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第三節 ― カランの札

 審査室を出ると、廊下の空気が少し変わった。


 アシュ=ロアの内側は、外から見た門の重々しさに比べると、不思議なほど静かだった。

 黒い石の壁。低く抑えられた黒晶灯。走る者のいない廊下。扉の前に立つ職員たちの声も、必要以上に大きくならない。


 ここでは、誰かの名を呼ぶ声さえ、慎重に扱われているように感じた。


 ノアは灰色の一時記録札を手にしたまま、サリア=モルドの後について歩いていた。


 札には、いまのノアの状態が記されている。


 氏名。

 ノア=リントベル。

 記録反応上、ノア=リント。


 その二行が頭から離れない。


 ノア=リントベル。


 確かに書かれた。

 だが、すぐ隣に、ノア=リントとある。


 それは、認められたようで、否定されたようでもあった。


 戻りたい人。


 帰還希望。


 帰還先接続不安定。


 門の言葉は、どれも冷静だった。

 冷静であるぶん、逃げ場がない。


 リィゼは少し後ろを歩いていた。

 彼女は何も言わない。


 いつものように余計な一言を挟んできてもよさそうなものなのに、黙っている。

 その沈黙も、ノアには落ち着かなかった。


 やがて、サリアは廊下の奥にある扉の前で立ち止まった。


 扉の上には、短い文字でこう記されている。


 照合室。


「ここで、《白腹鴉》号から押収されたものを確認します」


 サリアが言った。


「あなたにも見てもらいます」


「私に?」


「あなたは、ゼブ=カランと直接接触しています。乗船符を受け取り、契約片を読み、船内の荷を見た。確認者として必要です」


「証人ってことか」


「はい」


 サリアは一拍置いて続けた。


「それと、あなた自身の記録反応に関わるものが見つかっています」


 ノアの手が、一時記録札を握る。


 リィゼがわずかに視線を上げた。


 扉が開かれる。


 照合室は、審査室よりもさらに静かだった。


 中央に大きな卓がある。

 その上に、白い布が何枚も敷かれ、押収品が種類ごとに並べられていた。


 荷札。

 契約片。

 乗船符。

 外界貨幣。

 偽造と思われる身分証。

 小さな名札。

 首にかけるための紐。

 黒い染みのついた漂着者札。


 壁際には黒晶写しの板が並んでいる。

 ヴァル=クレイアから送られてきたミミル=ハンドの記録が、薄い文字となって浮かんでいた。


 ノアの仮名紙の写し。

 黒晶札の反応。

 《白腹鴉》号の契約片。

 救出者の首から外された札。

 ゼブ=カランの特徴記録。


 机の中央には、布に包まれた一枚の古い札が置かれていた。


 サリアは手袋をつけ、それを静かに開く。


 潮に削られた木札だった。


 角は欠け、紐は半ば腐り、表面には黒い潮染みがこびりついている。

 それでも、途中まで文字は残っていた。


 エリオ=カラン――。


 ノアは息を止めた。


 分かっていたはずだった。


 先日の夜明け前、南入江の岩場で見た。

 ミミルが拾い上げ、バルドが険しい顔で確認していた。


 それでも、こうして明るい部屋で、白い布の上に置かれると、札の異様さはさらに際立った。


 名前の後ろが、消えている。


 擦れているのではない。

 削れているのでもない。


 その部分だけ、最初から世界が受け取らなかったように白く抜けている。


 ノアは自分の仮登録札を見た。


 ノア=リント。


 そして、卓の上の札を見る。


 エリオ=カラン――。


 似ている。


 似ていると思いたくなかった。


 だが、似ていた。


「この欠け方は、紙の破損ではありません」


 サリアが言った。


 木札を黒晶照合板の上に置く。

 板の上に、薄い光が走った。


 エリオ=カラン――。


 同じ文字が浮かぶ。


 後半は、やはり白く抜けている。


「木の劣化でも、潮による削れでもない。記録上の欠損です」


「私と同じなの?」


 ノアは訊いた。


 声が自分でも嫌になるほど硬かった。


「同系統の反応です」


 サリアは慎重に答える。


「ただし、原因が同じとはまだ言えません」


「同系統って何?」


「名の一部が本人側ではなく、記録側で受け取れなくなっている反応です」


「また、それか」


 ノアは吐き捨てるように言った。


「受け取れないとか、接続が弱いとか、そんな言い方ばかりだ」


「いま確実に言える範囲を越えて断定すると、間違えます」


 サリアの声は変わらない。


「間違えた記録は、人を傷つけます」


 ノアは言い返せなかった。


 門の外側に刻まれていた言葉が、頭をよぎる。


 半魔。

 異形児。

 血統不適。

 記録外。


 あれも、誰かが断定した言葉だったのだろう。


 誰かを分かったつもりで、切り捨てるために。


 照合室の扉が開いた。


 バルド=グレイムが入ってくる。

 手には黒晶板を持っていた。ヴァル=クレイアからの追加報告らしい。


「遅れた」


「構いません」


 サリアが頷く。


「ゼブ=カランについての追跡記録は?」


「逃走艇は南東岩礁で痕跡が途切れた。だが、港裏の複数人が、同じ男を帰船屋として見ている。名はゼブ=カラン。少なくとも三度、漂着者に接触していた可能性がある」


「本名ですか」


「分からん」


 バルドは卓上の札を見る。


「だから厄介だ」


 ノアは顔を上げた。


「エリオ=カランと関係があるのか」


 バルドはすぐには答えなかった。


 サリアが、代わりに言う。


「可能性はいくつかあります」


 彼女は木札の横に、ゼブの特徴記録を置いた。


「ゼブ=カランが本名であり、エリオ=カランと血縁または同じ帰還先を持つ可能性」


 次に、押収された契約片を置く。


「ゼブが、エリオ=カランの名を利用している可能性」


 さらに、複数の乗船符を並べる。


 どれにも、白い腹を見せる鴉の印が刻まれていた。


「あるいは、カランという名そのものが、密輸組織の中で使われる偽名、屋号、または欠け名の管理符号である可能性」


「管理符号?」


 ノアは眉をひそめた。


「人の名前を、符号にするのか」


「密輸組織が人を人として扱っていれば、昨夜の箱はありません」


 サリアの声は静かだった。


 だが、その言葉は重かった。


 ノアの脳裏に、木箱の内側から出ていた指が浮かぶ。


 細い指。

 汚れた爪。

 震えていた。


 外界へ帰れるって、言われたのに。


 ノアは拳を握った。


 バルドが黒晶板を卓に置く。


「もうひとつ、証言が取れた」


 サリアが目を向ける。


「救出者からですか」


「ああ。本人の状態が安定している範囲で、短く聞いた」


 黒晶板の上に、薄い記録が浮かぶ。


 声紋ではない。

 聞き取りを記録した文字だった。


 証言者。

 氏名未確定。

 《白腹鴉》号船倉より救出。

 首札分類:身元不明/名欠け/外界返し対象。


 そして、その下に証言が続く。


 ゼブは言っていた。

 名前が欠けていても、向こうへ戻れば家族が思い出す。

 門に行けば、ここに残される。

 港番に任せれば、亡命者にされる。

 帰りたいなら、今夜の船しかない。


 ノアは動けなくなった。


 同じだ。


 自分が聞いた言葉と同じだった。


 外界へ戻れば、証明できる。

 書類は修復できる。

 港番より船を信じるべきだ。

 帰りたい人間に必要なのは、同情ではなく船だ。


 それは、ノアだけに向けられた言葉ではなかった。


 帰りたい者すべてに投げられる餌だった。


 サリアが、別の契約片を取り上げる。


「こちらは、救出者の荷から見つかった偽乗船契約です」


 油紙に小さな文字がびっしりと並んでいる。

 ノアが昨夜読んだものと、ほとんど同じ形式だった。


 サリアは、ある一箇所を指した。


「分類欄」


 ノアはそこを見る。


 帰還希望。


 ただ、その四文字があった。


 分類として。

 荷の仕分けとして。

 売買のための状態として。


 ノアの中で、何かが熱くなった。


「ふざけるな」


 低い声が出た。


 リィゼがノアを見る。


 ノアは契約片を睨みつけた。


「帰りたいって言っただけでしょう」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 ゼブか。

 密輸船か。

 この契約片を書いた誰かか。

 それとも、昨夜それを信じかけた自分か。


「帰りたいって言っただけで、どうして分類される。どうして値段をつけられる。どうして箱に詰められる」


 声が少しずつ大きくなる。


「私だけじゃない。あの人たちも、帰れるって言われたから乗ったんでしょう。名前が欠けてても、家族が思い出すって言われたから信じたんでしょう」


 ノアは、卓の上の札を見る。


 エリオ=カラン――。


「それを、利用したのか」


 誰もすぐには答えなかった。


 答えられる問いではなかった。


 サリアは静かに言う。


「その可能性が高いです」


「可能性じゃないでしょう」


「断定するには、ゼブ=カランの身柄、組織の帳簿、過去の行方不明者記録との照合が必要です」


「そういう話をしてるんじゃない」


 ノアはサリアを睨む。


「人が帰りたいって言ったんだ。それだけだ。それを、あいつらは――」


 言葉が詰まった。


 自分も、そのひとりだった。


 自分も帰りたいと言った。

 外界へ戻れば何とかなると思った。

 リィゼの警告を無視した。

 港番より船を信じかけた。


 その自分を責める気持ちは、まだある。


 だが今、ノアの怒りは自分だけに向いていなかった。


 箱の中にいた若い男。

 鱗のある老女。

 言葉を失った少女。

 名を何度も呟いていた誰か。


 彼らも同じ言葉で誘われ、同じように箱に詰められた。


 それが、許せなかった。


 リィゼが小さく息を吐く。


「やっと、外を見たな」


 ノアは彼女を見る。


「何よ」


「自分が騙されたことだけで怒ってる顔じゃない」


 その言葉に、ノアは反発しようとした。


 だが、言葉が出なかった。


 リィゼはそれ以上言わない。


 サリアは、エリオ=カランの札、ゼブの記録、偽契約片、ノアの一時記録札を順に見比べた。


「ここで、仮説を立てます」


 部屋の空気が、少しだけ硬くなる。


「第一に、《白腹鴉》号は帰還希望者、とくに名欠けや身元不明の者を選んで誘導していました」


 サリアの指が、契約片の分類欄に触れる。


「第二に、ゼブ=カランは、帰還希望者が最も聞きたい言葉を使っていました」


 証言記録に視線が移る。


「第三に、エリオ=カラン――の札は、ノアさんの記録反応と同系統の欠損を示しています」


 最後に、サリアはノアを見た。


「そして第四に、ノアさんの名欠けは、漂着直後から確認されています。密輸船接触後に生じたものではありません」


「つまり、何?」


 ノアの声は掠れていた。


 サリアは、一つずつ言葉を選ぶように言った。


「この漂着は、事故ではない可能性があります」


 ノアは身体を強張らせた。


「私が自分でここへ来たって言うの?」


「いいえ」


 サリアは首を振った。


「あなたが選んだという意味ではありません」


「じゃあ、何?」


「あなたの名が、何かに引かれてここへ流れ着いた可能性があるという意味です」


 照合室の黒晶灯が、わずかに揺れた。


 ノアはその言葉を理解しようとした。


 名が、引かれた。


 身体ではなく。

 荷物でもなく。

 船でもなく。


 名前が。


「意味が分からない」


 かろうじて、それだけ言った。


「はい」


 サリアは静かに頷いた。


「現時点では、分からないままで構いません。ただ、事故として処理するには、欠け方が揃いすぎています」


 バルドが低く言う。


「ヴァル=クレイアだけの案件じゃないな」


「はい。アシュ=ロアで記録を固定したうえで、ナハト=リムへの照会が必要になります」


 ナハト=リム。


 また知らない地名が出た。


 ノアは訊き返す余裕もなかった。


 頭の中で、サリアの言葉が繰り返されている。


 あなたの名が、何かに引かれてここへ流れ着いた。


 それは、自分が帰れないかもしれないという恐怖とは別のものだった。


 自分の意思より先に、自分の名がどこかへ流されている。


 そんなことがあるのか。


 あってたまるか。


 けれど、黒晶板の上で消えたベルを、ノアは見ている。

 エリオ=カランの札の後ろが白く抜けているのも、今ここで見ている。


 否定の言葉が、うまく形にならない。


 リィゼが、卓の上の札を見つめたまま、小さく呟いた。


「帰り道のほうが裂けてる、か」


 ノアは彼女を見た。


 それは、ヴァル=クレイアで彼女が言った言葉だった。


 名前が濡れたんじゃない。

 帰り道のほうが裂けてる。


 あのときは、意味が分からなかった。


 今も、分かったわけではない。


 ただ、帰るという言葉の足元に、見えない割れ目があることだけは感じた。


 ノアは何も言えなかった。


 照合室の卓上で、エリオ=カラン――の札が、黒晶灯の光を受けて静かに沈黙している。


 そしてその隣で、ノアの一時記録札もまた、冷たい灰色のまま置かれていた。


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