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終節 ― 受け入れは檻ではない

 アシュ=ロアの夕方は、海の町とは違う色をしていた。


 ヴァル=クレイアの夕暮れは、潮と黒晶灯の紫が混じる。

 だが、この門の内側に落ちる光は、乾いていた。黒い石壁の上を、赤みの薄い夕日が滑り、塗りつぶされた文字の凹凸だけを、かすかな影として浮かび上がらせている。


 ノアは、内門の前に立っていた。


 門の外側にあった罵倒の碑は、こちら側からは読めない。


 黒く塗られている。


 ただの黒壁ではなかった。

 近づけば分かる。下には、何かが刻まれている。石の奥に、無数の傷がある。塗料はそれを覆っているだけで、消してはいない。


 読ませない。

 けれど、なかったことにはしない。


 リィゼが言った意味が、少しだけ分かる気がした。


 分かりたくない、という気持ちもまだある。

 こんな壁を残しておく必要があるのか、という苛立ちも残っている。


 だが、外側で膝を折った老女の姿が、ノアの中から消えなかった。


 言葉は、人に残る。


 石にも残る。


 自分が「メギド=ノクスの人間じゃない」と言ったとき、その言葉がどんな形でリィゼに届いていたのか。

 ノアは、まだ真正面から考えられない。


 けれど、考えずに済ませることも、もうできなかった。


「ノアさん」


 背後から、サリア=モルドの声がした。


 振り返ると、彼女は黒い封筒のようなものを手にしていた。

 紙ではない。薄い黒晶板を紙のように加工した、門の紹介状だった。表面に細い灰銀の文字が浮かんでいる。


 リィゼは少し離れた場所で、壁にもたれて腕を組んでいる。

 バルドはすでにヴァル=クレイアへ戻る準備に入っていた。救出者たちも、それぞれ別の部屋で手当てと確認を受けている。


 この場にいるのは、ノアと、リィゼと、サリアだけだった。


「審査結果です」


 サリアはそう言った。


 ノアは身構える。


「結果って、何の」


「あなたを、アシュ=ロア通過保留者として扱います」


 聞き慣れない言葉だった。


「通過保留者?」


「正式な帰属は、まだ定めません。亡命者としても、移住者としても、帰還完了者としても扱いません」


「つまり、ここに閉じ込めるのか」


 ノアの声が硬くなる。


 まただ、と思った。


 保護。審査。記録。確認。

 どれも檻ではないと言いながら、結局はどこかへ置かれ、誰かに判断される。


 サリアは、やはり怒らなかった。


「いいえ。受け入れは檻ではありません」


 静かな声だった。


「檻にしないために、次の場所へ送ります」


 ノアは眉をひそめる。


「次の場所?」


「ナハト=リムです」


 知らない名ではなかった。

 前に見た漂着者詰所の壁にあった札。あのときサリアが口にした地名。


 ナハト=リム紹介待ち。


 あのときは、ただの分類名にしか見えなかった。


「そこは何なんだ」


 ノアが訊くと、リィゼが先に答えた。


「無籍者の街」


「無籍者?」


「どこの籍にも置けない奴。置かないほうが安全な奴。いまの呼び名を整える必要がある奴。そういう連中が行く」


 ノアの顔が強張る。


「私は無籍者じゃない」


「今は、まだ何者としても安定してない」


 リィゼの言い方はきつかった。


 だが、サリアがそれを少しだけ整えるように続ける。


「アシュ=ロアは入口です。ここでは、あなたが何者かを最初には決めません。どこへ戻れるか、どこへ戻れないか、どの記録で傷つくかを確認します」


 彼女は黒晶板の紹介状をノアへ見せた。


「ナハト=リムは、その先です。今の呼び名で人を扱う場所。正式な本名に届かない者を、空白のまま放置しない場所です」


「私には本名がある」


「はい」


「私は、ノア=リントベルだ」


「はい」


 サリアは頷いた。


 その肯定は、軽くなかった。


 ノアは続ける。


「なのに、そっちの記録ではノア=リントなんでしょう」


「はい」


「それは、私の名前を削ってるのと何が違うの」


 サリアは、少しだけ沈黙した。


 ごまかすための沈黙ではなかった。

 どう言えば、余計に傷つけずに済むかを考える沈黙だった。


「削るためではありません」


 やがて、彼女は言った。


「消えきらないように、残る部分を先に固定しているのです」


 ノアは答えなかった。


 サリアはさらに続ける。


「あなたがノア=リントベルであることを、こちらは否定しません。ですが、現時点で記録が安定して受け取れるのは、ノア=リントまでです。ならば、その残る部分を固定します。そこから先を探すために」


「探す?」


「はい。失ったものを決めつけるのではなく、欠けている場所を調べるために」


 ノアは胸元の仮登録札に触れた。


 ノア=リント。


 最初は、それを見るだけで腹が立った。


 自分の名前を削られたようだった。

 勝手に短くされたようだった。

 この大陸に、別の名で登録されることが、屈辱だった。


 今も、屈辱ではある。


 だが、昨夜の船でゼブにその札を奪われた瞬間、ノアは自分が何者として売られかけていたのかを見た。


 身元不明。

 名欠け。

 外界返し対象。

 帰還希望。


 それらの札よりは、ノア=リントのほうが、まだ自分に近かった。


 そう認めるのが悔しかった。


「仮呼びは檻じゃない」


 リィゼが言った。


「沈まないための浮き板だって言ったろ」


「……覚えてる」


「なら、今度は握っとけ。蹴飛ばすのは、泳げるようになってからにしろ」


「言い方」


「分かりやすいでしょ」


 ノアは返事をしなかった。


 けれど、第1話のときのように即座に否定することもできなかった。


 サリアは紹介状に記録を刻む。


 黒晶板の上に、細い文字が順に浮かび上がった。


 宛先。

 ナハト=リム無籍者審査官。

 オルフェ=セプティア。


 対象。

 ノア=リント。

 自称ノア=リントベル。


 ノアはその二行目に眉を動かした。


「自称って何?」


「あなたの申し立てとして、正式に残すための表記です」


「疑ってるみたいに見える」


「疑いではなく、未確認です」


「同じでしょ」


「違います」


 サリアは穏やかに言った。


「疑いは、相手を退けるために使われることがあります。未確認は、確認するために残します」


 ノアは黙った。


 紹介状の記録は続く。


 状態。

 帰還先接続不安定。


 意思。

 帰還希望。


 推奨。

 仮保護名の再設定。


 注意。

 同系統の名欠け札あり。


 関連。

 エリオ=カラン――。

 ゼブ=カラン。


 カラン。


 その名を見ると、ノアの胃の奥が冷えた。


 ゼブの笑み。

 白い腹の鴉。

 契約片。

 箱の中の指。

 帰れるという嘘。


 そして、エリオ=カラン――の欠けた札。


 自分の漂着が事故ではない可能性がある。


 サリアの言葉が、また胸の奥で沈む。


「この漂着は」


 サリアは紹介状を閉じながら言った。


「事故ではない可能性があります」


 ノアは視線を上げた。


 その言葉は、照合室でも聞いた。

 だが夕方の内門で、黒く塗りつぶされた壁を背にして聞くと、さらに重く響いた。


「あなたの名は、帰還先から切れかけている」


 サリアは静かに続ける。


「それが、ただの偶然なのか。何者かに引かれた結果なのか。エリオ=カランの札やゼブ=カランと関係があるのか。今の段階では断定できません」


「じゃあ、ナハト=リムに行けば分かるのか」


「すべては分かりません」


 サリアは正直に言った。


「ですが、あなたが今どの呼び名で安定できるかを調べられます。そこを定めなければ、帰る道も、探す道も、危うくなります」


「私は、帰るのを諦めるために行くんじゃない」


「はい」


「ここに入るためでもない」


「はい」


「なら、何のために行く」


 サリアは紹介状をノアへ差し出した。


「帰りたいという意思を、失わないために」


 ノアはその言葉を聞いた。


 予想していた答えではなかった。


 帰るために。

 調べるために。

 保護するために。


 そう言われると思っていた。


 だが、サリアは「帰りたいという意思を失わないため」と言った。


「帰りたいという願いは、証明ではありません」


 サリアは言う。


「けれど、捨てさせるものでもありません」


 ノアは紹介状を受け取った。


 薄い黒晶板は、見た目よりも軽かった。

 だが、手に持つと、妙に重い。


 ナハト=リム。

 オルフェ=セプティア。


 知らない場所。

 知らない人物。


 また、自分の意思ではない方向へ運ばれていくような気もする。


 けれど、今度は何も分からないまま船に乗るわけではなかった。

 黒い箱へ詰められるわけでもない。

 契約片の細かな文字に騙されるわけでもない。


 自分は、紹介状を持って歩く。


 それだけの違いが、今は大きかった。


 夕方の鐘が鳴る。


 アシュ=ロアの内門に、低い音が響いた。


 サリアが門の奥へ視線を向ける。


「今夜は門内で休んでください。明朝、ナハト=リム行きの便を手配します」


「リィゼも来るのか」


 ノアが訊くと、リィゼが片眉を上げた。


「来てほしくないのか」


「そうは言ってない」


「じゃあ、行く」


「あなたの仕事はいいの?」


「拾ったものは、最後まで届ける」


「私は物じゃない」


「だから、今度は自分で歩け」


 ノアは一瞬、何かを言い返そうとして、やめた。


 それくらいなら、いいと思った。


 自分で歩ける。


 それは、悪くない言葉だった。


 ノアは内門をくぐった。


 門の内側の壁は、黒く塗りつぶされている。


 何も読めない。


 けれど、そこに何かがあったことだけは分かる。

 削られず、なかったことにもされず、ただ読ませないために覆われた言葉たち。


 ノアは壁のそばを通る。


 その瞬間だった。


 黒い塗りの下に、白い文字が浮かんだ気がした。


 ほんの一瞬。


 夕暮れの光が凹凸に触れただけかもしれない。

 黒晶灯の反射かもしれない。

 疲れた目の錯覚かもしれない。


 それでも、ノアには見えた。


 ――ベル


 ノアは振り返った。


 壁は黒いままだった。


 何も浮かんでいない。

 何も読めない。


 リィゼが立ち止まる。


「どうした」


「今……」


 言いかけて、ノアは口を閉じた。


 見間違いかもしれない。


 だが、胸の奥が強く鳴っている。


 ベル。


 自分の名の、欠けた部分。


 それは消えたのではないのか。


 どこかに、まだあるのか。


 ノアは壁から目を離せなかった。


 サリアが、ノアの後ろで静かに言う。


「門は、失ったものを返す場所ではありません」


 ノアは振り返らない。


「ですが、失ったと決める前に、残っているものを確かめる場所です」


 風が通る。


 黒く塗られた壁の上を、夕方の影がゆっくりと伸びていく。


 ノアは紹介状を握りしめた。


 帰る。


 その言葉は、まだノアの中にある。


 だが、形が少しだけ変わっていた。


 ただ外界へ戻ればいいのではない。

 戻る先が、本当に自分を受け取るのか。

 自分の名を最後まで呼べるのか。

 そこを確かめなければならない。


 帰りたい。


 それは変わらない。


 けれど、帰るという道の前に、確かめなければならない裂け目がある。


 ノアは黒い壁に背を向けた。


 内門の奥へ進む。


 リィゼが隣に並ぶ。


「行くぞ、ノア」


 仮呼びでも、本名でもない。


 ただ、ノア。


 ノアは少しだけ遅れて頷いた。


「ああ」


 アシュ=ロアの内門の向こうに、夜の灯がひとつずつ点り始める。


 その先に、ナハト=リムがある。


 無籍者の街。

 今の呼び名で人を扱う場所。

 そして、オルフェ=セプティアという審査官が待つ場所。


 ノアはまだ、それを知らない。


 ただ、胸元の仮登録札と、手の中の紹介状と、消えたはずのベルの一瞬の白さだけを持って、門の奥へ歩き出した。


 第3話 ― 受け入れの門は問いかける 了。


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