第二節 ― どこへ戻れないのか
「あなたは、どこへ戻れませんか」
サリア=モルドの問いは、門前の風の中に静かに落ちた。
ノアは一瞬、意味を取り違えたのかと思った。
どこへ戻れないのか。
それは、最初に訊かれるべきことではない。
名前を聞くべきだ。出身地を聞くべきだ。何者か、どこから来たのか、なぜここへ流れ着いたのか、そういう順番のはずだった。
なのに、この門の審査官は、ノアの名前を聞かなかった。
帰りたいかどうかさえ、聞かなかった。
ただ、戻れない場所を問うた。
「戻れない場所なんてない」
ノアは即座に答えた。
声が少し荒くなった。
「私は戻れる」
サリアは否定しなかった。
眉をひそめることも、笑うこともなかった。
ただ、小さく頷いた。
「では、戻れる場所を確認しましょう」
その落ち着いた声が、かえってノアの胸を逆撫でした。
まるで、ノアの答えも想定内だと言われたようだった。
門の内側へ案内される。
ノアは歩きながら、背後を一度だけ振り返った。
外側の壁には、まだ無数の罵倒が刻まれている。
半魔。異形児。記録外。帰還拒否。焼却済。
だが、門をくぐった途端、壁の印象は変わった。
内側の壁には、文字がなかった。
いや、正確には、何かがあった跡だけが残っていた。
黒く塗りつぶされている。
厚い黒い塗料が、石壁一面を覆っていた。ところどころ、下に刻まれた文字の溝だけが、わずかに凹凸として浮かんでいる。だが、読めない。読ませないために、黒く塗られている。
ノアは足を止めかけた。
リィゼが横を歩きながら、短く言う。
「見せたろ。内側は塗ってある」
「……本当に、消してはいないんだな」
「消したら、なかったことになる」
それ以上、リィゼは言わなかった。
門内の審査室は、ノアが想像していた役所とは違っていた。
もちろん、机はある。
記録用の黒晶板もある。
壁には整理された名札棚があり、紐の色ごとに分けられた札が何列も吊るされている。
だが、部屋の隅には救護用の寝台があり、薬湯の瓶や清潔な布、温められた石袋も置かれていた。窓は小さく、外から覗かれない高さにある。扉は厚いが、鍵は内側からも開く造りになっていた。
尋問室ではない。
逃げ込んだ者を、もう一度脅す場所ではない。
それでもノアには、ここが落ち着く場所だとは思えなかった。
机の向こうにサリアが座る。
ノアはその前の椅子に座らされた。リィゼは壁際に立ち、バルドは書類を渡すためにサリアの横へ控える。
救出された者たちは、別室へ案内されていた。
名前を何度も呟いていた男も、片腕に鱗のある老女も、ここにはいない。
今、この部屋で問われているのはノアだけだった。
「まず確認します」
サリアは黒晶板を机の中央へ置いた。
深い黒の板だった。ヴァル=クレイアの港番詰所で見たものよりも薄く、縁には細かな文字が刻まれている。
「ここで行うのは、入国審査ではありません」
「門なのに?」
「門だからです」
サリアは静かに言った。
「この門は、入れるためにあります。けれど、どの形で入れるかを間違えれば、その人をもう一度傷つけます」
「私は入るつもりはない」
「はい。あなたの意思は、帰還希望として記録されています」
「希望じゃない。私は帰る」
「では、その帰還が可能か確認します」
ノアは奥歯を噛んだ。
サリアは怒らない。
反論しない。
ただ、言葉を受け取り、記録に置き換えていく。
それがノアにはもどかしかった。
もっと強く否定されたなら、こちらも怒れた。
もっと冷たく扱われたなら、こんな場所は信用しないと言えた。
だがサリアは、ノアが帰りたいことを否定しない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「持ち物を確認しても?」
ノアは外套の内側へ手を入れた。
濡れた鞄。
文字が滲んだ身分証。
割れた懐中時計。
鍵束。
少額の外界貨幣。
外界製の上着の留め具。
そして、港内仮登録札。
机に並べるたび、自分というものが物に分解されていくような気がした。
これが自分を証明するものだ。
そう思っていた。
だが、今見ると、どれも頼りなかった。
身分証は端が波打ち、文字の一部が白く抜けている。
懐中時計は止まったまま。裏蓋には家紋らしき刻印があったはずなのに、細部が曇って読みにくい。
鍵束はある。けれど、それがどこの扉を開ける鍵だったのか、ノアはうまく言葉にできなかった。
「これが身分証ですか」
サリアが訊いた。
「ああ」
「黒晶板に置きます」
「壊れたりしないでしょうね」
「壊しません。記録反応を見るだけです」
サリアは身分証を黒晶板の中央に置いた。
黒い板の表面に、薄い光が走る。
最初に浮かんだのは、細い外界文字だった。
ノア=リントベル。
ノアは息を止めた。
出た。
ちゃんと出た。
ベルまである。
胸の奥に、熱いものが湧き上がる。
「ほら」
ノアは思わず言った。
「残ってる。私の名前は――」
その言葉が終わる前に、光が揺らいだ。
ベルの部分が薄くなる。
黒晶板の上で、文字が白く滲み、輪郭を失っていく。
ノア=リント――。
まただ。
ノアは椅子から立ち上がりかけた。
「今、出たでしょう」
「はい」
サリアは静かに答えた。
「一度、反応しました」
「なら、残せるはずだ」
「残そうとして、抜けています」
「板が悪いんじゃないの?」
「この板は、門の標準審査用です。ヴァル=クレイアの黒晶札、仮名紙、石板の反応とも一致しています」
ノアは何も言えなかった。
サリアはさらに身分証を軽く動かし、別の欄を読み取らせる。
出身地欄が浮かぶ。
最初は文字があった。
街の名。
地区名。
家の所在を示す短い記録。
だが、それもすぐに薄れ始めた。
ノアには読めそうで読めない。
見慣れていたはずの文字なのに、紙の向こうで水に溶けていくように滲んでいく。
船名欄も同じだった。
ノアが乗っていたはずの船。
事故の前にいたはずの場所。
そこへつながる記録が、黒晶板の上でゆっくり白くぼやける。
「やめろ」
ノアは低く言った。
サリアは手を止めた。
「私が忘れたわけじゃない」
「はい。あなたは覚えている」
即座に返ってきた言葉に、ノアは逆に詰まった。
「なら、どうして残らない」
「名があなたから消えているのではなく、あなたを受け取るはずの場所との接続が弱っています」
ノアはサリアを睨んだ。
「意味が分からない」
「今は、それで構いません」
「構うでしょう」
「分からないまま、消えないようにするのが門の仕事です」
サリアの声は変わらなかった。
だが、その言葉はノアの胸に深く入った。
消えないようにする。
ここは、名前を奪う場所ではないというのか。
仮呼びも。
記録も。
審査も。
自分を削るためではなく、残すためだというのか。
そんな都合のいい話があるかと思う。
けれど、身分証の上でベルが消えた瞬間の恐怖は、まだ手の中に残っていた。
ノアはそれを否定できなかった。
「質問を続けます」
サリアは黒晶板の光を落とした。
「戻りたい場所はありますか」
「ある」
「そこに戻れば、あなたは保護されますか」
「される」
ノアは即答した。
だが、サリアはそこで少しだけ目を細めた。
「誰に?」
「家に」
「家の誰に?」
ノアの喉が詰まった。
誰に。
名前を出そうとした。
だが、うまく出てこない。
顔は浮かぶ気がする。
声も、どこかにある気がする。
自分の名を呼ぶ人間がいたことは、確かだと思う。
なのに、その輪郭が霧のように崩れる。
「……知っている人間がいる」
「名前は」
「いるんだ」
声が荒くなった。
「私を知っている人間がいる」
「はい」
サリアは、それも否定しなかった。
「では、その人たちの記録が残っているかを確認する必要があります」
「外界に問い合わせればいい」
「問い合わせ先が安定していれば、可能です」
「だから、私の身分証に――」
「その問い合わせ先が、いま薄れています」
サリアは黒晶板に残った淡い光を見た。
「戻りたい場所はある。けれど、そこがあなたを受け取れるかが不安定です」
「そんな言い方をするな」
「では、別の言い方をします」
サリアはノアを見る。
「あなたは、帰りたい場所を持っています。けれど、その場所へ安全に戻れるか、今は判断できません」
ノアは拳を握った。
「私は亡命者じゃない」
「はい」
「逃げてきたわけじゃない」
「はい」
「メギド=ノクスに入りたいわけでもない」
「それも、記録します」
淡々とした声。
だが、そこに侮りはなかった。
ノアはそれ以上、言葉を続けられなかった。
リィゼが壁際で腕を組んでいる。
いつものように口を挟んでこない。
ただ、黙ってノアのやり取りを見ていた。
助け船を出す気はないらしい。
それが少し腹立たしく、同時にありがたくもあった。
これは、ノア自身が答えなければならない問いなのだ。
サリアは記録用の細い札を取り出した。
白ではなく、薄い灰色の札だった。
「一時記録を作成します」
「また仮名か」
「仮名ではありません。現時点の記録反応です」
「同じでしょ」
「違います」
サリアは初めて、少しだけ強く言った。
「仮名は、便宜のためにつける呼び名です。記録反応は、現在この世界が受け取れている範囲です。あなたの名そのものを決めるものではありません」
「私には名前がある」
「はい」
「ノア=リントベルだ」
「はい」
サリアは頷いた。
「ですから、こう記します」
彼女は黒晶板に指を置き、記録を刻む。
板の上に、細い文字が浮かび上がる。
氏名。
ノア=リントベル。
記録反応上、ノア=リント。
状態。
帰還先接続不安定。
意思。
帰還希望。
扱い。
亡命ではなく、漂着保護。
要確認。
名欠け札との関連。
ノアはその文字を見つめた。
ノア=リントベル。
そこには、確かに書かれている。
だが、その横に、記録反応上はノア=リントとある。
二つの名前が並んでいる。
本当の名と、世界が受け取る名。
その間に、見えない亀裂がある。
「亡命ではない」
ノアは念を押すように言った。
「ええ」
サリアは静かに頷く。
「あなたはまだ、帰りたい人です」
まだ。
その言葉に、ノアは反応した。
「まだ、って何?」
「帰りたいという意思は、変わることがあります」
「変わらない」
「変わらないかもしれません」
サリアは否定しない。
「だから、今は帰還希望として記録します」
「私を、ここに残すための口実じゃないの?」
「残すためではありません。消さないためです」
ノアは歯を食いしばった。
まただ。
消さないため。
残すため。
浮き板。
門。
この大陸の言葉は、どれも檻の形をしているくせに、檻ではないと言う。
けれど、自分の身分証は目の前で薄れた。
出身地も、船名も、名前の最後も。
それを見てしまったあとでは、ただの反発だけでは立っていられなかった。
サリアは、灰色の札をノアのほうへ差し出した。
「この記録は、あなたをここへ縛るものではありません。あなたがどこへ向かうとしても、途中で消えないように持つものです」
ノアは受け取らなかった。
しばらく、札を見ていた。
やがて、リィゼが言った。
「受け取っとけ」
「命令か」
「経験」
ノアはリィゼを見る。
リィゼの腰には、拾名屋の帳面と黒晶灯がある。
彼女もまた、何かの記録を持ってここにいるのだろう。
ノアはゆっくりと手を伸ばした。
灰色の札は、黒晶札よりも軽かった。
けれど、指に触れた瞬間、妙に冷たく感じた。
サリアが言う。
「あなたはまだ、帰りたい人です」
同じ言葉。
だが、今度は少しだけ違って聞こえた。
「だからこそ、帰れない理由を調べます」
ノアは札を握った。
帰れない理由。
そんなものはない。
そう言い返したかった。
だが、黒晶板の上で薄れていった出身地欄が、まだ目の奥に残っていた。
言葉は喉まで上がり、そこで止まった。
審査室の外では、門の内側を吹く風が、黒く塗りつぶされた壁を静かに撫でていた。




