントとある。


 二つの名前が並んでいる。


 本当の名と、世界が受け取る名。


 その間に、見えない亀裂がある。


「亡命ではない」


 ノアは念を押すように言った。


「ええ」


 サリアは静かに頷く。


「あなたはまだ、帰りたい人です」


 まだ。


 その言葉に、ノアは反応した。


「まだ、って何?」


「帰りたいという意思は、変わることがあります」


「変わらない」


「変わらないかもしれません」


 サリアは否定しない。


「だから、今は帰還希望として記録します」


「私を、ここに残すための口実じゃないの?」


「残すためではありません。消さないためです」


 ノアは歯を食いしばった。


 まただ。


 消さないため。

 残すため。

 浮き板。

 門。


 この大陸の言葉は、どれも檻の形をしているくせに、檻ではないと言う。


 けれど、自分の身分証は目の前で薄れた。

 出身地も、船名も、名前の最後も。


 それを見てしまったあとでは、ただの反発だけでは立っていられなかった。


 サリアは、灰色の札をノアのほうへ差し出した。


「この記録は、あなたをここへ縛るものではありません。あなたがどこへ向かうとしても、途中で消えないように持つものです」


 ノアは受け取らなかった。


 しばらく、札を見ていた。


 やがて、リィゼが言った。


「受け取っとけ」


「命令か」


「経験」


 ノアはリィゼを見る。


 リィゼの腰には、拾名屋の帳面と黒晶灯がある。

 彼女もまた、何かの記録を持ってここにいるのだろう。


 ノアはゆっくりと手を伸ばした。


 灰色の札は、黒晶札よりも軽かった。

 けれど、指に触れた瞬間、妙に冷たく感じた。


 サリアが言う。


「あなたはまだ、帰りたい人です」


 同じ言葉。


 だが、今度は少しだけ違って聞こえた。


「だからこそ、帰れない理由を調べます」


 ノアは札を握った。


 帰れない理由。


 そんなものはない。


 そう言い返したかった。


 だが、黒晶板の上で薄れていった出身地欄が、まだ目の奥に残っていた。


 言葉は喉まで上がり、そこで止まった。


 審査室の外では、門の内側を吹く風が、黒く塗りつぶされた壁を静かに撫でていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ